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セクハラおじいさん。
在宅サービスステーションMで活動していた時。
あるひとりの、おじいさんと出会いました。


『あんた、新しく入った職員か?』


送迎の車で来た利用者さんにお茶を入れてる為、ポットでお湯を注いでいたとき、後ろから、声をかけられました。


『あっ、はい。ボランティアでお世話になる事になりました。
Ressarです。』


笑顔で言う私に、おじいさんは、笑顔を返しながら、どさくさに紛れてお尻を触っていました(笑)。


それが、私とOさんの出会いでした。



そう、このOさん。
このディでは、ちょっとした問題児だったのです(笑)。
施設で可愛い職員を見つけては、どさくさに紛れてお尻を触ってきました。その時、ディで一番若かった私に、魔の手が忍び寄った事は、言うまでもありません。


いつも、私のお尻を挨拶代わりにタッチしては、私からもスタッフからも叱られていました。


けれども、それは決して、いやらしいものではなく、Oさんの言わば日課であり、時間が経つにつれ、私も気にならなくなりました。


それが、Oさんのコミュニケーションだったのですから。


Oさんは、脳梗塞で右半身麻痺の人でした。
軽度の言語障害もあります。


それでも、私はOさんとお喋りするのが好きでした。


毎朝、ディの送迎車で、来られたOさんを確認した後、私は下の事務に走り、新聞を取ってきます。
そして、Oさんに温かいお茶と新聞を渡すのが、私の仕事でもありました。


利用者さんの迎えの送迎が一段落した頃、Oさんの座っているグループに入って行く事が多かった。
Oさんとは、色々な話をしました。
戦争時代の事、病気の事、家族の事、子ども時代の事。
私がスタッフに呼ばれ席を立ったり、他の利用者さんの介助で席を立つと、暫くしてOさんからのお呼びがかかります。


私は苦笑いしながら、Oさんとの話を続けました。


やんちゃで、いつも私やスタッフを困らせていたOさん。
私が再発して入院したり、流行性の感染症にかかり休んだりすると、次の週に私の姿を見つけると、


『何で休んでたんや?心配しとったぞ。』


と、本当に悲しそうな目で訴えかけるように言いました。




そして、Oさんと同じグループにいつも居たのが、KさんとOさん(女性)というおばあさんでした。
KさんとOさん(女性)は仲が良く、家も近いようで、ディの送迎車にもいつも同じで、来ました。




Kさんは、私と同じ先天性の目の疾患で、極度に光をまぶしがり、いつも室内ではサングラスをかけていました。
私は活動中は、コンタクトでしたが、やはり、まぶしいのが苦手で、
Kさんとは意気投合していました。



ある一部の利用者さんにおいて、病名は伝えてはいないものの、私が病弱であることは、いつの間にか知れ渡っていたようです。

いつも青白い顔。血色が悪い手足。生気がない顔は、とても健康とは言い難いもののようでした。


在宅サービスステーションMでは、施設に入ると真っ先にスタッフルームへ行き、自分の名前が書かれたNAME札を表にします。
札を表にすると、出勤してきている。という合図なのです。
そして、職員用のジャージに着替えます。
私は、小柄で、まだ子どもだったので、大人のサイズしかない常備している職員用のジャージでは、とても大きく、特別発注してくれました。
そして、施設に入る際に、専用のシューズにも履き変えて、活動に入ります。


そのジャージを着てても、私の身体に、治療や検査によって傷つけられた傷跡は、見えてしまう事がありました。


ふと、腕まくりをして活動していたときの事。
Oさん(男性)が、私の左腕に出来たいくつもの、点滴痕を見つけました。



Oさん『これ、どうしたんや?』
Ressar「あっ・・・点滴してて・・・その痕ですよ。」


Oさんは、そうか、でも点滴でこんな痕になるか?
と、不思議そうでしたが、私がその場から離れてしまったので、
それ以上は何も言いませんでした。



私の血管は非常に脆く、少しの刺激だけで、いや、血液の圧にも
耐えられず、毛細血管が破壊され、出血します。
この度重なる点滴の痕も、その血管が破壊された破壊痕です。



ここのディの利用者さんは、私の事を自分の孫のように、とても
可愛がってくれました。
スタッフでさえも、我が子のように接してくれました。




私が、ここも続けていけないと知り、最後の日。
お別れ会を開いてくれた時は、みんな涙顔でした。


私は、こんなにも想ってくれていた人がいたんだ。
ただ、この世に恩を返したい。人の役に立ちたい。
と想って、ただ、それだけの思いで入ったこのボランティア。


こんなに頼りないボランティアを、こんなに泣き虫なボランティアを、
こんなに子どもなボランティアを、こんなに弱いボランティアを、


心から信頼し、信じてくれた利用者さんとその家族。スタッフ。
頼ってくれた利用者さん。


私はただただ、彼らに感謝するしかありませんでした。


私との別れを惜しんで涙を流してくれた利用者さん。
私は、泣かれるほど、別れを惜しまれるほど、彼らに何をしたでしょうか。
ただ、自己満足で続けていたに違いない。
別れを惜しまれるほど、私には価値も何もありません。


それでも、彼らが流してくれたその涙は、私の心を温かく、優しく
包んでくれました。


いつもお尻を触っては私に、叱られていたOさんもこの日は、朝から
元気がなく、とても悲しそうな表情をしていました。


そして、最後まで、私の手を握っていました(笑)。
最後だからと、私もその手を振り払うことなく、握り返してた。


ここで出会った人たちは、私の人生に大きな影響を与えました。
ここを辞めてから、何人かの利用者さんが亡くなったとの知らせを受け取りました。
その度に、空に向かって、思いを巡らせています。


唯一の情報源だった彼も、私が辞めてから暫くして隣接された特養に異動になったので、彼らの情報も途絶えてしまいました。


今、時々私の耳に入る情報と言えば、
「○○さんが亡くなった。」
というようなものばかり。


そして私はもう、施設の人間ではありません。
個人情報保護法で、利用者さんのその後の経過も安易に、聞けなくなりました。


彼らの情報が分からなくなった今。
あのOさんが、どうしているのか、元気で居るのかも、私には分かりません。
情報は不明確で、勝手に想像するのみです。



でも、きっと。



また、新しい可愛い職員を見つけては、相変わらずのセクハラ精神で、
若い子のお尻を触っているのでしょうか。



少し歳のいった職員には、手を出さないので、


「なんであたしには、触らないのよ!!」


と、怒られていたOさんのにやけ顔が、想いだされます。




ありがとう。
たくさんの思い出をくれて。


ありがとう。
たくさんの優しさをくれて。





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【2006/11/13 12:01 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
すべてのボランティアをやめて、1カ月後のクリスマス。
私は、MTディサービスセンターの責任者の方に呼ばれ、クリスマス会に参加していました。
もう、これが、本当に、最後だという思いで。


同じ、在宅サービスステーションMで働いていた彼と、その後利用者さんの近況も聞いたりしていましたが、のちに彼も隣接された特養へと異動し、彼らの情報は、途絶えてしまいました。来る連絡といえば、
『〇〇さんが、亡くなった。』というものばかり。
そのころの私は、もう動く事もやっと、であり、本当にあの頃、動けていた自分が信じられないくらい弱っていました。


その後一気に体調を崩し、今まで苦労して、登ってきた坂道を、まるで転がり落ちるように、急激に悪化し始めました。
そして今。寝たきりとなり、自分では何も出来なくなった。それは、ある一方で、予期していたことだったのかも知れません。
今は、あの頃がただただ、懐かしく、感傷に浸るばかりです。


あの頃、無理をしなければ、病気はこんなに早く進行しなかったかも知れない。
まだ、歩く事は出来たかも知れない。


でも、後悔はしていません。
あれが、私が望んだ道だった。これが、私が選んだ選択だった。そして、これが、私の人生です。


ボランティアで学んだことは、たくさんあります。
ボランティアで教えられたことは、たくさんあります。
ボランティアで見たものは、たくさんあります。
ボランティアで経験したものは、たくさんあります。


そのどれもが、私の人生の財産であり、守り続かれる宝物となるものでした。
ボランティアをしていて、よかった。
あの時、無理をして、よかった。
あの日、自分の信念を貫いて、よかった。


もし、私が病気でなかったら、きっとボランティアをしたいなんて、思わなかった。自分を見失う事もなかったでしょう。ふつうに、暮らしていたら、気づかないことに、病気を通して気づいたことは、いくらでもあります。
彼らと出会えたことに、感謝します。
あの、辛かったけれども、幸せだった日々を、一時でも持てた事を、誇りに思います。


ボランティアとして、彼らに関る事が出来た事を。
ボランティアとしての、存在意義を、そして私個人の生きる価値を再び、見いだす事が出来たこと。
それは、すべて、ボランティアが教えてくれたことでした。人を向き合う事が怖く、人と関る事を拒絶していたあの頃。自分を見失い、自暴自棄となっていたあの頃。中途半端な想いで、入ったこの世界。
でも、そこは思ったより厳しくて、それでも優しい世界でした。人を思いやる気持ち、人をいたわる心、人を信じる強さ、人を好きになる想い。
人として、いくらか未熟だった私は、ほんの少し。ここで、成長できた気がします。
もう、自分を見失ったりはしない。そう、ぜったいに。
これから、何があろうとも。。


ボランティアの頃、繋がりを持った、人たちは、今でも私の良き理解者であり、時にヘルプをしてくださるサポーターです。元気がない時、しんどい時、手をさしのべてくれる、人がいる。
そう、このボランティアで、私は、またひとつ。
大切なものに、気づかされたのです。


もう、見失いたくない。
やっと、手に入れた『希望』と『勇気』を。

ずっと病気ばかりで、本当に、病院と家が、生活の場所だった。
そこから、一歩。社会に出た、まだ中一だった幼き私。学校にもいけなくて、社会の事なんて、全然分からなかった。
でも、ボランティアという世界で、社会の厳しさを知り、社会の優しさを知り、社会の窮屈さを知りました。


『ボランティアが生き甲斐』だった。
忙しく、本当にしんどかったけれど、心は満たされていました。
もう、あの頃には、戻れない。
そして、あの楽しかった日々と、彼らには、もう二度と。出会う事はない。


ありがとう。
私に、夢を与えてくれて。
ありがとう。
私に、勇気を与えてくれて。
ありがとう。
私に、自信を与えてくれて。
ありがとう。
私に、信じる強さを与えてくれて。


ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。


そして、さようなら。
あの日々よ。
【2006/11/07 18:37 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
2つのディだけに絞ったのに、それも長くは続かなかった。どうして、病気は私から大切なものを、奪うのだろう。どうして、もう少し、待ってはくれないのだろう。
もう少しだけ…続けさせてください。。
お願いします。


どんなに願っても、どんなに祈っても、神様も病気も、私に味方はしてくれませんでした。
各施設をやめてから、2ヶ月後の10月。
再び、心臓が停止して、病院にいました。


心臓と免疫、神経主治医から
『残念だけど、もう続ける事は出来ないよ。Ressarちゃんが今まで頑張ってきたの、先生知ってる。だから、君にやめろ。というのは出来るものなら言いたくない。君は、ボランティアで自分を取り戻して、すごく成長したと思う。でも、君の病気は今も現在進行形の形で、進んでいっているんだ。今、生きていることも不思議な状態なのに。』
『君のがんばりは、良く分かったから。君はもう、十分に社会に貢献したんだよ。もう、自分を解放させてあげなさい。』
『Ressarちゃんの思いは、皆良く、分かってるよ。でも、自分もしんどいのに、そんな体で何が出来るんだい?君がしんどい思いをしているのを、知ったら利用者さんも悲しむと思うよ。中にはそんな人には来てほしくないと思う人もいるかも知れない。もう、十分頑張ったんだから、もういいんじゃないか?』


と言った。そう、かも知れない。
もう、限界かも知れない。体はパンク寸前でした。
心臓の高鳴りは、やむ事がなかった。寝る時も、安静にしていても、高鳴り続ける心臓。どうして、治まってくれないの!もっと、続けたいのに。もっと、彼らといたいのに。お願いします、後少しだけ。あとほんの一カ月でいいの。それまで、どうか。私の心臓。持ってください。


11月27日の15歳の誕生日を最後の日と決め、私は残りの1カ月をがむしゃらに、ただ一心に、通いました。あと、1カ月。自分の誕生日の日を最後と、自分自身で決め、自分で納得し、使命を、終えたかった。
誰に言われるでもなく。誰の言う通りにするでもなく。
私は、自分自身で決め、この世界に入った。だからこそ、最後も、自分でけじめをつけなければ、いけなかったのです。
最後の日を決めてから、私はあるものを製作していました。利用者さん全員とスタッフ全員に渡す、星のキーホルダーを一つひとつ、仕上げました。
私が、いなくなっても、ずっと長生きしてほしい。そして、星のように、輝き続ける彼らでいてほしい。という願いを込めました。


そして、迎えた最後の活動日。


特に思い入れが強い在宅サービスステーションMでは、途中責任者の方が突然やめ、部長だった職員が責任者となり、そして、彼と出会った場所。
ここの利用者さんにも、特別な想いがあります。
そんな在宅サービスステーションMでは、最後の日は、いつも午前中だけの活動だったけど、午後もいようと母の手作り弁当を持参して、一日いることにしました。
午前中は、いつもと変わらない風景。
私も最後だからと、気を張って、いつも以上にがんばりました。送迎も、入浴介助も、話し相手も、食事介助も、レクリエーションも。
午後からのレクリエーションの時間。
椅子を丸く並べて、その中心に突然、スタッフからそこに行くように言われました。事前の打ち合わせでも、何も言われていなかった私は本当に、『???』で、何が起きるのかドキドキしていました。


すると、利用者さんはじめ、スタッフ全員が一輪一輪の花を持ち、私に渡してくれたのです。
思いがけない『お別れ会』に涙が止まらず、本当にここまで頼ってくれた彼らに、頭が下がる思いでした。
いつもは、ちょっかいばかり出して、困らせてばかりの利用者さんも、あの日だけは。涙を浮かべて、私に『今までありがとな。もう、可愛いあんたに会われへんねんな…』と言ってくれました。
利用者さん、スタッフ全員から受け取った一輪一輪の花は、大きな花束となり、私の小さな手では、抱えきれないほどのものでした。
今でもあの時の事を、鮮明に思い出すことが出来ます。
そして、ある認知症のおばあさんがいました。私と彼とで、担当していた利用者さんで、自分の事も、相手の事も、ご家族の事も、記憶にないおばあちゃんで、こちらの言っていることも分からないようなおばあさんでしたが、この日は、しっかりした表情で、今まで見せた事もないはっきりした口調で、
『ありがとう。』と言ってくれたのです。
あの時程、嬉しかったことはありません。
だって、いつもうつろな目をしていたのに、私の目をはじめて、見てくれたのですから。
責任者の方から代表としてもらった、誕生日プレゼント。私にとって、ここで学んだことは人生のかけがえのない宝物となり、財産です。ここで、活動出来てよかった。辛い事もあったけど、ここで、出会った人たちの事は、出来事は、私がおばあさんになって、彼らと同じように、介護される側となっても、忘れない。


星のキーホルダーもとても喜んでもらえ、苦労して100個も作った甲斐がありました。
中には、さっそく袋からあけて、かばんや財布につけてくれるお年寄り。彼らの姿を見る事は、もうありません。悲しいけれど、これが現実。私が選んだ道なのです。本当は、ずっと、続けたかった。でも、私の病気は、待ってはくれません。


最後に2枚の色紙をもらいました。スタッフからと利用者さんからの想いが詰まった色紙。
最後のあたりは、もう自力で自転車を漕いでいく力もなく、タクシーを使い、行きました。その日はちょうど、雨で、私の心の中を反映しているかのようだった。
自宅へ戻り、色紙を見て、再び涙しました。


そこには、たくさんの
『ありがとう。』と『お疲れさまでした。』の言葉が。
『土曜日に現れる可愛いエンジェルRessarちゃん。その優しい心でたくさんの人々を、力づけてくださいね。』
麻痺がある利用者さんの、必死で書いた字。
『希望を与えてくれてありがとう。』
これが、どんなに嬉しかったことか。
今でも、この色紙を見ると、涙が溢れます。
そして、あのころを思い出しては、涙します。
だから。もう、この色紙は、本棚の奥に、閉っておこうと思いました。涙が誘われないように。
でも、ふとした拍子に、どうしても見たくなります。
そんな時、泣くのは分かってて、読んでしまう。
そして、また。涙します。


今も、その繰り返しです。


もう一つのMTディサービスセンターでは、誕生日も兼ねて、旅立ちのお祝いをしてくれました。
そして、バースディプレゼントをスタッフや、利用者さんから貰い、ここでも、色紙を貰いました。
その日来れなかった利用者さんは、スタッフに、
『あの子、ビーズが好きやって言ってたから、今度きたらこれあげて。』
と、可愛い袋に入ったビーズをたくさん、もらいました。


責任者の方から、『また、あそびにおいで。』と言われ、暖かい気持ちになれました。


【2006/11/07 18:36 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
中2の夏。ボランティアを始めて1年と少し経過した頃。あの悪夢の日々がやってきました。
がんばり続ける私に、病気はストップをかけたのです。
それが、あの再発でした。
いずれ動けなくなる。と言われていた。でも、それはもっともっと、先の事だと思っていました。まだ、早い、まだだいじょうぶ。そんな根拠など、どこにもなかったのに。


いつものように、朝目覚めると、体が動きません。
うんとも、すんとも言いません。
冗談でしょ?本当にそう、思った。待って、今からボランティアに行かなきゃならないのよ!どうして、今なの?ねぇ、お願い、待って。。
すぐに、母に連れられ、病院に行き、入院することになりました。それから、1カ月。寝たきりで、ボランティアをお休みすることとなったのです。
この1カ月の間。体を動かすことは出来ず、本当に地獄の日々でした。今と同じ、寝返りさえひとりでは、出来なかったのです。病院で、休息の時間を与えられ、私は今までの、この1年を振り返っていました。私は、頑張りすぎていた。それは、自分でも分かっていました。体調が悪くても、どんなにしんどくても、どんなに体が痛くても。その痛みを必死でこらえ、電車とバスを乗り継ぎ、向かった施設。片道40分もの道のりを毎週毎週欠かさず通った施設。風の日も、雨の日も、それこそ台風でも。どうしても、自転車が無理な時は、タクシーで施設へと通っていたあの頃。


頑張り続ける私に、主治医はもう一度言いました。


『ほんとに、死ぬよ。いい加減にしなさい。君にとってボランティアが大切なのは良く分かった。でも、このままだと僕も、助ける自信がない。』


主治医の涙を見て、私ははっとさせられたのを覚えています。そして、父が私に向かい、言ったひとこと。


『御前は俺にとって、たった一人の娘なんや。今まで大切に育ててきた。御前がそこまでして、ボランティアちゅうものに、かける想いは分かった。だから、もう。もう、自分の体、大切にしてくれへんか。』


父の涙を始めてみた。
私がボランティアを続ける事で、悲しむ人がいるなら、私はもう、続けていくことが出来なくなるかも知れない。と思いました。
そして、動かない体のまま一カ月が過ぎようとしていた頃。Mディサービスの責任者の方が、お見舞いに来てくださいました。


責任者「Ressarちゃん。具合どう?無理するから。ボランティアセンターの〇〇さんから聞いたよ。うち以外にもいろんなボランティアしてたんやってね。うちは、Ressarちゃんが来てくれて、本間助かってるんだよ。利用者さんも待ってはるよ。“今日はあの子、来えへんのか?”とか聞いてくる。スタッフも、皆、Ressarちゃんに来てほしい。」


責任者の方からの話を聞き、涙を流しました。
そして、帰り際に、動かなくなった私の右手を握りながら、
『また、来てね!待ってるから!』
と言って、帰っていく責任者からの言葉が重く、それでも嬉しく感じました。
ほかの養護施設の職員も次から次へとお見舞いに来てくださり、笑顔をくれた、彼らに、私は自分の欲と傲慢さで、活動に入っていただけではないのか、と考えさせられました。
変わる変わる来る、来客者に主治医も担当医も看護師も、両親でさえも、目を丸くし、ただ驚くばかりで、来客中は皆、遠慮して診察もケアも入る事はありませんでした。


入院中、考えたことは。このままでは、いけないという事。このまま、以前のように、走り回っていたら、自分はおろか施設の人にも、迷惑がかかってしまう。
ボランティアはもう出来ない。
それでも、なかなか決心がつかなかったのです。
ボランティアは、私にとって大きな大きな存在となっていたのですから。
あそこで出会った彼らの事を思い出しました。
いろいろな人と出会った。いろいろな子と出会った。
別れてしまった子もいた。何人もの利用者さんを見送ってもきました。その度に、彼らと過ごしたこの場所を、続けたい。と思った。


そして、私の中で。やっと、一つの決心が出来た時。
1カ月の強力な治療を終え、動けるようになった私は、自宅へと戻り。各施設にもう、続ける事は出来ないと、電話しました。
そして、活動で、ではなく、退院から1週間後。各施設に、挨拶に出向きました。
肢体不自由児養護施設。知的障害児養護施設。情緒障害児養護施設。病弱児養護施設。
とりあえず、この4つの施設を、辞め、私は、MディサービスセンターとMTディサービスセンター、入院している子どもにあそびを届けるボランティアの定例会、きょうだい児へのサポート、臨時の病児保育、市民に応急手当を普及する活動だけに、絞りました。
それでも、だいぶ、楽になったのです。
でも、まだまだ体は悲鳴を上げ続けていました。


退院してから、1カ月後。
今度は不整脈から突然心停止し、集中治療室で2週間入院することになりました。2週間だった入院が、入院中にまた再発してしまい、動けなくなり、1カ月入院しました。


2度目の入院で思ったことは、もう、ボランティアを続けてはいけない。減らしたけど、それでも、私はもう出来ない。と限界を感じ始め、残りのボランティアについても、本気で検討していました。


そして、入院中。
残りのボランティアに電話を入れました。
もう、出来ないこと。申し訳ない思い。ごめんなさい。と何度も何度も詫びました。また、同じ過ちを犯してしまった。特養でのあの、経験で。同じ思いは、もう二度と繰り返さないと決めたのに。


最終的に残ったのは、在宅サービスステーションMと病院内にある、MTディサービスステーションでした。
病院内にある、MTディサービスステーションは、まだ養護施設の活動もやっていた時に、追加して活動していたところです。ディに来ている人の通院介助やリハビリ訓練も行いました。


この2つだけは、最後まで続けていきたい。
心から、そう願いました。
そして、在宅サービスステーションMが毎週土曜日の午前9時から12時半まで活動に入り、MTディサービスステーションは、毎週月曜日の午前9時から12時半まで活動に入りました。
それ以外の日は、フリーで、時々保育ボランティアや講座への助手として、参加したりしました。


これなら、後もう少し。続けられると思ってた。
でも、病魔は刻々と進行していきます。
やめて。と叫んでも、私の体はどんどん、闇に吸い込まれていくばかりでした。



【2006/11/07 18:35 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(1) | page top↑
ボランティア日記?
次いで、面接に行ったのが、病弱児養護施設。
ここでは、重度の心臓病を持った子。血友病の子や慢性疾患を抱えた児童が生活していました。
私も、一度、二度と養護学校に行くように薦められた所。同じ病気を抱えた仲間とも知り合いました。
ここでは、毎週金曜日の午前10時から午後3時まで。
レクリエーションで、あそびを考えたり、食事の用意をしたり、忙しく働きました。ここの寮母さんから色々な事を教わりました。お昼の時間には、調理場で料理を教えてもらい、色々な生活の知恵を教えてもらい。
第二の母のような存在でした。


最後は、知的障害児施設に面接に行きました。
知的障害児施設は2カ所のところで面接希望があり、2つとも行きましたが、1カ所のところは県外で、とても通える場所ではなく、断念し、府内の施設に決めました。ここは、隔週火曜日の2時から6時半まで活動に入りました。自閉症や発達障害、重度の知的障害を子どもとも触れ合い、私の中で根付いてしまった、『障害児者』という根底を覆されるきっかけともなりました。


これ以外に、入院している子どもにあそびを届けるボランティアや病気の子どものきょうだいへのサポート。
保育ボランティアも経験しました。
病弱児養護施設から、不定期でしたが、院内学級のお手伝いにも出張ボランティアという形で、入りました。
救命救急士の方と市民に応急手当(心肺蘇生術など)を普及するボランティアにも携わりました。
救命の資格を取り、救命救急士さんと各地を周り、勉強会を開き、市民に応急手当を普及する活動を続けてもきました。


とても、忙しかったあの頃。毎日毎日、スケジュールがびっしりでした。手帳もふたつ。休む時間なんて、なかった。
今思うと、爆弾を抱えた身をよく酷使したものだと、驚きを通り越して呆れてしまいます。体は、常にしんどかった。
忙しく、でも、その毎日が、私に『生きている。』という実感を与える事でもあったのです。
体を限界まで、酷使することで、強さを手に入れようとした。でも、それは、私の妄想であり、歪んだ価値観だとのちに気づく事となりました。


私にとって、ボランティアとは。
私の人生に、なくてはならないものだったのでしょう。
辛い時、しんどい時、いつもあの頃の事を思い出します。
辛い思いもしたけれど、悲しい思いもしたけれど。
私は、あそこで。あの場所で。
人間としていろいろなものを教えられ、学び、そして。
人と関る事が素晴らしい事だと知りました。
いろんな人と出会い。いろんな子たちと出会った。
いろんな先生と出会い。いろんな親御さんとも出会った。
それは、私の人生で、大きな力となり。また、素晴らしい財産でもあります。


しばらく、このような生活が続きました。
そして。ボランティアを続けて1年。
私は、大きな再発をすることになります。


【2006/11/07 15:46 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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