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生きるということ

仮死状態で生まれた私にはいくつもの障害があった。
だいたいの事は出生前診断で明かされていたにも関わらず、それらとは明らかに異なる病態が多数存在した。


両親は混乱したという。


しかし胎児診断で早期に発見できた事は幸運だった。もし何も解らずにそのまま生まれていたら、十分な医療を行えず、不十分な体整での出産は私の生命予後を左右したに違いない。
そしてまた、母の生命も脅かされていただろう。
 
生まれた私はとにかく危険な状態だった。
痙攣し、無呼吸発作は止まらず、全身チアノーゼ。自力では呼吸すら出来なかった。
425グラムで生まれた私は、全身の多発性骨折をしていた。
種々の検査により実に沢山の異常が見つかった。医師も困惑したと言う。


当時の両親の心境はどんなものだったのだろうか。想像するのは簡単だが、理解には苦しんだ。
なにしろ私は、病児そのものだったのだから。親の苦しみは想像に苦しんだ。
我が子を必死で死から守ろうとする両親の決意と覚悟は、想像をはるかに超えた。
僅か生後数時間での余命告知はどんなにか辛かっただろう。この子が成長するとは思えなかった、
と医師をはじめ皆、口々に言う。


そう、私はいつ死んでもおかしくなかった。いや、胎児期を乗り越えて出生にこぎつけた事さえ軌跡
だったのかも知れない。
 
[お嬢さんは長くは生きれません。]
この言葉を聞くたびに両親は胸が締め付けられたと教えてくれた。
それでも覚悟は出来ていた。お腹の中で重度な障害を抱えていると言われたあの日から。
私を受け止め、受け容れてくれた両親の決意と覚悟は相当なものだった。
どんな想いで私を育ててくれたのだろう。どんな想いで私と接していたのだろう。
知りたいと思うと同時に知りたくないという想いもある。
 
重い心臓病、呼吸器、消化器、腎臓、神経、代謝内分泌、骨、筋、血液、視覚、聴覚・・・
生まれた時から私の臓器はほとんどが機能しなかった。
未熟だったせいもあったが、その後もほとんど機能という機能は果たせていない。


栄養も常に不良だった。
口からは栄養を取れない。摂ってもすぐに吐くか全て消化できないままに下した。
慢性の消化器障害、消化酵素の欠損などで、栄養状態はいつも悪かった。
厳しい食事制限は生涯付きまとう。
病院にいるときはほとんど点滴からの栄養だった。大変だったのは在宅医療に移ってから。
厳しい食事制限の中で、母と祖母は特に気を使った。


 [いのちがあるだけでいい]
父も母も、祖父も祖母もそう願ったという。


 [いのちさえあれば何だって出来るんだよ]
私は小さい時からそう教えられた。しかし、思う。


 [健康であってこそ、何でも出来る]と。
健康でなければ、例えいのちがあったとしても好きな事は出来ない。と。
私には、そう思えてならなかった。


生きるために何かを犠牲にしなければならない。
私の場合、それが夢であり自由だった。
身体が動かない苦しみはなった人にしか分からないだろう。


生きる事に必死だった。私も両親も。
今日を生き抜くのが精一杯で明日の事なんて考えられない。
そんな日々の中、生きていた。


[1歳まで生きれるか保障はありません]
そう言われたあの時から17年。当時の医者も両親もこんなに長生きするとは誰も思わなかっただろう。
今だから言える。あのときの事をもちろん私が覚えているはずはない。
両親や当時を知る医師と連絡を取り、教えてもらった。
当時のカルテも見せてもらった。
胎児診断で早期に異常を指摘してくれた医師、当時治療を行ってくれた医師達の名前すら解らなかった。
両親は医師の名前を覚える余裕もなかったのだ。
今は異動や退職したりして、彼らを探すのは安易な事ではなかったが、どうしても私は自分の生い立ちを
しっかりと確認しておきたかったのだ。
今の主治医や数々の医療関係者、彼のお陰でやっと当時の医師達と連絡がつき、そのときの状況を
詳しく話してもらえた。
当時の医師は私の事を覚えていてくれた。
そして[生きられない]と言われた子が17年の歳月を生きている事にびっくりしている様子だった。
ある医師が言った。[医学は100パーセントではない]と。そして[この世に起こる全ての事に絶対はない]
のだとその医師は言ったのだ。
 
[1歳まで生きられない]
そう告知を受けた子が17年もの歳月を過ごしてきたのは、軌跡だと言っても過言ではないだろう。だが、私はあまり[奇跡]という言葉が好きではない。
医学は[奇跡]で成り立つものではなく、根拠のある元で行われる科学なのだ。しかし世の中では、常識
を覆すものは存在する。私の例をとってしてもそれは明らかなものとなるだろう。
 
多数の世界的な文献の中で、私の疾患の数々は、明らかに生存率が低い。予後も決して良くないもの
ばかりだ。ある文献では2歳までに100パーセントの児が死亡、という文献もあった。
予後を聞いても、どんなに死亡率の高い話を耳にしても、私には動じない心があった。
自分でも不思議でたまらない。死は怖くないのだ。


いつだったか、小学3年生か4年生か非常に死に過敏になった時期があった。
仲間が立て続けに亡くなったせいもあったのかも知れない。
死がたまらなく怖く恐ろしくなり、夜になるのが怖かった。昼間は何ともないのに夜になって、皆が寝静まる
頃になるとフラッシュバックのように死に対してのイメージが強烈になって、悪夢が襲ってくる。
夜になるのが怖かった。いつも頭の中は死のことばかりだった。
仲間の死を自らの死と両親や祖父母の死さえも連想した。何度枕を濡らして眠った事か。
朝起きたときには目が腫れ、顔は浮腫んでは両親や主治医に[腎臓か]と心配されたものだ。
しかし、死と向き合い乗り越えられた時に、自然と死に対しての恐怖はなくなった。
ある意味で根性が座ったのかも知れない。
 
[死は全ての終わりではない。死から始まる物語もあるはずだ]


それが私が出した答えだった。死から始まる物語があってはならないとされる決まりがあるだろうか。
事実、亡くなった仲間たちは今も私の中で生きている、確かに存在している。
目には見えなくとも確かに私の記憶の中で、今も生き続けている。
そう思うようになった時、私の中で死は恐ろしいものではなくなった。
そして全く死を怖く感じなくなったのだ。
それもかなり怖いものである。


まったくの不安や恐れがないと言えば、それは、嘘になってしまう。
けれども、あの頃のただ迫り来る死に、不安に陥っていた頃を思うと、今の私は自分の死に対しての不安より、私の死後、家族はどうするのだろう。生きていけるのか。といった、心配である。
決して強いとはいえない父は、娘の死後、受け入れ、泣き虫な母を支える事が出来るだろうか。
まだ幼い弟は、姉の死を受け入れる事が出来るだろうか。
年老いた祖父母は、生きる希望を、見失わないだろうか。


だから、今は思う。
せめて、祖父母を看取り、叶わない夢だが、両親を看取ってから、自分の死を覚悟したいと。
それが、世間では、「当たり前の順序」と思われがちだが、それが叶わない人もいる。
だが、人間の致死率は100パーセント。いずれ、生きるものは、この世を去る。
だから、自ら死に急ぐことはない。


私は、この世に生きる、ひとりの人として、難病を背負った病児として。
この世に何かを残し、後世の人々に伝え続けていければ、と思う。
そのために、私が私であるために、私は、今日も書き続ける。
それが、私の人生だと、そう胸を張っていいたい。

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【2006/12/29 13:49 】 | 病気 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
日本の情勢と移植について。

 


日本では15歳未満の臓器移植が法律上、認められていません。
なので臓器移植適応と判断された小児の多くは海外へ渡米し治療を受ける事に
なります。
しかしその渡米には多額の費用が掛かり、とても個人では負担しきれない学と
なります。街頭で必死で我が子のいのちを救おうと募金を呼び掛けているご両親、
ボランティア達がいます。
臓器移植の年齢制限を設けている国は日本だけだそうです。どうして日本に在国
しながら日本で治療が出来ないのか。そこには日本の独特の偏見や宗教的問題、
矛盾や理不尽な事ばかりが伴っています。
私たちは1人1人に呼び掛け、署名を集め、法改正を強く訴えてきました。
しかしまだまだ小児の臓器移植にまつわる問題は解決していません。


私の仲間にも何人もの移植待機児者がいます。
助かるには心臓移植しかないと言われた子。
一生涯の透析から解放されるには腎臓移植しかないと言われた子。
元気になるには移植しかないと言われた子や親は絶望的な思いに駆られます。
それが母国日本で出来ないとされては、とても言葉では言い表せない程の絶望感
があると思います。
運良く欧州の病院に受け容れが決まっても募金が集まらなかったり、集まっても渡米
する前に力尽きてしまう子も少なくありません。
万一渡米してもドナー(移植提供者)を待っている間に亡くなってしまう子もいるのです。
異国で言葉の通じない知らぬ医師たちに囲まれながら最期を迎えてしまう子。
親戚や友達にも会えず、たった一人で旅立ってしまう事に何故日本では出来ないのか
と主治医に泣きながら・・・説明を求めました。


私の心臓病の友達で心臓移植をしなければ半年しか生きられないと宣告された13歳
の子がいました。
彼女は移植が必要で外国へ行かなければならないと告げられた時、笑ってこう言った
そうです。
 
  「日本を変える」


その言葉に医師やご両親や共に闘い続けた私たちにも大きなショックを与えました。
しかしそんな気丈な彼女を他所に病魔は進行し遂に移植を早急にしなければならない
日がやってきました。
しかし彼女は「どうしてアメリカで出来て(彼女の移植を引き受けてくれた病院はアメリカ
本土でした)日本では出来ないの」と泣いたそうです。
医師や両親らの説明と説得で彼女もようやく渡米しなければならない事実を受け容れ、
準備に取りかかっていた、まさにその時でした。
急変し心不全で彼女は14歳の生涯を閉じました。
本当にあっけなく、それでも彼女は自分の人生を全うし素晴らしく、旅立っていきました。
私より1つ下でした。余命半年と言われながら更に半年もの時間を懸命に生き抜いた
彼女の人生は決して、悲観され可哀想な人生ではなかったと思っています。
最期まで「日本を変えるんだ」と言い続けて、病と闘った彼女は、とても素晴らしい子でした。
 
彼女の死は今後の小児に対しての臓器移植に関して、改めて深く、考えなければならない
という改革を起してくれました。
一昔前に比べ、一般市民に対しても『臓器移植』という言葉が定着しつつあります。
多くのマスコミやメディアが移植について目を向けられるようになった今、私たちは国に
もっと、声を出していかなければならないと思う。
心臓移植だけではありません。血液透析をしている子にとって腎臓移植や胆道閉鎖症
の子にとっての肝臓移植もとても大切な問題でありながら、とても難しく、とてもデリケート
な問題です。


実は私も移植待機児の一人でした。
しかし多臓器障害の為、残念ながら移植待機児リストには載りませんでした。
常に全身状態が悪く、元主治医がアメリカへ留学していた事もあって問い合わせて頂いた
のですが、悪すぎて移植は出来ない、と言われたそうです。
手術も、唯一の望みだった移植も出来ない・・・それは正に死へのカウントダウンでした。


年々移植待機児者は増えています。
しかし渡米し移植を受け、無事に帰国できた方はほんの数パーセントしかいません。
もし、日本で移植が出来たら・・・膨大な金額を集める必要はなく、異国での言葉や文化、
宗教的な不自由もなく、何より生まれ育った母国を信じ、移植に安心して挑み、多くの
助かるいのちが必ずあるはずです。


『移植』それは1つの通過点に過ぎず、そこにまつわる問題は数多く、長い闘いを強いら
れる事になります。
例えば移植は本来他人の臓器を体内に入れるという事ですから、身体は異物として誤認
してしまい、その移植された臓器を攻撃してしまうためにせっかく移植された臓器も使えなく
なってしまいます。それを防ぐのが免疫抑制剤という薬ですが、移植を受けた者は生涯この
クスリを飲み続けなければなりません。いのちを守ってくれる大切な薬ですが、重大な副作
用も報告されています。免疫力が低下し感染症にかかりやすくなったり、罹患すれば重症化
しやすかったり、自分の免疫能を極限まで押さえ込むので、その他の自己免疫病に罹患して
しまうこともあります。
稀に白血病などの悪性腫瘍を併発するなどの報告もあり、移植が済んだからとそれで
全てが解決し終わるわけではないのです。
移植の問題はそうした移植後の道のりが、『第二の移植との闘い』になるのかも知れません。


 


日本で臓器移植を。
子ども達に日本の素晴らしさを伝えたい。
だって私たちは日本で生まれ、日本で育ったのですから。
日本は駄目だと言う前に日本を自分達の力で変えようと動きだして欲しい。
私たちは母国日本を信じたい。
生まれ育った“日本で元気になりたい”と思う子ども達は日本の政治や法律・宗教的な
事に反するものでしょうか。
メディアや市民が意識しはじめている今だからこそ、臓器移植について、そして日本の
現状についても理解をしなければならないと思っています。


臓器移植・・・それは自分には関係なく他人事だと思っている人にも、そんな事は遠い未来
の事だと漠然と思っている人にも、健康な人にも、それは突然、やってくるのです。
決して他人事ではなく、いつ自分や家族に降りかかってもおかしくない事態として受け止め
考える必要があると思います。


日本を変えたい。
日本で元気になりたい。


そう思っても渡米するために日本を離れなければならない子ども達。
大好きな家族や友人と別れて言葉も通じない異国で治療を受けなければならない子ども達。
移植を待つ間に容態が急変し亡くなる子も後を絶ちません。



病児者や障害児者がもっと住みやすい社会にならなければという思いも強くなります。
病児を取り巻く問題は実に多様に存在し、経済的問題のみならず親の精神的・肉体的負担
に加え、児の就学問題・進学・就職などの社会的問題が数多く出現しています。
様々な場所で様々な人がそのような問題に取り組んでいますが、解決していくのはまだまだ
先の事であり、病児を取り巻く環境は決して、万全であるとは言えないのです。
 病気であることを理由に普通校への入学を断られるケースや健常者と同じような条件で
就職させてもらえないケースなどなど私の知っている限りでも多数存在しています。


もっと世間の人に難病といわれる子ども達の事を知って欲しい。
一昔前と比べ、差別や偏見などといったことは一見、軽快してきたようにも思われますが、
まだまだ一般の人達への理解や協力体勢が十分だとは言い切れないのです。
私自身、重症の重複心疾患や重複難病障害の病児であり、差別や偏見、理解の得られない
事で悩み、迷い、苦しみました。
私達の後を継ぐ病児のためにも、この社会を変えなければならない、日本という国を変えて
いかなければならないと思いました。このままでは今後増えてくるであろう病児や障害児たち
がますます住みにくい社会になってしまう。それだけはなんとしてでも避けたい事でした。
でも、そうは思うものの私は何の権力も実力もない人間で、私一人の力では国を変える事は
出来ません。でもそれが10人、50人、100人・・・日本国民が一緒に国に対し声をあげれば何
かが変わるかも知れない。
情報を発信し、一人一人の意識を向上させ、国民一人一人の理解を得、意識を向ける事が出
来たら・・・きっと日本というこの国は変わっていけると思うのです。
変われる余地が、変われるその光が、変われる自信が、変わっていけるだけの力がまだこの
国には残されています。


 生意気でしょうか。自己満足でしょうか。身勝手でしょうか。


だけど、変わらなければ、変わっていかなければ、何も始まらない。
どんどん、どんどん住みにくい社会になっていきます。
病児者や障害児者だけではありません。一般の健常者も住みにくい社会になっていくのです。
その前に、本当にそうなる前になんとかしなきゃ。


少しでもいい。ほんの少しでもいいから、今の日本の状況や情勢に、そしてその理不尽な、割
り切れる事の出来ぬ事情で苦しむ人達の事を考える事はできないものか。


病気と闘いながら、死と向き合いながら生きるその一人として、彼らのためになにが出来るか。
そう考えた時に、情報を現実をありのままに伝えていく事しか、私には思い付きませんでした。
行動を起そうにも私は自分の力で立つことも、歩くことも出来ません。
移植のために海外へ飛び立とうとしている彼らのために街中で、募金に立つことも出来ません。
だからこそ、このネットという社会を通じて、情報を発信したい。


生活全般にかけ常に介助や看護が必要な身です。
けれど伝えていく事が出来る。何度も心停止し脳内への酸素供給が途絶えてしまったり、
様々な疾患によって知能低下を呈してもおかしくないはずでした。
でもどういうわけか考え理解し伝える力だけは最後まで残されていました。
だから私は伝えます。
残されている機能を発揮するのが私の生きている証ですから。
ひょっとしたら神様が、私には伝えていく義務があると、考え伝える力を最後まで残して
くれたのかも知れません。


このインターネットという情報発信の場で、私は伝えて行きます。
例えそれがご批判を頂くような内容であっても、それが事実である限り、私は伝える事
を諦めません。



「日本を変える」
そう言いながら旅立ってしまった彼女の心のメッセージを私が引き継ぎました。

【2006/12/12 14:19 】 | 病気 | コメント(2) | トラックバック(2) | page top↑
精神科とカウンセリング。
小3~中1までの4年間。
私は、臨床心理士による、カウンセリングを受けていました。
稀少難病を抱え、生活を送るうえで、いろいろな葛藤も生まれます。
病気と向き合う上で、一番大事なのは、受け止め、受け入れる力。簡単なようで、実はすごく、大変な作業です。


入退院ばかりを繰り返し、学校もドクターストップがかかり、行けなかった。
新しい病院に、救いを求めて、セカンド・サードオピニオンをし、はじめて行く病院では、いつも、言われる。

『多機能低下不全症候群……って、、なに?』
医学界でも、知られていないこの病気。
あたしは、何度も孤独感に支配された。
そして、終いに言われる事は、
『詐病の疑い。』とまで、言われる始末。えぇ、もうなんとでも言ってくれ!って感じだった。
誰も分からない。この謎の病。
それを理解してくれる先生は、医療スタッフは、ほんの僅かしかいなかった。

色々問い詰められ、精神科に回されたりもした。
精神的疾患見つけるのに、必死にされてるって、雰囲気で。
精神科ってのに、いい印象持ってなかった。
おそらく多くの人が、『精神科』というものを、あまりイメージよく、思っていないだろう。

過去のトラウマ、いっぱい、引き出しちゃいそうだし。
学校行っていない(正しくは、ドクターストップかかり、行けないのだけれど。)のは、怠けているからだとか、努力が足りないから、病気は治癒しないのだとか、はじめて行った病院の多くは、学校の事を必ず聞いてくる。
『ところで、学校はどうしてるの?』
あなた方は、目の前に苦しみ、自分を頼ってきている患者を、見ようともしないのですか?
どこかに、救いはないかと、自分を頼って来ていることを自覚せず、そんな無駄話する時間があれば、教えてください。どうしたらこの病気は、治るのですか?
学校行っていない=登校拒否=不登校。
っていう、方程式が、未だに根付いてしまっている頭でっかちな人は、多い。
病気持って、治療をがんばる子どもたちは、多かれ少なかれ、勉強や進学や将来の事に対し、大人が思っている以上に、敏感に、反応します。


学校行けなくて、いつも家や病院で過ごす事が多かった私は、近所の方に、いろいろ変な目でみられもしていた。
学校ある時間に、母と外へ出れば、
『あの子、学校行ってないみたいよ。』
と、陰口をたたかれ。あたしも親も、辛い思いをした。
あたしの病気、よく知らない近所のおば様たちは、体が弱い私を見かけると、
『病気だからって、甘えてちゃダメよ。』
と、言われもしてきた。
次第に私は、外へ行くのもおっくうになり、誰とも会いたくないと、引きこもりがちにもなった。
何も悪い事してないのに。休みたくて休んでるんじゃないのに。
先生が、行っちゃ行けないって言ってるからなのに。ほんとは、勉強したいのに。学校行きたいのに。
周りの好奇な目は、幼心に、トラウマと化していってしまった。


病院への、医療者への不信感は、そうして蓄積されてしまった。
子ども病院のカウンセリングや総合病院でのカウンセリングなどを受け。
さすがに、精神科へは行かされなかったけど、心療内科に通わされた事もあった。
カウンセリングの先生も、最初は良かったのだけれど、次第に馬があわなくなり、カウンセリング自体が苦痛の何者にもならなかった時があった。
それでも、4年間もの間、無意味なカウンセリングをしてきて。


本当に、体もしんどくて、その事誰にも分かってもらえなくて。
私が不調を訴えると、明らかに検査データー異常値なのに、科学的には説明できないからと、それも詐病といわれ、自分で作り上げる病ならば、どうしらこんな検査データーをここまで異常値に出来るんだ!
そんな術があるんなら、教えろ!!と医療者への反抗心が芽生えていった、あたしの心。


でも、理解下さるドクターもいた。
気持ちを、分かってくださる医療者がいた。
ココロの弱み、見せるのって、負けですか?
前向きなまま、強く生きなきゃだめですか?


そんな事ないと思うよ。
言いたいよ。
もっと、人に頼ってもいいんだよ。
甘えてもいいんだよ。
人は、みな強くないんだから。


あるカウンセラーから言われた言葉。

『障害者は、頼る事に慣れすぎている。』
『だから、して欲しいとお願いしてくるまで、こっちから何も助けたくない。』と。

健康な人だから、言える事です。
そのカウンセラーの方は、健常者だから。
人のココロ…読むのが仕事なのに、そんな事気にせず、一方的な言葉をかけられるのみ。

確かに私も、こうして愚痴り、悩み、考え、迷う。
それでも、解決できなかったら、人様の意見を聞き、人のお力をお借りすることもある。
でもそれは、障害あるなしに関らず、人が人として、人に、求めるごく自然な事ではないだろうか?


人は、ひとりでは生きていけない。
自分はまるで、ひとりで誕生し、ひとりでここまで大きくなったような言葉をおっしゃっていた、カウンセラーの方に、私は、付いていけませんでした。
でも、ココロやさしい、これこそ、真のカウンセラーの方もいて。
その方には、話を聞いてもらうだけでも、楽になれました。決して否定はしなかったし、生き方を咎める事もなかった。


私は、病気に負けず、がんばってる少女になれない。
車椅子だけど、明るくもない。
だけど、暗くもないよ。
いいことばかり、ここで書けない。
それは、あたしについて、偽りだから…。

私は、悩むこと、落ち込むことを、マイナスだとも不幸とも、捉えていない。

人は、考えるために、生まれてきた。

生きる意味を考える機会を与えてくれた、この病気に、感謝しています。


箱庭療法や認知療法というものを受け、私のココロが、読まれているようで、すごく嫌でした。
そんなもので、私の全てが分かるような口を聞かれ、本当に貴女、臨床心理士さん?と疑問符がつくような、方もいらした。

カウンセリングに通っている意味が分からなく、ただ言われるままに、通い続けた。
4年の月日が経ち。中学1年になったとき、病気は容赦なく進行し、自分を見失いました。
自暴自棄になり、何もかもが分からなくなった。
自殺未遂を繰り返すようになったのも、その頃です。
しかし、私は、ボランティアという自分の居場所を見つけ、そこで自分を取り戻していきました。
その頃に、4年間続けてきたカウンセリングを、やめる事を決意しました。
もう、ここに、通う理由は、ない。意味も、ない。
結局、私は、カウンセリングで、何も、得られなかったのです。でも、あの4年間の時間は、決して無駄ではなかったと思っています。決して、無意味な時間では、なかったと思っています。
私には、カウンセリングは、必要なかった。
もう、私は、カウンセリングを受けなくとも、自らの足で、心の両足で、歩いていけると、ようやく、分かる事が出来たのです。
この時間は、私にとって、結果的には、何も得るものはありませんでした。
けれども、いろんな方面で、いろんな考え方で、自分を見つめられるようにもなった、きっかけを与えてくれたのも、事実です。

そのことに、気づくそのものが、本来の『カウンセリング』なのかも、知れません。


中学生の時、心療内科のクリニックを紹介され、受診した時。ここの先生は、私を人間として、扱ってくださった。そして、決して子どもだからと軽蔑もせず、私と対等に、向き合ってくれました。
車椅子の私の、動かない右手を握り、
『辛かったでしょう。良くがんばってきたね。もう、がんばらなくていいよ。辛ければ、ここへ来なさい。僕は、貴女の病気を、治すことは出来ないけれど、貴女の心は、きっと、げんきになれます。貴女の心は、貴女が思っている程、弱くはありませんよ。ただ、疲れているだけです。ゆっくり、休みなさい。』
と、言ってくれました。その言葉を聞いて、あたしは、ボロボロと涙をこぼした。
先生の前で。診察室で。

その後、病気は進行し、3度通っただけで、クリニックまで、行くことが出来なくなった。
50、60代くらいの先生だった。でも、とても暖かくて、とても、優しくて。
この人こそ、心療内科医になるべきだ!と思った。


病気は決して、精神論で片づきはしない。
そして、気持ちの持ちようで、どうにかなるものでも、ない。
周囲から、精神論を持ち出され、辛い日々を送った。
病気に負けるのは、根性が座っていないからだとか、好き放題言っていた人も、いる。
でも、決して。
精神論で、この病が、奇病が治れば、医者も医療も、医学と言う学問すら、いらなくなる。


精神科や心療内科受診歴があると、医療関係者の多くは、その人の性格や考え方や価値観に、問題があると決めつけ、差別の目でみる。
一度や二度の受診歴が、カルテに、記載されているだけで、どうして、その人の全てを分かることが出来ると言うのだろう。
だれでも、心が疲れる事は、ある。
そして、頼りたい、すがりたい、気持ちになることもある。
救いを求め、話を聞いて欲しくて、心療内科の扉を叩く人もいる。


でも、まだまだ、そんな人は、少ない。
人々の精神科や心療内科に対しての偏見。
『心の病』は、人には知られたくない、自分の問題だと、責め続け、誰にも言えないまま、壊れてしまう。
壊れる前に、心内の扉を、叩くことは出来ないものでしょうか?


心と体は、繋がっています。
心が、しんどい時は、体にも変調が来たし、しんどくなる。
反対に、体がしんどい時は、心まで疲れてくる。
そういう、連鎖反応によって、人間の精神は、成り立っているのです。


医療関係者の皆様、これから医療・福祉の道を歩まれる学生さんへ(って、そんな方、ここにお見えになっているのか?)。

精神科、心療内科の受診歴が、過去にあるからと言って、その人自身の性格に問題があるわけでも、精神が弱いわけでも、努力が足りないわけでも、ありません。
心理検査などだけで、患者自身の心を、分かったつもりには、ならないで下さい。
あなたにも、弱いところがあるはず。
強い人間なんて、この世にひとりとして、いません。
弱い部分を持って、強い部分をもって。
そうして、互いの相互作用が働き、はじめて、『自分』という人格を形成していくのです。


精神科、心療内科への偏見と御解が、なくなり、もっと辛い時に、風邪の時に内科にかかるのと同じような感覚で、自分を見失ってしまう前に、壊れてしまう前に。
受診され、自分の心を向き合う場を作って頂ければ・・・。
って、なんだか、偉そうに。。
反感、買っちゃいますかね・・・。
申し訳ありません。。。
【2006/12/08 00:46 】 | 病気 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
心筋炎のこと
昨日、『ウイルス性劇症型心筋炎』と診断され、過去に心筋炎で、亡くなった彼女らの事を思い出してしまいました。


心筋炎とは、心臓の筋肉(心筋)に炎症がおき、心臓としての機能を低下させる、恐ろしい病気です。
心筋炎は大きく別けて2種類あります。
ウイルス性のものが大半ですが、膠原病や炎症性疾患による続発性の心筋炎もあります。
私は、後者の心筋炎にもなった事があります。


私も過去何回もこの心筋炎で、いのちを落としかけそうになりました。
一度は1歳の頃。2度目は4歳の時。3度目は7歳の時、4度目は13歳です。
私の記憶にあるのは、7歳と13歳の時だけで、いずれもインフルエンザが原因でした。ベッドの上で、泣きながら夜が明けるのを、ひたすら待ったものでした。1カ月意識が戻らなかった時もあります。



入院中に出会った仲間。
ボランティアで関った子どもたち。
知り合いの子ども。
ネットを通して知り合った仲間。


心筋炎で亡くした子どもの親御さんともお知り合いになり、色々なお話を聞かせてもらったこともあります。


ただの風邪だと言われ、その僅か数時間後には、死亡宣告・・・。
心筋炎で亡くなってしまった、私が知っている子どもたちは少なくとも16人います。そのうち、直接関った子は、8人でした。


この数字を見ても、心筋炎は、稀な病気だと言い切ることができるだろうか?
そう言って、逃げてはいないだろうか?


『稀な病気だから、早期発見は難しかった。』
そんな言葉で、最愛の我が子を亡くした親は、納得できるものだろうか?


親が『いつもと何か、違うんです!』と訴えているのに、はなから親の過保護だ、うるさい母親とされ、さっさと診察室から追い出されてしまう。
そんな現実が、日常社会の中に潜んでいます。


元主治医が言っていた。
『母親は子どもが第一にかかる、最良の主治医だ。』と。病気の時だけに診る医者より、一日の大半をそれこそ、子どものそばに、常にいる母親の方が、良く子どもの状態を診ている。
自分の症状を自分でうまく表現できない小さな子どもは、それこそ母親が子どもの代弁者である。
医師にとっては、貴重な情報提供者だ。
なのに、考えすぎ。と処理できるだろうか?


心筋炎は稀ではない。
実際に私は我が子を心筋炎で亡くして、裁判で最後まで闘った親御さんを知ってる。


確かに日常の診療ではあまり見られない。でも、風邪の中のほんの一握りの重症児の中には、この病気が潜んでる事を頭の隅っこにでも、思っていてほしい。



“知らない。”
で済まされるものでしょうか?
一体あと、何人犠牲になればいいのですか?
あと、何人犠牲になれば、
『珍しい病気』ではなくなるのですか?


あるお母さんがこんなことを言っていました。
『ただの風邪だと言われ、娘はその僅か17時間後に死んだんです。ただの風邪でどうして死ななきゃいけなかったのですか?』


僅か数年でいのちを絶たなければならなかった彼女たちが、残してくれた課題はたくさんあるような気がします。


心筋炎はとっても、怖い病気です。
だからこそ、すぐに見つけてほしい。


でも、私に関る医師たちも心筋炎は通常の外来診療では見つけるのが、非常に難しいと言います。
風邪と酷似している心筋炎の症状。
でも明らかに違う点がいくつかあるのです。


熱のわりには、頻脈がある。
胸痛を(小さな子どもではお腹が痛いと表現することもあります。)訴える。
チアノーゼ、四肢の冷感。
呼吸が速い。
元気がない。
食欲がない。
嘔吐や吐き気が激しい。
頭痛を訴える。
放っておくと眠ってしまう(傾眠傾向)。


一見すると風邪と良く似ていますが、ふつうの風邪ではチアノーゼや四肢の冷感はまずありません。そしてあまり、熱が高くないのに、脈拍が速いのも心筋炎の特徴です。通常の風邪では、傾眠傾向は出ません。
心筋炎の子どもが悪化した時には、とてつもない睡魔に襲われ、放っておくと、何時間も眠ってしまうようなことがおきます。尋常では、そこまでなりません。


心筋炎は、とても怖い。でも早期発見も難しい…。
悪化した時に、または悪化してから、見つかることが非常に多いです。
医師の中にも、『心筋炎』という病気を知らない人が、多い。その現実は、子どもを持つ親にとって、どれだけ無知な世界に生きている事を実感するでしょう。


心筋炎は、ふつうの『風邪』の中に、紛れ込んでいるんです。
風邪ではない、何か違う。いつもとは何かが違う。
多くの母親たちは、そう感じるといいます。


親が『何かがいつもと、違うんです!』と、訴えても、次のカルテを出され、看護師に診察室から追い出されます。
悪化して、入院しても、そのまま診断がつかないまま、死亡宣告を受けてしまう事もあるのです。
中には、死亡解剖で、病名が明らかになったケースもあります。


子どもが訴える症状にも、それは子どもの我がままだと捉えられ、真剣には向き合ってくれないお医者様もいます。


私が小4の時、こども病院で診察を受けた時の事です。


当時診察してくれた日直医は、訴える症状は、すべて『風邪』だと、診断し、帰されました。
帰っても、良くはなりません。


その日の夜。
次第に不整脈が出始め、意識も朦朧としてきました。
救急車で運ばれた私は、脱水状態。と言われ、入院することになった。
しかし、治療という治療は、ただ、点滴による、水分補給のみ。
私はひどく、震えていました。そして、心臓が止まり、そのまま17日も意識が戻らずにいたのです。


心臓が停止した後、循環医の診察で、心筋炎とはじめて診断されたのでした。


過去に、何度も心筋炎を起こしているのに、それでも、見過ごされてしまうのか?
単純な病気ではない。
いのちを持っていってしまう、恐ろしい病気なのです。


どうか、一般社会にこの病気を知ってくれる人が増えてほしい。そして、増えてくれなければ、いけないと、切に願います。



“医者任せにしては、いけない。”


心筋炎で亡くなった子どものお母さんから発せられた言葉です。


もう二度と、あんな悲劇を繰り返さない為に。


彼女らのあどけない笑顔が、浮かんできます。
【2006/11/22 14:11 】 | 病気 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
終わりのない病気
いつまで頑張れもいいの?
いつまでこのままでいなきゃいけないの?
いつまで…?

しんどいの。とっても。
だけど、それを、言葉にすること出来なくて。
周りに言う事、出来ない。

よく、言われる。
『病院、変わったら?』
『入院したら?』

でも。そんな簡単な事言って。
あなたは、何も知らないから、そんな事言えるんだよ。所詮、他人だから。私が、ここまで、どんだけ必死で、歩いてきたか。あなたに、分かりますか?
私の人生の一部しか、携わっていない、見つめていない、あなたに、言われたくないのです。

私が、病院を変わるという事。
それが、どんだけ、いのちがけである事なのか。
あなたは、知らない。だって。あなたは。私ではないから。どれだけ、しんどい姿を見せても。あなたは、所詮あなたであって。私ではないから。本当のしんどさは、痛みは。分からないのです。
長年、診て来てもらった病院。先生。
生まれる前から。生まれた時から。診てもらっている病院。中には、主治医も担当医も、看護師も。外来も病棟も、どんどん変わって。知っている人も少なくなった。でも、あの病院には思い出があるの。あの病院で私は育ったから。設備が整っていなくても、大きな病院でなくても。あそこで、私は育ったの。
あなたが、知らない時間、時を、私はあの場所で。
仲間と、親と過ごしてきたの。

『もっと、大きな病院に。ちゃんとしたところで診てもらいなさい。そしたら、治るから』
と周りから言われ。転院も真剣に考えて。
病院も、本気で移ろうと思っていた。だけど。セカンドオピニオンをどれだけ、とっても。言われる事は決まって同じ。
『多機能低下不全症候群って…なんですか?』
こっちが聞きたいよ!
『前例がないし、あなたの病気は進行性だから、出来る今に、好きな事をしなさい。出来なくなった時に後悔しないように。』と言われ、病院から追い出されました。
『治る事はない。ここまで生きてこれたのが不思議です』
そう当たり前のように、言われて。私は、この世の絶望を、感じました。

どうして向き合ってくれないのですか?
どうして、見捨てるのですか?
すがりたいのです。どうか。
助けてください。
見捨てないでください。
見放さないでください…。

そんな私の、想いは、願いは、届かなかった。

『いつ何があっても、おかしくない状態なんです。お家で、出来るだけ長く今の生活を続けさせてあげてください』
心停止して、意識をなくして、運ばれても。
集中治療をやった後は、まだ状態が落ち着かないうちに、在宅に帰されました。
『ここにいても、もうすることはないんです。』
『我々に出来る事は、もう何もありません。後は、残りの時間をご家族で過ごしてください。』
感染症への抵抗力がまったくないにしても、病院は、入院させてくれませんでした。

こんな難病な患者を。重度障害者を。
回復が望めない患者は、排除し、ベッドの回転率を挙げるため、必要最小限しか入院も出来ませんでした。

中には、良き医師もいて、私の精神が不安定な時は、精神の安定を保てるまで、その場所として。緊急避難入院をさせてくれる事もあった。
そんな。信頼できる医師と出会えたのも、この病院なのです。
ここには、いっぱいの優しさと。温もりと。思い出があって。簡単には、サヨナラできないのです。
もっともっと大きな病院に行って、設備が整ってる病院行って、この病気が治るというのなら、喜んで行きます。思い出なんかも捨てて、行きます。
でも。そうじゃないんです。
私の病気は、治る病気でも、良くなる病気でも、リハビリをして再び機能が戻るような病気でも、ないのです。
あなたは、それを、分かってはいますか?
軽々しく、言わないで。
今まで、医療から見放されてきた想い。
見捨てられてきた想い。あなたに、何が分かるというのですか?

私は、あの病院を、愛しました。
先生を、信じました。
治療がなくても、必死で私のココロに、寄り添ってくれた彼らがいたから、今の私がいるのです。
そんな、彼らとの築き上げてきた信頼関係の土台は、誰にも踏みにじる事、この域に入ってくる事は、許されません。

いつまで、頑張ればいいのか。分かりません。
だけど。
終わりのない病気を抱え、それを機に見えた事を、私は、伝えていきたいのです。残しておきたいのです。

静かに、今を生きたいのです。
もう、何も期待はしないと決めたから。
それは、あきらめでもなんでもなく。
ただ。
今を生きるために、必要じゃないものを捨ててきただけの事。
今を生きるために、きょうをあすに繋げていくために、邪魔なものを、排除していくと、誓ったのです。
そうしないと、私は前へ進めません。


医師と対立する事もある。
医師も人間。患者も人間。
ある病棟医が言った言葉が忘れられない。

『治らない患者の病室には、行きにくくなる。』
『申し訳ないと想いながら、正直気持ちの重荷となり離れてしまう。』

という言葉を、想いだします。
医師との信頼関係も所詮。人間関係のうえで、成り立っている事だけど。そこには、生命への責任と、ひとりの人間の、人生が係っている事を、忘れないでほしい。

医療の限界を知ってしまったから。
医療の厳しさを知ったから。
医療のあいまいさを、みてきたから。
医療の実態を、目の当たりにしてきたから。

医療から、見放され。
見捨てられる辛さ。無念さ。やりきれなさ。憤り。
いろんな感情を抱いて。私は、ここまで生きてきた。
この小さな胸で。
誰にもいえず、たったひとりの胸の内で。
いろんな事を感じ、いろんなものを見て。

もう、見捨てないでください…
もう、見放さないでください…

望みがなくても。
どうか。どうか。どうか。
治療を…続けてください。

あの時の周りの厳しさは、まだ可能性があったから。
でも今。すべての優しさに、不安になってしまうのです。

私は、生きている限り。
この『終わりのない病気』と闘い続けるのです。

テーマ:日記 - ジャンル:日記

【2006/11/03 00:40 】 | 病気 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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