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小児病棟でのいじめ。

昔、県立こども病院に入院していたとき。
長期入院中の子ども同士のいじめが、あった。



小4の時あたしは地元を離れて、遠い隣町の総合病院に、長期入院する事になった。
入院してたある小児病棟で。



仲間がお星様になった時、その病棟には、決して聞けない雰囲気が、暗黙の了解と化して、
こどもたちの間で、ある一定の圧力がかかってた。
「こどもだから。」何も分かるはずがない。ごまかしが聞くと、疑いもなく思っている大人たちの姿。
助け合いもあったけど・・・、いじめもあった。
先に退院して行きそうな子を、ターゲットにする法則。
そこには、社会の縮図。たった「子どもの・・・」と言えど、感じる事は、ちゃんと小さな胸で、感じてる。



私が通された部屋は、4人部屋だった。
まだ、9歳だったあたしがその部屋では、最年少で、後の3人は、中学生のお姉ちゃん。
あたしは、毎日泣いてた。いつも一緒だった母とはじめて、別れて、こんな遠い町での、知らない病院
での、生活に。これからの不安、感じて。
その時、同室だったおねえちゃんが、優しく遊び相手になってくれたし、しんどいときは、背中さすって
くれたりもした。
人見知りが、激しいあたしは、なかなかその環境に、なれなくて。
主治医になった先生は、地元のこども病院の主治医の同期の先生で、とても優しかったけど。
泣いてたら、話し聞いてくれたし、泣きやませてくれたし。
でも、看護師さんは、みんな、怖かった。
今では、考えられないような、閉鎖病棟。小児病棟には、厳重の扉で、鍵がかかってた。
親の面会も、院内学級がない、週末のみ。
ある意味、寮生活。
あたしは、耐えられなかった。その生活に。治療の為に、こんな地元でもない、見知らぬ土地で、
ひとりで、がんばるには、あたしはまだ・・・弱すぎた。
自分で、決めて、親とも主治医とも相談して、話し合って、がんばってくるって。
決めたんだけど。



でも、まさか。
こんな辛い場所とは、思わなくて。



そこで、見た光景。
患児同士のいじめ。看護師さん、知らぬ顔。
患児同士が、喧嘩しだしても、見て見ぬふりする、大人たち。
誰も、とめてくんない。


あたしが入院した翌日。その光景を、見てしまった。
小2くらいの女の子が、半年の入院生活を終えて、退院が決まった。となっていたいた、矢先。
病棟全体での、その子に対する嫌がらせが始まった。
いじめの内容は、詳しくはしらない。人の事構ってる余裕、なかったから。
自分の病気で、自分の事で、精一杯。
でも、確か、教科書に落書きされたり、無視したり、悪口言ったり・・・きっと、そんな事だったと思う。
その女の子は、泣いてた。
私が、入院した夜。その病棟では、食事は、食堂で皆で集まって、食べるという形式だったのだけど、
親と離れた心細さと勝手が分からない、病院に戸惑い、スタッフも、そっけない。
いつも、温かく見守られていたあたしには、耐えられない日々だった。



食事どころではなくて、ずっと泣いてたあたしに、看護師さんは、声をあげて、叱り付けた。
看護師さんに連れられ、食堂にいくも、食べる気になんて、さらさらない。
ずっと、机に伏せて口、閉ざしてたあたしに、その女の子は、ティッシュペーパーを持ってきて、あたしの
前に置くと、ニコッて笑いかけて、
「一緒に、食べよう。」
って言ってくれた。彼女の優しさに、ここに来て、はじめての温もりを感じたんだ。
その子が、いじめられているのが、耐えられなかった。
でも、あたしには、何も出来なかった・・・。声かける事も、誰かに救い求めて上げる事も。
彼女が、看護師さんに、いじめを打ち明けた時も、看護師さんは、
「そんなの、地元の学校に戻ったら、される事よ。そんな事で、いちいち気にしてたら、元の学校に、
戻れないよ。」
と突っぱねられてた。
恐らく、この病棟で、以前にもいじめがあったに違いない。
見て見ぬフリをする、病棟のスタッフ。


闘友が旅立っても、誰も、スタッフに聞かない。
聞かせない雰囲気。暗黙の了解で、誰にも教わらなくても、新しく入った患児にも、自然と伝わっていった。



入院してから、3日。はじめての面会日に両親が、来てくれた時。
あたしは、泣き叫びながら、帰りたい。と訴えた。
そして、病棟のいじめの事も、打ち上げた。スタッフが患児に関心示さない事も。
母は、これほどまでに、泣き叫ぶ私の尋常じゃない姿見て、
強制退院したい。と看護師に言った。
でも、この日は、休日で、主治医は休み。当直の医師が話しを聞いてくれたけど、独自に判断は出来なく、
それは、まだこの病棟に慣れて居ないから、だとか、子どもの我がままだとか言って、散歩する許可だすから、
ご両親と良く話し合うようにと、両親と病院内を散歩した。
でも、あたしの意思は、堅かった。何が何でも、帰る!
両親も、強く希望した。当直医は、根負けして、今日とりあえず外泊して、また明日もう一度戻ってきて、
主治医と話し合う事。を条件に、一旦、返してくれた。



その夜あたしは、家族に囲まれた中で、安心しきって、眠った。
病院では、決して眠れなかった。久々の安眠。
でも、その翌日。また、病院に戻らればならない。
病院に行く前に、地元の子ども病院の主治医に連絡して、向こうの主治医に、退院させてくれるように、
頼んだ。それから、病院に、2時間かけて、母と行った。
こども病院の主治医から連絡受けた、総合病院の主治医は、しぶしぶながら、退院を許可してくれた。
あたしは、ここに居た、3日間。食事も一切、とらなかった。
スタッフ達への、ささやかな抵抗・・・だった。
その話を、友達や学校の教師にした時、
「あんた、良くそんな抵抗できたな。ある意味すごいわ。あたしだったら、空腹感に負けて、食べるけど。」
って笑われた事があった。。
だけど、あの時は、必死だったんだよー。



もう、2度とここへは、来たくないって思った。
あの、小2のいじめられてた女の子は、あたしが退院して、週末に荷物を父と取りに病棟へ来た時、もう、退院
していなかった。
何だか、悲しくて・・・助けられなかった自分が・・・情けなかった。
自分より年下の彼女を救えなかった自責。彼女は、あたしに、ぬくもりをくれたのに。
「一緒に食べよう」って、優しい言葉、かけてくれたのに。
あたしは、逃げた。彼女は、どんな思いで、この入院生活を、過ごしていたのだろう。
そして、退院したのだろう。



病院は、色んな経験をする場所。
いい思い出も、悪い思い出も・・・。
小児病棟で、起こったいじめ。それは、決して特殊な例ではない。
公には、ならなくても、どこの病棟でも、ある種のいじめは、存在する。
長期に入院してる子が、退院を間近に控えている子めがけて、攻撃する事も珍しい事じゃない。
籠の中の鳥だから。
自由になる友が、羨ましくて。
誰よりも、人の痛みを分かってる子程、自分との違いを大きく感じてる。



あれから、7年。
あたしは、あの病院には、もう行って居ない。たった、3日間だけだった。
でも、あたしにとって、色々な事を学ばせてくれた入院でもあった。
はじめて、親と別れ、地元から離れて、全く新しい病院で、生活した。
その期間、たった、3日間だけだったけど、あたしにとっては、3年もいたような、長い長い時間だった。
そこから、見えてきた事。
時間がたった今だからこそ。見えてきたものがある。
友達が、あの小児病棟へ入院した時、面会や病棟の制限もゆるくなってると聞いた。
いじめの連鎖は、途絶えられたのだろうか?



小児病棟で見た、繰り広げられていた、いじめ。
その連鎖を食い止められるのは、周りの大人、スタッフ達だ。
あれから、7年もの月日が流れ、スタッフもだいぶ変わっただろう。



子どもは、自分と違う何かを見つけると、その違いを敏感にキャッチする。
それは、病気あるなし関係なく、子どもは、そういう生き物。



あたしも、「普通の子」と、ちょっと違ってる。
「ふつう」って何?
あたしがおかしいのか、周りがおかしいのか?そういったズレは、ずっと抱えてた。
いろんな事乗り越えて、少しずつ大人になってきた今も、引きづってる。
でも、周りが見渡せるように、背が伸びた今は、それが、あたし自身なんだと。自分の個性なんだと。
自分をいじめないで、そんな「ちょっぴり変な自分」の事。優しく思えるようになった、ケドね・・・
ほんと、少しだけ・・・だけど。


「生きる」って、「思い出」を重ねてくことでもあるけど。
だけど、その「思い出」は、きっと、「今日」に続いてる。そして、「明日」へと続いてく。
その時は、感じなかった感情も、過去になれば、自分の生きてきた実感として、ココロに宝石のように
キラキラと大切に感じる。・・・そういうことって、あるんだね。。。



あたしは、今まで、たくさんの病児や親御さんと出会ってきた。
我が子の為に必死に、病院に通い続ける親。
仕事と家事の両立で、なかなか面会に来られない親。
我が子が障害や重い病気と告知され、真っ暗な暗闇の中、光さえ見えない絶望を抱いて。
そこから、希望という光、追い求め。
意味は分からなくとも、我が子と一緒に歩もうとする親の成長する過程も・・・見てきた。
障害抱えても、明るく振りまわって、子どもに負けないくらい、明るさを、病棟に届けてくれる
親達。その親御さんの姿勢に、我が子と生きる、向き合う姿勢に、どれほど力を与えてもらったか・・・。



病気や障害を抱えた子どもを持つ親は、多少なりとも「将来への不安」は抱えてる。
我が子を思えば、思うほど。
死ぬまで、自分が抱えこまないといけない問題。
無意識に襲い掛かる、重圧、重荷。
育てても、(老後)何も、返ってこない。
今までの、子への期待の破棄。無力感。
未来は、暗澹たるものだらけ・・・。
なぜ、うちの子が・・・?


一度や二度、障害を持つ親御さんは、思うでしょう。
あたしは、親の愛情を感じてる。愛されて居ないわけでは、決して無い。そう思った事も、ない。
ときには、重たいくらいに。



病棟で出会った子や親たちに、いっぱい勇気もらった。
辛いときは、励まし合い、悲しい時は、見守り、嬉しい時は、共に分け合い。
同じ敷地に、赤の他人同士が存在してる、そんな奇妙な病棟社会で、いろんなものを見、
いろんなものを、感じてきた。



時にそれは、辛いものでもあったけど、素晴らしいものでもあった。



あの時の、入院は、決していい思い出では、ないけれど、私の人生の糧を大きくしてくれたもの
であるのも、確かだ。



あの、女の子は、今どうしているだろう。
元気に・・・しているのかな・・・?


あの時、励ましてくれて、ありがとう。
力になれなくて・・・ごめんなさい・・・。


 


 

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【2006/12/09 14:07 】 | 過去の入院日記 | コメント(6) | トラックバック(1) | page top↑
I先生との出会い
私が、14歳の時。
小児腎臓内科の担当医が、変わりました。
担当医が変わることを前から聞かされていたので、腎臓主治医の外来で、新しい担当医が助手として、いる事を確認しました。

腎臓主治医G先生「今日から、○○先生(前の腎臓担当医)の変わりで、Ressarちゃんの担当をしてくれることになった、後任のIくんです。」
I先生「はじめまして。Iです。よろしく。まだ、勉強の日々だけど、一生懸命Ressarちゃんのこと診させてもらうね。」

これが、私とI先生との出会いでした。

まだ、ジュニアレジデントだったI先生は、上の先生に日々怒られながらも、がんばって、私と仲良くなろうと、面白いことやあそびや勉強を教えてくれました。
I先生が仕事が休みの時は、ドライブもつれてってくれたりした。
I先生は、28歳の男性でしたが、とても気さくで、話しやすい先生でした。
人見知りが激しい私も、すぐに仲良くなれた。

ある時、入院中。
先生は、夜病室に来ては、ベッドの横に腰かけながら、とてもしんどそうな表情を浮かべては、
「頭痛い…。なんだか最近体が重くて、ついてこないんだよね。太ったかな…?笑」
冗談まじりで、そう言っていたI先生は、太ったどころではなく、どんどん痩せていっていました。
夜必ずと言っていいほど毎日、私の病室を尋ねては(個室だったので)、頭痛い、と呟いていました。

私は、心配になり、何度も、
『検査受けたら?』
と、言いましたが、忙しかった先生は、それどころではなく、日々の業務に追われて、
「大丈夫だって!さぁ、気合でがんばるぞ!」
と自分で自分を奮い立たせていた。



あの時、もっと強く、先生に検査を進めていれば…
あんな悲劇は、起こらなかったかもしれない。。
あのしんどそうな顔は、まともじゃなかった。
毎日来てくれる先生の顔を、日ごとに衰弱していく先生を、見るのはとても、辛かった。

「頭が痛いんだ…」
と私の病室にくる度に、呟いていたI先生。
他の先生の前や、教授回診の時は、そんなこと微塵も感じさせぬ、笑顔で、振りまわっていました。
そんな、無理を重ねて、しんどさを自分自身で消化しているI先生を、私は何も言えず、何も、出来ず、ただ、あの時を迎えてしまうことになった。


あの日は、いつもより、早めに病室に訪れていました。そして、いつものように、椅子に腰かけ、私の話や、控えていた検査や今後の治療について、いつもより丁寧に話してくれたI先生。
2時間ほど居て、今日は当直だからと、部屋を出ていきました。
私も、消灯が近づいて、そろそろ寝ようかと、その前にお手洗いに行こうと、車椅子で、トイレに行こうとしたとき。病棟のトイレは、ナースステーションの前を通らなければいけないことになっています。
この日も、詰め所の前を通ると、なんだかいつもとは違う、ばたばたな雰囲気が漂っていました。

経験から、“何かある!”と直感した私は、詰め所の前にある処置室のドアが、開け放たれていて、ナースや他のドクターが、バタバタと出入りしていました。
チラッと中を覗いてみると…そこには、さっきまだ病室にいてくれたI先生が、意識がないのか、ぐたっと、倒れこむように、ストレッチャーに乗せられていました。
先生の体には、心電図の電極や、点滴のチューブ。そして、色々な管が取り付けられていました。

あまりの衝撃を目のあたりにして、声も出せず、そのままトイレにも行かず、病室へと戻りました。。

翌日、いつも来てくれるI先生ではなく、主治医のG先生が診察にきました。
先生からは、I先生の事を、何も言わなかったので、診察が終わったあと、私の方から切り出しました。


『I先生……どうしたの?』

G先生は、はっとした表情を一瞬みせ、その後はいつもの温和な笑みで、

「I先生、ちょっと熱出しちゃって、今日はお休みなんだ。でも、心配しなくていいからね。少しお休みするけど、また元気になったら、すぐに戻ってくるから。」

もちろん、私はそんな説明では、納得できません。
G先生に詰めよりました。

『あたし、知ってるんだよ。昨日の夜、トイレ行こうとして、見たの。処置室で、先生倒れてるとこ。……嘘つかないで!!』

G先生は、私があの現場にいた事を知らず、とてもびっくりしていましたが、やがて、椅子を持ってきて腰かけながら、話しだしました。


「君には、嘘はつけないな。実は…I先生、君の言う通り、昨夜倒れたんだ。頭痛を訴えてね。MRIをとったら…脳腫瘍だった。今、この病院の脳神経外科病棟で入院してる。でも、場所が場所なだけにね。簡単に手術で取り除ける大きさでも、なくて。かなり進んでる。どうしてもっと、早く気づかなかったんだ……」


悔しそうに、言うG先生が、いつものたくましい先生ではなく、少しだけ小さく、寂しそうに見えました。


Ressar『I先生、あたしの病室に来ては、いつも“頭痛いんだ”って言ってた…。何度も検査受けてって、言ったけど、忙しくてそれどころじゃないんだ。って言って、いつも笑って気力だけで乗り切ろうとしてた。昨日も、I先生ここに来たんだよ。その僅か10分後にI先生倒れたの。』


私も、2歳8カ月の時、脳腫瘍になり、そして、6歳に再発し、8歳の時には、また違う脳腫瘍を発症しています。だから、脳腫瘍の怖さも、辛さも、痛みも、少しは分かるつもりでした。
それでも、やっぱり、I先生が脳腫瘍だと聞かされたときは、自分の病気の告知を受けるより、とてもショックでした。


I先生は、その後脳神経専門の病院に転院し、2度開頭手術を受けましたが、すべてを取り除くことが出来ず、そして、場所も悪かったために、ここでは、成す術はない、と宣告されていました。


私も、一時退院した時、I先生が入院している病院に、車椅子で、母と面会に行きました。
5カ月ぶりに見たI先生の姿は、まるで私が知っているI先生ではなく、まったくの別人のようでした。
頬がげっそりこけ、もともと痩せていたその体は、ますます細くなっていて、手には、幾度も刺されたと思われるほどの、点滴痕…。
想像していたとはいえ、やはりショックは大きかった。


I先生と二人だけで話がしたかったので、母には席を外してもらい、I先生は、私と2人になるとこう言いました。

「ごめんな。最後まで、君を診るって約束したのに。約束守れなくて。俺、病気なんてインフルエンザくらいになっただけで、大きな病気とか、なったことなくて。病気の子の気持ちとか、分かるなんて、えらそうなこと言ってたけど、こんな病気になって、初めて気づいたわ。病気の子の気持ちなんて、分かってなかった。そんなん、分かるわけないよな。同じ痛みを知ってないくせに。この病気になって、俺がどれだけうぬぼれてたか、分かったわ。Ressarちゃんは、俺とは比べものにならんくらい、たくさんしんどい思いしてんねんもんな。恥ずかしいけど、俺…怖いねん。」


そう、話してくれたI先生。
その2カ月後、彼は、カナダに脳神経のスペシャリストがいると言うことで、海外にての最後の望みに賭けてみる事にしたのです。
渡米する日。
私は、I先生を見送るため、両親に連れられ、関西空港にいました。


その頃のI先生は、もはや自力では歩けず、車椅子に乗っていたその衰弱しきった体は、まるで、死期を悟っているようでもありました。


I先生「わざわざ見送りに来てくれて、ありがとな。Ressarちゃんもしんどいのに。絶対帰ってくるから。Ressarちゃん、生きるんやで!」

Ressar『うん、分かったよ。Ressarもがんばるからね。先生が帰ってくるまで、生きて待ってるから。』

I先生「俺が帰ってくるまでちゃうで!俺が帰ってきても、生きるんや!あきらめたら、あかんで。ほな、行って来るわ。俺もがんばってくるわな!じゃぁな!」



そう、言葉を交わしただけで、飛行機の時間が来てしまい、先生とは別れました。
その日はすごく寒い日で、珍しく雪が降っていました。
私は、毛布にくるまれながらも、I先生の姿が見えなくなるまで、ずっと、先生の後ろ姿を見送っていました。
父が、『もう行こう。』というのも聞かず、ずっとずっと、先生の姿が見えなくなるまで、飛行機が、空へと発つまで、見送っていました。





私の元に、I先生が亡くなったと知らせが届いたのは、あの日から1週間後の事でした。
1週間、I先生は、生まれ育った日本を離れ、異国で病と必死に向き合った。
そして、旅立っていったのです。まだ、29歳でした。

彼が、あの日。
私に言った、「恥ずかしいけど、俺、怖いねん」
その言葉が、今でも私の耳にこだまのように、残っています。
あれは、ひょっとしたら、迫り来る死への怖さだったのかも知れません。
1年の闘病生活の中で、彼は、何を学び、何を見、何を、感じたのでしょうか?
今となっては、彼の心のうちは、誰にも分かりません。
でも、きっと彼は、病気をして、人の痛みを知り、そして。
辛さも味わったけれども、冷たい涙だけではなく、温かい涙も知ったのではないでしょうか。


今年、I先生の3回忌が終わりました。
私は、出席できなかったけれど、ここで、先生の事、ずっと想っています。

あなたが、とても患児想いのやさしい先生だったこと。
楽しく、どんなときでも、ユーモアを忘れずに笑いをくれたこと。
自らの私生活を捨て、すべてを私たち患児ひとりひとりにつやしてくれたこと。
どんな病気でも、弱点は必ずある!だから、知識という武器を持って戦えば、絶対勝てる!と体を張って、守ってくれたこと。

あなたは、とても優秀なドクターでした。
まだレジデントという、勉強を重ねる身でしたが、あなたが、今生きていたならば、きっと優秀な医師になっていたでしょう。

「将来は、小児の腎臓の専門医を目指してるだ。」
と微笑みながら、将来を語ってくれたI先生。

あなたの叶えられなかった夢は、あなたの大切な人が、叶えてくれていますよ。
第一線のドクターとして、彼女もとても優秀なドクターで、多くの子どもたちを笑顔にしています。



「頭痛いんだ…」

あの時のあなたの言葉が、頭を離れられません。
どんなに、しんどかったでしょう。
どんなに、痛かったでしょう。
薬剤部にいっては、痛み止めを貰っていたと言っていた先生。


気づいてあげられなくて、ごめんなさい。
何も出来なくて、ごめんなさい。



「Ressarちゃんが、俺が受け持ったはじめての患児やった。正直、俺まだ勉強不足やから、Ressarちゃんの病気も詳しくは分からんけど、俺はRessarちゃんの生き方に感銘受けたし、難しい病気抱えても、前向きに生きようとするRessarちゃんを人間としても尊敬できる。俺が、こんな病気になったんも、もっと人の痛みを分かりなさいっていう神様からのお告げやったんかもな。医者の不摂生ってやつや!」


辛いのだろうに、しんどいだろうに、痛いだろうに、
そんなこと、微塵も感じさせぬほど、明るく、いつものユーモアを決して忘れなかったI先生。


私は、あなたを忘れません。
あなたと過ごした、1年と8カ月の日々の事を。


私の担当医になってくれて、ありがとう。


天国のI先生へ。

【2006/11/20 00:18 】 | 過去の入院日記 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
orange事件
中学生の時の入院中の出来事。
中2の終わり。私は、検査の為、入院する事になりました。
小児病棟に空きがなく、無菌室も一杯で、仕方なく成人内科病棟に入院する事になった時の事。
ある同室のおばあさんがいた。その人は、リウマチで手の動きに制限があり、ほとんどの事を周りの介助なしでは、出来なかった。
毎朝、朝食のトレイにオレンジがついてきました。
でも、おばあさんは、手の動きが制限されるため、一人で剥けません。
その頃の私はまだ、動けていたし、身体はめちゃくちゃだったけど、まだ今よりは、マシだった。
だから、私は毎朝そのおばあさんのオレンジの皮を剥いて、トレイに食べやすいように、置いていました。それが、私の日課だった。
おばあさんから、『ありがとう。』と言われるのが、嬉しくて。
でも、入院中再発し、手の動きが思う様に行かず、段々、おばあさんのオレンジの皮を剥くことが出来なくなった事はおろか、自分自身の身の回りの事さえ、出来なくなった。
ある日。おばあさんにもう、オレンジを剥く事が出来なくなった事を話しました。すごく、辛かった。自分の事よりも、そのおばあさんのオレンジを剥くことが出来なくなった事が、私の中でずっと後悔する事になったのです。
おばあさんは、優しくこういった。

『そんなん気にしいな。あんたはあんたのやる事があるんや。わたしの事は気にせんと。皆、しんどうなって、ここにおるんや。あんたが謝る事あれへん。』

おばあさんの、優しさが、温もりが、余計に辛かった。
どうせなら、責めて欲しい。『どうして、剥かれへんねん!』って怒鳴って欲しい。優しくされれば、されるほど、出来なくなった自分が非力のように感じた。

翌日、おばあさんの食事のトレイにオレンジがそのまま乗って、下げられていたのを見ました。
ベッドで泣いた。わんわん泣いた。
看護師さんが心配して、『どうしたの?』と声をかけて下さる方もいた。でも、先生も看護師さんも、再発して動けなくなった事を泣いているのだと勘違いしていた。
そうじゃない。私が泣いているのは、あのおばあさんのオレンジの皮が剥けなくなった事。私の変わりに、誰も剥いてくれる人がいなかった事。
同室の人は、私以外、皆動ける方ばかりだった。一人くらい、おばあさんのオレンジを剥いて上げる事だって出来たのに。

どうしてですか?どうして誰も剥いてくれなかったのですか?
どうして、知らん顔するのですか?
そんな、何分もかからないでしょう。
オレンジ一個の皮を剥くくらい。ほんの少しの時間があれば、出来る事です。なのに、看護師さんも、看護助手の方も、同室の方も、皆、見て見ぬふりをした。

私が、動けたら。私が、再発さえしなければ。
これからも、続けていけたはず。オレンジの皮を剥くくらい。

たまりかねて、さりげなく看護師さんに言って見た。
そしたら。

『だったら、食べなきゃいいじゃん。』

オレンジを食べ無くったって、死ぬわけじゃない。病気が良くなるわけじゃない。
でも、あのおばあさんの気持ち。考えた事ありますか?
少しだけでも、ココロに寄り添った事ありますか?
悲しかった。誰も、あのおばあさんの気持ちに気づいてあげれてないのが。日々の業務に追われて、一番肝心な、『患者の心に寄り添う事』が出来ていない臨床の現場に、目の当たりにし、とてもやりきれなくて、悲しくなった。

そのおばあさんは、息子さんに引き取られ、在宅に戻られました。
最後に、あたしに言った。

『あんたがみかん剥いてくれた事。すごい嬉しかったんやで。ありがとな。あんたはまだ若いさかい。こんな病気に負けたらあかんよ。あんたの優しさがほんま嬉しかった。』

と言って、帰られていきました。

あのおばあさんに、もう会う事はありませんでした。

たかが、オレンジ。されど、オレンジ。
この事件は、入院中の切ない事件でした。

いまの季節。オレンジを見るたびに、あのおばあさんの事を思い出します。

テーマ:思ったこと、考えたこと - ジャンル:ブログ

【2006/11/05 13:32 】 | 過去の入院日記 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
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