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最後の記事・・・ありがとう。
最後の記事・・・

いつも愛読して頂き、ありがとうございます。

今日は皆様に残念なお知らせがあります。
今日を持って、「いのちの再生」本家HP及び等Blog他一時閉鎖することにしました。

本家サイトを立ち上げて、約2年。その間、実にたくさんの方々の訪問があり、私自身闘病中の励みになりました。多くの方々と出会い、触れ合い、学び、教えられ、勇気づけられ、げんきをもらい・・・。。。
ここには書ききれないくらいの大きなものを得ることができました。
最初は、長年書き続けてきた手書きの日記が書けなくなり、その延長線上のつもりで、立ち上げたサイトでした。

日本では初めての症例、お医者さんの多くはこの病の存在も知らない、そんな孤独な病と闘い続け、胎児期に亡くなるであろうといわれていたものが、生を受け、17年も生きてこれたのは、ほんとうに奇跡だと言わざるを得ません。そんな孤独な病の存在を知ってほしい、ひとりでも多くの人に・・・という啓発的な目的は、一切、ありませんでした。

私は生まれながらに骨髄不全で、自らの骨髄では血液を造血することができないため、生まれる前から輸血が必要でした。人の善意の血液をもらわなければ、生きてはいけなかったのです。そんな自分に、失望し、情けなく、つらく、悲しく、みじめで、嫌いでした。
2歳のときに、タイムリミットギリギリで骨髄移植をしましたが、残念ながら生着せず、失敗に終わり、その後も無菌室への入退院は繰り返されました。
だからこそ、いのちの大切さを世に訴えたいわけでも、骨髄バンクに登録してくださいと言いたいわけでも、献血をお願いします。と言いたいわけでも、ありませんでした。むろん、同情を集めるために、サイトを立ち上げたわけでは、決してありません。
ただ、私のいのちが尽きるときまで、「書く」というその機能が目的が方法が、残されている限り、私は恩師から教えられたことと、自らの持ち合わせた天性を生かしながら、書きつづりたいとおもったのです。
私の生い立ちを。そして、想いを。

最初、ここを教えた知り合いは、私の大切な人たちだけでした。ごくごく僅かでいい。
全ての人に好かれることは、不可能なのと同じように、すべての人に支持される、言葉だってありません。
言葉の重みを知り、言葉の怖さを知り、言葉の素晴らしさを知り、言葉の意味を知ってから。
私は書くことが怖くて、たまりませんでした。
書くことで、私の心の内面を覗かれているような、そんな恐怖もありました。そして、不特定多数がみているネットへ公開することも、ためらいがある毎日でした。でも、「書く」ことは、私の「人生」だったのです。
立ち上げた当初から、私の病気は更に進行し、一人では立つことも歩くこともできなくなりました。声を思うように出すこともできなくなりました。

何度も意識を失います。何度も心臓が停止します。何度も・・・痛みが襲います。
それでも、私は体の、心の痛みに、強く耐えようと決めたのです。生きるためには、強くなるしかなかった。

しかし、もう、どうやら限界のようです。
右目は完全失明、左目の視力もほとんどないまま、拡大鏡をとりつけ、何とか今日まで、痛みと闘い、日々の病気の進行と迫り来る死の現実と向き合いながら、死のそのときまで、ここで私の日々を書きしるしたい。そう強く願い、続けてまいりましたが、キーボードを打つだけで、精いっぱい。
周りのことも考えられません。そんなままで果たしてここを続けてよいものだろうか?管理人として、一方通行のサイトになっていないだろうか?体調不良でレスできないまま両掲示板も閉鎖し、コメントにもレスできず・・・そんなふがいない自分が、ものすごく、いやでした。

今年に入ってから、ずっとHP閉鎖について、考えてきました。それでも踏み切れなかったわけ・・・。
やっぱり、書きたい。それが批判をいただくような内容であっても、それが真実である限り、書き続けたい。
そして、生きたい。生きていたい。
明日誰かと話がしたい。明日笑いたい。
そう思って、閉鎖も先へ先へと延ばしてしまいました。管理人の優柔不断さで、皆様には大変ご迷惑もご心配もたくさんたくさん、おかけしました。

でも・・・どうやら、私の命の電池はきれかかっているようです。点滅しはじめては、また持ち直し、その繰り返しで、昨年は、もって3カ月でしょう・・・と余命宣告を受けた身です。それでもあきらめきれず、せめて後2年・・・いえ、ぜいたくは言いません。後、1年は生かせてほしい・・・と主治医に無理を言い、ターミナル期にも関わらず、厳しい治療を併用していただいていました。もう治療がないのはわかっています。
よくならないのもしかと受け止めています。

そして・・・死が近づくのも、そんな遠い将来でないことも・・・知っています。
だけど・・・せめて。最愛の弟が小学校を卒業するまで、それまでは、生きていたいと思ったのです。
彼が中学生になれば、今よりもっと、いろんなことを見つめられるようになるでしょう。
そして、時間はかかるでしょうが、姉の死を受け入れることができるはずです。そして・・・両親を支えてくれるでしょう。弟には、話しておかなければならないことがまだあるのです。

父のこと、母のこと・・・そして、祖父母のこと。
それは、彼に「託す」ことではなく、「語る」ことなのです。
あなたの父は、とても立派で、最後まで人を信じ続けたのだよと・・・。
あなたの母は、とても繊細で、無償の愛で子どもを育てていたんだよと・・・。
あなたのおばあちゃんは、あなたを小学生に入るまで、育ててくれたんだよと・・・。
あなたのおじいちゃんは、無口だけど、とても心配し、可愛がってくれ、自らの戦争体験を決して多くを語ろうとはしないけれど、自らの生き様で私たちに教えてくれていたんだよと・・・。
おばちゃんは、いろいろ問題起こしたけど、それでもすべてが不幸だったわけではなく、やさしさも持ち合わせて、ただ不器用だから、いろんな人を不幸に、そして自分自身をも不幸にしてしまったんだよと・・・。

もっともっと、話しておきたいことが・・・ここにあるのです。
せめて・・・後、1年。私に時間をくださいと。
何度神に仏に、先祖に。祈ったことでしょう。
その願いは、通じませんでした。
あきらめたわけではありません。投げやりになってるわけでもありません。怖いくらいに、冷静に物事を見つめている自分が、ここにいます。
人間は、無力です。病気は医学のそして人間の、限界を教えてくれました。
病気になんてなりたくなかった。病気なんて、くそくらえだけど・・・。仕方ないっていう思いもあるのです。
病気で、たくさんのことを学びました。たくさんの人と出会いました。たくさんのことを知りました。たくさんのやさしさを知りました。たくさんの悔しさに出会いました。たくさんの涙を流しました。たくさんの痛みを知りました・・・。
しかし、そのことを不幸だと感じたことは一度もありません。ただ、悔しいのです。

病気で、たくさんのものを失いました。夢を失いました。食べることを失いました。歩くことを失いました。声を出すことを失いました。光を感じることを失いました。音を感じることを失いました。体の機能を失いました・・・。
得たものがある一方で、たくさんの涙を流したのです。得た財宝は、その代償であるという思いです。

父が言いました。
「娘のためなら、すべてを捨てる覚悟はできています。」と。
どんな想いで、この言葉を、主治医に投げかけたのでしょうか・・・。どんな想いで、娘の余命宣告を聞いたのでしょうか。どんな想いで、私をおぶってくれたのでしょうか。

母が言いました。
「はるかを守る。」
不器用で、泣き虫で、繊細で・・・。
そんな母が、どんな想いで、私をここまで育ててくれたのか。どんな想いで、私を生んでくれたのでしょう。どんな想いで、様々なことから、私をいのちがけで守ってくれたのでしょう。

祖母に助けられたこともあります。無口な祖父は、戦争の怖さを、そして人々の弱さと強さを、その生きた人生から、教えてくれました。

たくさんの涙を流し、冷たい涙だけではなく、温かい涙も知りました。
車椅子であっても、あそびに連れて行ってくれたボランティア仲間。寝たきりになっても、今まで通り付き合ってくれた病気仲間。語りかけてくれた人々。
疲れたとき、そっと見守り、距離を置いてくれた人。
生きてていいって言ってくれた人がいた。生きなきゃだめと言ってくれた人がいた。
自己中心になったとき、私は今でも死にたくなります。いのちの尊さを大事さを大切さを訴えている私にも、「死にたい」という願望はあるのです。
病気を抱えた身にとって、自分で何もできないということは、生きるうえではとても辛いことです。
トイレも一人でできない。寝返りも打てない。食事もできない。
綺麗事だけじゃ、生きていけない。どこかで折り合いをつけ、あきらめ、妥協し・・・そうしなければ、生きていくことはできません。

どんな状況でも、生きたいと、生きていたいと・・・その状況を受け入れ、前向きに歩もうとしたとたんに、また奈落の底へ突き落とされる。その繰り返しです。

今回の脳腫瘍の進行・・・OPもできず、放射線も限界であることを知り、もういい加減、治療に頼るのはやめにしよう。という医師の言葉に、どんだけ涙を流したか・・・。
生かせてほしいと。医師は言いました。

「子どもって両極端ですよ。生きる力も持っているけど、それがふと、尽きたとき、簡単に死んでしまう生き物ですから・・・」
私は今、どちらでしょうか。どんなに厳しい状態であっても、これまで、どんなに覚悟をしてくださいと言われても。何度も心停止しても。。
私は脅威の力で、生き抜いてきました。生きて生きて生きて・・・生き続けてきました。奇跡の17年を生きてこれたのです。だから、今回だってまだ・・・だいじょうぶ。また乗り越えられるよ。そう思うこともないではありません。でも、わかっているのです。
いつ、そのときが来ても、おかしくはないと。いつ、何があっても、不思議はないと。
だから、私はこれまで、明日のことを見つめるより、今あるこの瞬間を大事にしたいと、生きてきました。
それは決して、人さまに自慢できる生き方ではありません。悲観的で、それでも私なりに、今日を、今を、この時間を、生きたいと。懸命に考え、生きたのです。

言いかえれば、そのような生き方は、「今を大事にする命が輝く生き方」であるかもしれません。
でも、ほんとうに、私には、そして私たち家族には、この時間の「今」しか見えないのです。明日のことはおろか、1時間後のことも、わからないのです。
そんな日々を過ごしてきた者にとって、命の輝きと言われても、私のいのちは輝いているのかどうかもわかりません。
ただ、生きたい、生きていたい、生き続けたい。
そして、再び、夢を追いかけたい。
その想いは、本物でした。目指していたものも、本物でした。

学校にも満足にいけませんでしたが、ボランティア時代に出会った大切な人たち・・・愛する人に出会い、恋という形すら知らず、結婚という形も描けず、でも、私は幸せでした。
恋も知らず、死んでゆくよりは、心の底から愛しいと思える人と出会えたのですから。
たとえ同じ道を歩むことはできなかったとしても、私は彼を尊敬し、愛し、彼の存在を確かめることができただけで、幸せでした。

いっぱい泣いた。いっぱい笑った。いっぱい怒った。いっぱい悔しんだ。

どこの家庭にでもあるように、我が家にも笑いあり涙ありのふつうの感情があります。

今日までここを続けられたことを、幸せに思い、そして、ここまで生きてこれたことを誇りに思っています。
病気であったことは確かに不運なことでした。
しかし、決して不幸ではありませんでした。
私は生まれたときから、生まれる前から病気であったけど、難しい病気だったけど、この世に生を受けたことを、誇りに思っています。そして、この両親の元に生まれてきたことを、何よりもの誇りです。

もしも、生まれ変わることができたなら。私はやっぱり、父と母の子として、生まれきたい。そして、出会った人たちや大切なことはそのままに、第二の人生は病気が治ればいい・・・そう、思っています。

私はこれから、もう治療をやめることになるのかもしれません。それはすなわち「死」を意味します。
でも、もう治療をしても、意味はないのですね。
小さいときから、生まれたときから診て来てくれた主治医や教授に話を聞き、また話を聞いてもらい、一番何がよいのか。
不確かな10年20年先を見通した治療をするよりも今を大切にしたいのちのQOL重視の本来の、ターミナル医療を継続し、在宅で維持できるものであれば、その方があなたのためになるのではないか。
17年も飽きず懲りず見捨てず診てきてくださった教授の先生や主治医の先生方が下された結論に、異議はありません。それが、よいことなのでしょう。
信頼している医師団であるから、彼らの判断に間違いがあるはずない。と、言い切ってみるも。やはり、どこかあきらめられない想いも抱いているのが現実なのです。

在宅に戻り、ターミナル医療を重視するのか、意味もない自己満足に過ぎない厳しい治療を受けるのか。
私にもう、治療を受ける力も体力もそれに耐える気力もありません。

ここまでしていただいた医師団の方々には本当に感謝しています。報酬ももらえなのに、診療が終われば、毎日雨の日も風の日も、それこそ台風のときでも、往診に来てくださった主治医の先生。
「何か困ったことがあったら、夜中でもいつでもお電話ください。駆け付けるのにどんなに飛ばしても1時間はかかりますが、必ず伺いますから。微力ですが協力させてください。」とおっしゃってくださった在宅医の先生。わざわざ隣の隣の隣の街から、来てくださって。高速を使っても、40分はかかるのに。

私は、本当に幸せです。
たくさんの温かい方に出会い、たくさんのやさしさに触れ合い・・・。たくさんの温かい涙を知りました。
人の汚れた心もみてきたけれど。人のやさしさに出会うと、この世もまんざら捨てたものでもない、と思うのです。

最後に・・・
毎日、100人来てくださっていた方が、今では250人前後、多いときで400人を超しました。
こんな、わがままで、身勝手で、愚痴の多い、一難病児にこれまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
17歳の子娘に付き合っていただいたことを、感謝し、厚くお礼申し上げます。
そして、ここ(本家HP及びブログ等)をこのような形で閉鎖してしまうのは、どこか寂しくもあり、情けない限りです。もっと続けられたのでは・・・。そう思っていることも、私の今のこころです。
でも、限界はわかっています。ここまで書くのに、何日もかかりました。

「このサイトが大好きです。」
「これからも書き続けてくださいね。」
「あなたの文字が大好きです。」
「夢をあきらめかけていたけれど、あなたの生き方で、もう一度夢を追い続けようと思いました」
「ありがとう」・・・・・

たくさんの温かいメッセージをいただきました。
こちらこそ、ありがとうございました。
ここは、決して、勇気や希望や元気を与えるサイトではありませんでした。皆様に心配ばかりかけ、不安にさせ、迷惑をかけ・・・本当に、管理人として恥ずかしい限りです。
実は私が一番、このサイトに助けられていたのです。しんどいとき、ちょっとここに来て、文字を残すことで、げんきをもらえました。
皆様の温かいコメントで、笑顔になれました。

本当に、2年間、お付き合いくださり、励ましてくださり、見守ってくださり、本当に本当に、ありがとうございました。

一昔前と比べ、情報開示の時代になり、ネットを一つあければ、たくさんの情報が飛び交わっています。
悪い情報も良い情報も、自分の中に取り入れ消化し・・・そして、人は豊かな人格を形成していくのです。
私が生まれた17年前は、まだそれほど胎児医療というものも、駆けだしたひよこの学問でした。
それが、この10年の間で、医療はますます発展し続けています。
昔は、不治の病といわれていた病気が、時代が進むにつれ、原因が解明され、研究機関が増え、治療方法も確立できる時代となりました。

小児がんの子どもも、今では7割の子どもは、治癒を迎え、げんきに、社会に出ています。それに伴い、晩期障害(治療の後遺症)などの問題も多様化してきたのも事実です。
しかし、言い換えれば、約3割の子は、今も尚、駆け足でこの世を去っています。
それは、悲しい現実なのです。
治るといっても、そのためには壮絶な闘いをし、そして治療の甲斐もなく、再発を繰り返し、残念ながら亡くなってしまう子もいます。
そのたびに、多くの無念と自分の非力と・・・小児がんがまだまだ、小さな生命を脅かす恐ろしい病に変わりがないと、肝に銘じます。
そして、どんなに医学が進歩し、日本は一部の先進国に比べて、ある一部の分野では、勝っていても、見えない部分で、日本独自の偏見や日本の医療の貧しさを感じずにはいられません。

今、この情報過多の時代で、ネットを開けば、多くの情報を開示し、求めることができます。
そして、多くの人が、情報を世間に発信しています。
たとえば、小児がんの闘病記、我が子の闘病を親御さんが綴ったHPやブログも多く拝見させて頂きました。
それで、多くの人が救われたこともあるでしょう。
現に私も、たくさんのHPと出会い、たくさんの子どもと出会い、たくさんの親御さんと出会い・・・。多くのことを学ばせて頂き、多くのことを知り、多くのものを得ました。
そして、私も情報を発信し続けてきた者のひとりです。が、これだけは、覚えていてほしいのです。
HPで紹介や情報を開示している人は、ほんの一部しかいないということを・・・。
今、この瞬間にも、病院で我が子の闘病と向き合いながら、PCさえ触れられず、情報を求める余裕もなく、まさに絶望の淵にいる親子がたくさんいるということを。

我が子の闘病を記録として、HP上に載せられている人のほかに、たくさんの葛藤と涙を抱え、今日もいのちと向き合っている人々がいるということを。
それは、テレビの世界でも映画の世界でもなく・・・ただ、私たちが知らないだけなのです。
その世界を、見ようとしないからなのです。
身近に感じられないからなのです。

ほんとは、今でも多くの小児病院・小児病棟では、今日もまた壮絶ないのちの闘いが、親と子の、そして医療者との物語が、築かれているのです。
ただ、一般の私たちには、それをそばから傍観することもできず・・・TVで見る世界でしか感じられないのです。
だから・・・HPに紹介できない、自分の我が子の闘病を、記録としてまとめられない親がたくさんいるのです。
その方々の方が、HPを開いている人よりも、たくさんいるということを・・・どうぞ、ご理解ください。


尚、しばらくはこのブログも本家HPも、残しておこうと思います。いつか、また、過去のわたしにも会いにいってやってください。あんなときもあったなぁ~と思い返していただければ、私はそのとき、あなたの心に記憶に、生き続けることになります。

また、いつの日か、どこかでお会いできることを夢みています。そして、いつの日か、サイトもこのブログもまた運営できたらいいなと・・・。戻ってこれる日を夢見ています。そして、まだまだ、生きています、と同時報告できることも・・・夢見ています。
後、諸々のブログも同じ理由で、一時閉鎖します。
しかし、書きためていた文章をこれ最後の力で、UPしますので、お時間があり、ご興味がおありでしたら、見てくだされば管理人として、幸いです。


皆様のご健康とこれからのご活躍を心より祈って・・・
最後の記事とさせていただきます。


長い間、読んでくださり、本当にありがとうございました。

2007年6月23日 いのちの再生管理人 Ressarことはるか


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【2007/06/23 18:01 】 | 想うこと | コメント(22) | トラックバック(0) | page top↑
信じる・・・痛さ。
入院中、生きるってなんだろう・・・?
とかいろいろ考えさせられた。
と言っても、現実は、在宅に戻ってからの方が、良くより鮮明に、考えているかな。

入院中は、ほんと治療の事で精いっぱいで、体の症状のきつさについていくのがやっとで、なぜ人は生きるか?なんて事も考える余力は、なかった。

そう、考えるのは、人が死ぬことに、敏感になっているのかも知れない。
あたしは今まで、いろんな病棟で、人の死に近すぎた。

まだ?と言ってもいいくらい、たぶん死を考えるには若いのに。人間、みんないつかは、死ぬんだ。と、どこか達観しちゃってる自分。

死を考えるのは、もっと先のことでいい。
そうであって欲しい。
身内の死を経験するより先に、自分の死・仲間の死を意識しないといけなかったのは、私のその後の人生に大きな影響力を与えた。
生き物はいつかは必ず死ぬ。
それはだれでも平等に与えられたものだと、教えられた。だけど・・・幼くして死ななければいけなかった子と多くの大人が悪さをしている世の中で・・・矛盾したこの世に、感じるものはいくらでもあるけれど・・・。。

それを言葉に出来るほどの、力は私にはなく、また人を許せる寛容の心も備わっていない。
もっと、人に優しくなりたい。もっと、強くなりたい。もっと、素直になりたい。もっと、人を許せる心を持ちたい。もっと、何でも笑い飛ばせるくらいの大きな人になりたい。。

そう思いながら、毎日現実を見つめて、生きているんです・・・。

人を信じるのって、難しい。どうして?なぜ?の連発。人を信じるたびに、自分を見失う・・・それは自分が弱いからだと思っていた。
でも、バカな私はどんなに裏切られても、信用を失っても、嫌いにはなれなかった。あたしは、人を寄せ付けないオーラーみたいなものがあると良く言われる。近寄りがたいとも言われた。学校でも友達はあまりいなかった。というより、学校に行けば、寄ってきてくれる子はいたけど(多分先生から来たら仲よくしてあげてね。みたいなことを言われていたと思う。)あまり喋らなかった。
それは、もう小さいときからで、人付き合いが苦手というよりは、早くも人生を悟っていた・・・といった方が正確かも知れない。

何度も人を信じれなくなった。医療を、自分を、人を、信じられず、この世に確かなものなんてあるのかと思った。
それでも、もう一度自信を持ち、信じる力をくれたのは、主治医や多くの仲間や家族だった。
苦手な人は距離をおけばいい。でも、社会では自分の好きな人のみの付き合いでは、やっていけないこと。それを私は、ボランティア活動で学んだ。ほんの少しの間だったけど・・・色々な人たちと出会い、いろいろな事を短期間で学んだ2年間は、本当に充実していて、楽しいときでした。

体は悲鳴をあげていたけれど、今の私の支えでもあります。大事なのは、人を信じるという姿勢。。
そして、難しいのは、人を信じる事の兼ね合いだ。だまされても、裏切られても、見捨てられても、信じる事の意味を、2年間のボランティア生活で学んだような気がする。

私の周りには、いつも見守ってくれる人がいた。家族がいて、医療者がいて、仲間がいて・・・良き理解者がいた。ただ、見えなかっただけ・・・。

自己中心になると、周りが見えなくなる。健康な人との距離を感じては、孤独になる。
同世代の子の話に付いていけなかったとき、ものすごく孤立する。あの時から・・・全然、前へ進めていない私。。同じ事を繰り返し、同じ問題にぶつかり、悩み、生きようと必死でもがいている自分・・・。


悩むのは、人生に永遠のテーマ。
変わらない、苦悩。
それは、私が生きていくうえで、どうしようもできないこと。

そう、割り切ってみた。
【2007/06/23 16:29 】 | 想うこと | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
私の家族☆
今日は家族の事を書きたい。

父は2人兄弟の次男坊。
父はやさしい人。穏やかな人。広い人。でもちょっぴり、子どもな人。
息子と本気でけんかして、子どもに呆れられる人。
一筋縄ではいかない人。甘えん坊。仕事一筋で、でも仕事先でいろいろあり、仕事には一生懸命だけど、なかなか恵まれない人。お人よし。本気で怒る事を知らない人。
でも、たぶん、きっと、父だから、生まれる前から病気だったあたしを、ここまで支えてくれたのだろう。
今でも一緒に、いろんな会話をする。今時のアイドルも知っているし、趣味はゲーム。MY機器は、プレステ2。
そんな、昔の仕事先でいろいろあり、一人で会社の事情を背負い込み、家族に心配かけないようにと、たった一人っきりで、何もかも背負い込んだ人。
頼りになる人。守ってくれた人。強い人。信じれる人。
「娘のためなら、全てを捨てる覚悟は出来ています。」と主治医に向かって、言った人。でも、父の口から、グチを聞いた事はない。男の人って、そんなもんかなぁ。
娘にちょっかい出して、嫌われる人。息子と本気でお菓子の取り合いする人。妻に失言して怒らせる人。
自分の用事で出かける時(例えばパチンコとか)朝早く起きて、布団を片づけて、朝ご飯をつくって、トイレ掃除して、玄関掃除して、それから出かける人・笑。
気が小さい人。でもって、ものすごく立派な人。
父みたいな、そんな男性と、一緒になりたい・照。


母は、2人姉妹の次女。母の家系はいろいろ複雑で、ここに書くべきことではない。
姉とは10歳離れているが、父親が違うので、いろいろあり、幼少期も成人してからも姉と一緒に暮らした事はない。母もたった一人で、親を支え、子を支え、夫を支え、家庭を支え、一人で背負い頑張っている人。母もとてもやさしい人。でも怒ったら、普段やさしいだけに、だれも止められなくなるほど暴走する。
子どもみたいに純粋な心を持った人。女同士、娘と対立する事もあった。親の愚痴も聞かされた。祖父母の介護を共にやった。あたしを何度も助けてくれた。支えてくれた。悲しい時は一緒に泣いてくれた。
嬉しい時は一緒に喜んでくれた。涙脆い人。感情移入する人。心配性。過保護。
でも、そっと見守ってくれる偉大な人。尊敬する人。いつもあたしの介護を頑張ってくれる人。親の介護も頑張り、あちこち走りまわってる人。すごく、頼りになる人。面白い人。家庭に笑顔を届けてくれる人。
妻として母として、立派な女性。
あたしも母みたいな心大きな人になりたい。


10歳小学5年の弟は、ゲーム大好き少年。心やさしく清らかな子。好きな事には没頭し、苦手な事でも一度決めた事は必ずやり遂げる立派な子。
何度も姉の急変時に助けてくれた子。友達多く、誰とでも仲良くなれる子。以前不登校気味の子に声かけ、友達になり、以来その子は毎日学校に来るようになったと先生から褒めて頂いた。
以前はマリオが好きだったが、今はポケモンに熱中。車が大好きで、3歳の時点でほとんどの車種の名前をいえた子。言葉に遅れがみられ、3歳までほとんどしゃべらず、心配になり、発達外来にも連れて行ったりしたが、女ばかりの家庭で育ったため、言葉の発するタイミングを逃してしまったと言われる。が、3歳をすぎたころから、これまでの反動!といわんばかりにおしゃべりになる。
融通の聞かないところあり。変なところで神経質。
甘えん坊。自分の感情を抑え込む傾向あり。幼い頃、「おねぇちゃん」といえず、「おにぃたん」と言って付きまとっていた。喧嘩ばかりするけど、すぐに謝ってくる子。あいさつが出来る子。弟もアレルギー体質の遺伝で、軽い喘息や軽度の腰椎側湾症があり、季節性に体調を崩すが、ほかは至って元気。
食欲は例え40度の熱が出ようが、旺盛で、開業医には呆れられる・・・。ここ5年あまり、入院はしていない。
姉の車いす介護・食事介助・身の回りの世話など、何も言わずやってくれる心やさしい子。
あたしの世界で一番大切で大好きな子。この子のためなら、死んでも本望だとさえ思っている。命を投げてでも、守りたいとさえ思う。でも、弟からしたら、うっとうしい口うるさい姉で嫌われること、多々あり…。
幼い頃から我慢ばかりさせ、親に一番甘えたかった時期を奪ってしまったと心から後悔している。が、心素直に、まっすぐに、子どものまま成長してくれた事が姉としての誇りです。これから思春期という最も多感な時期に入ろうとしているが、いつまでも心優しく、おおらかな男性へと成長してほしい。
いつか、君の成長は見れない時が来る。成人して、結婚し、子どもを授かり・・・そんな君の将来を描きながら、今の成長の日々をずっと噛み締めたいと思っている。


そんな大切な大切な家族。
家は別々だけど、祖父母も私の大切な家族なので、書いておきます。

母方の祖父は御歳82歳(5月生)。母の実の父。
頑固で戦争を経験してきた人だけに、無口でこれまた一筋縄ではいかない人。優しく、おおらかで、泣いていると慰めてくれた人。現在歳の加齢で耳が遠くなり、ほとんど会話が出来ない状態だが、表情での会話が出来、妻である祖母に尻に敷かれている。
歯肉が悪く、歯の痛みにずっと耐え、食事量も減り、肥満体形だった祖父は、40代ぎりぎりで、痩せ体形になった。私の幼稚園時代は、毎日のように園の外で、見守ってくれた人。自転車の後ろに乗って、どこでも連れてってくれた人。良く入退院時の荷物運びを手伝ってくれた人。幼稚園・小学校の時の運動会には参加できなくても、朝一番で場所取りにフェンスを超え、誰よりも孫を心配し、陰で支え続けてくれた人。そして、今のこの日本を、支え続け貢献した人。

祖母は、御歳82歳(3月生)。同じく頑固で、一筋縄では行かない人。おしゃべり好き。訪問看護師さんやヘルパーさんとよく喧嘩し、トラブルとなった・・・。
意地悪ばあさん。口達者。5年前に寝たきりとなり、一時は全く動けずにいたが、高齢の身ではありえないくらい脅威の回復を見せ、自力で歩けるまでに回復。今は支えがなくとも数メートルは自分で歩ける。家事も行う。内科的持病のため無理は出来ず、季節の変わり目は発作を度々起こすが、ここ2年は大きな発作は起こしていない。気性が荒く、母とよく対立していたが、それでもとてもいいおばあちゃん。心配性で、少し薄着で行くと、よく怒られた。年金の月には、必ずお小遣いをくれ、おいしい処に母に内緒で食べに連れてってくれた。病院の通院にもよくついていった。せっかちで、自分の意見を通す人。厳しい人。でも、すごくやさしくて、家族の事を誰よりも心配し、案じてくれる人。毎日3回は必ず電話がかかってくる。母は、徒歩7分の距離にいる祖父母んちに毎日往復している。おばあちゃん大好きっ子。

父方の祖父は、御歳82歳(6月生)。3年前に妻に先立たれ、一人静かに暮らしている。祖母が倒れてからずっと、一人で介護を頑張り、最期の最後まで、妻を愛し、寄り添っていた人。祖母の葬儀の日に、初めて祖父の涙をみた。少し離れた距離に住んでいて、父がいるときでなければ、めったに顔を見せに行くことが出来ないが、時々電話で私の様子を気にかけてくれる人。入院した時、お見舞いに来てくれた人。私たちがあそびに行ったら、「お腹すいたやろ?何か作ったろ。」と、ご飯を拵えてくれる人。自慢のおじいちゃん。

父方の祖母は、3年前の冬に他界。脳内出血で左半身麻痺になり、リハビリ入院・施設入院の繰り返しだった。倒れてから9カ月後、祖母は亡くなった。生前、よく昔のあそびを教えてくれた。狭い家ん中で、かくれんぼをした。糖尿病を患っていた祖母は、病気の怖さを教えてくれた。末期になってから、腎障害が目立ち、目が見えなくなった。生前祖母は、こんなことを言ってくれた。「おばあちゃんもこんな訳のわからん病気持ってて、はるちゃんと一緒や。」だから、ガンバロウとも、だから、あなたもとも、言わなかった。倒れてから、一泊だけ外泊してくるというので、祖父の介護ヘルプのつもりで、出張ボランティアに向かった。その際、祖母がかたくり粉のくず湯をつくってほしい。といわれ、失敗ながらも、おいしい。と言ってくれた。もっと、上手につくればよかった・・・。生前、痛い痛いとよく言っていた祖母。骨が出て、寝たきりだった祖母にあたしは、ただ痛いね。と同情することしか出来なかった。もう嫌だ、死にたい。とばかり漏らしていた祖母に嫌気もさした。そんな自分が・・・無力で恥ずかしくて情けなかった。こんなあたしに、祖母の死後、何度も夢の中に出てきてくれた。何も出来なかったのに、ありがとう。とばかり言ってくれた。
ただ、あたしに出来るのは、大好きだった天国の祖母に心配かけないような生き方をすること。ただそれが、亡くなった人に対しての唯一の供養なのだと思う。

母の10歳違いの姉、おばちゃんは、いろいろ問題を起こしてくれた人。
それはここに書くべきことではないが、今では許せるような気がする。
問題を起こしては、いなくなり、ほとぼりが冷めてからまたひょっこり、現れる・・・そんな叔母が私は許せなかった。
でも・・・今ふと、思う。
身内を憎しみ合い、恨みあっていても、何も変わらないと・・・。
母と祖母を泣かしてきた叔母を簡単に許せるわけはないけれど・・・
それでも、すべてが不幸だったのではなく、やさしさも持ち合わせていて、ただ不器用だから、他人を不幸にし、そして自分自身をも不幸にしてきたのだと・・・。
でも、大好きだから、どんなに傷つけられ、どんなに裏切られても。
私はやっぱり、叔母を嫌いになんて、なれなかった。


そんな大切な、私の家族。
みんなが、げんきでえがおで、しあわせですごせますように。
【2007/06/23 16:19 】 | 想うこと | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
文字を書くこと。
最近、日記を書くことに何の意味があるのか、問う自分がいる事に気づく。

本家サイトを開設して、2年。
決して人様に勇気も自信も希望も夢も与える事が出来たサイトではありませんが、ここを訪れて、ずっとこんなつたない管理人の日常をつづった日記を読み続けて下さった皆さん。
多くの方からメールも貰いました。中傷もありましたが、それは極僅かで、大半の方々が応援して下さいました。

沈んでるとき、
「あなたの文が大好きです。」
「私はあなたに勇気をもらいました。」
「これからも書き続けて下さいね。」
「このサイトが大好きです。」
そう言ってくださった方々。
私は決して、人様に自慢できるような生き方をしてきた訳ではありません。
生まれたときから、ただ必至で毎日を生きる事だけで精いっぱいでした。
その生きた過程を言葉という活字に託し、文字と出会い、文字を書くことと出会いました。

ここを開設したのも、いつかの日に、そう遠くはないであろう未来に、書き続けてきた日記が自分の手では書けなくなった時、書き続ける事が出来るようにと、ここを開設した次第です。

決して多くの方に知ってもらいたいとか、見てもらうために立ち上げたわけではありません。
誰も見なくていい。ただ、私が私であり続けるために、私が私で生きていけるために、文字は必要で、書く手段がある限り、書きなさい。と言ってくれた人がいたから、私は非難を浴びても、ここまでここを続けられてきたんです。

しかし、最近になり、私の文で嫌な想いをさせてしまったり傷つく人がいるならば、ここを続ける意味も価値もないと思います。
以前は、私が書き続ける事が出来るまで、ここは続けたい。とずっと、思ってきた。
それは、いつかの日に、私の死後、この文字たちが、私の人生を語り継いでくれるだろうと思っていたから。

でも、もしも。
私の書いてきた文字で、傷つく人がいるならば、ここは閉鎖するべきだとずっと思ってきました。
ネット上。いくらでも偽りも書けます。
真実を曲げる事も出来ます。
でも私は、自分の人生に、これまでの生きてきた過去に、偽りを書いてきたつもりはありません。
ここだけには、正直に素直な自分でいたかったから。つらければ現実逃避する事だって出来る。
嫌ならば書かなければいい。
でもそれは、私には出来なかった。誰が見ているか分からないネット上で、言葉として発信する時。
いつも不安があります。真実を書くことで、嫌な想いする人もいるかもしれない。いたかもしれない。
ここには、私のありのままの事が書かれています。
恥ずかしい事でも、思い出したくない事でも、情けない事も、怖い事も。
でも、それは私のある一部のものでしかありません。日記は私のすべてではないです。
私の日常をすべて反映している道具ではないです。

病状の起状も激しく、いつ書けなくなるか分からない。その恐怖といつも一緒・・・なんです。
いつも今日の日記が、最後になるかもしれない。そんな思いで、書いてるんです。
私の日々を綴るという事は、暗い・重い内容になっていたのも事実です。
私の日常は、そういうものだから。
読み手がいるのに、希望も何も与えられない、ただ来て頂いては心配させて、暗い想いにさせてしまうだけ。

だったら、日記を書いてる意味なんてない。
ここを閉鎖しようかとも考えていました。今のままではそうなっても、仕方のない事かと。
こんな私に文字を書く資格なんてないと思う。
それを世間に公開し、伝えていく力もないと思う。
ただ、私は私の視点で、我の狭い世界で、生きてるだけの人間。公開する意味なんてない。
それでも、一人でも、書き続けて下さい。と言ってくれた人がいるから、文字として発信する向うに、読み手がいるって素晴らしい事だなと思うようになりました。

私のこんな拙いつまらない文が、どれだけ皆様の心にどのように、届いているのか分かりませんが、少なくとも、見て下さってる方々が、応援していただいてる方々がいる限り、あたしはここで文字を書き続けてもいいのでしょうか。

そろそろ、潮時かな。とも思い始めています。ただ、自分の中では、まだ書き続けられなくなるまで、ここを続けたい。
ここで出会った皆様との出会いを大切にしたい。とも思っています。ただ、書き続けるなら、何もネットで公開しなくたって、メモ帳に書き残せばいいわけですし。

ちょっと、文字を書く事から離れてみようかな・・・でも、きっとあたしには、無理だろうな・・・。。
活字中毒なあたしには・・・。何か自分はダメ人間だなぁ、と思えて。ほんとにダメな部分、いっぱい持ってて。
何してもうまく行かない時は、あるものだけど、どうしようもない時もあるんだなぁって。

今は、そんな時期なのかなぁ・・・。。生きてると、あの時自分の選んだ行動は、正しい事だったのか正しくない事だったのか、答えが分からない事に、何度も出会う。

ずっと、夜が怖かった。小さい頃から。何だか漠然とした不安を抱えて。
日が昇り始める明け方にようやく眠りに落ちる感じだった。
それは決して、夜更かししてる訳でも、怠けている訳でもない。怖いからなんだなぁって。。
何に怖がってるのか。それは迫り来る死に対してだったかも知れない。ことに、気づいたのは、ごくごく最近でした。

今でも、眠れぬ日々が続きます。
それでも、朝は来て。そして一日が始まる。
そうやって、月日は経ち、やがて何かを得るのでしょう。
私はそこまでの領域にはまだまだ達していないようだけど。

なんだかんだ言っても、今日も夜を迎え、そして明日がまた来るのでしょうか。
今夜は痛みがなく、眠れますように・・・。

そして。
この先も生きていくことが、できますように・・・。
【2007/06/23 15:46 】 | 想うこと | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
書く楽しみ。
書く楽しみ(4月)

いつも本家HP・ブログを訪ねて頂き、こんな管理人のつまらない日常を読んでくださり、本当にありがとうございます。

今年の6月で、ここを立ち上げ早くも2年の歳月が流れました。
メールを下さる機会も、多くなりました。とてもうれしいです。
全ての方にお返事が出せていない状況ですが、読んでいます。一人一人のやさしさを感じています。

この日記って、どんな方が読まれているのかな?(知り合いを除き)とこちらから見えないだけに、ふと、知りたくなる時があります。メールやカキコを頂くと、とてもうれしくなります。
メールくださった方、レスしてくださった方、書き込んでくださった方、全員覚えています。
誰かに宛、書いたものでも、ただ私自身の半生を書きしるしたい一心で、日常を自分の狭い我の視点でしか物事をみれず、その心で、感じたことをそっくりそのまま書きあらわしている次第です。

自分の中では、「読んでくださっている方がいるんだなぁ~」ってなんだか申し訳ない気分です。
ここには私の日常を隠さずありのままを赤裸々に書いているので、ナイーブな方は傷つかれるかもしれません。
ショッキングな状況も含まれています。でも、これが私の毎日であり、これが私の病状ですので、何も隠す事はないと考えています。ここを読んでくださっている方の多くは、ある種の覚悟をして読んでくださっている方が多いのではないでしょうか。
心配させてしまっているお友達もたくさんいます。応援してくださっている方たちもたくさんいます。

私はここで、この場所で、文字を発信することしか出来ませんが、いつも皆さんの温かい心に、触れています。
それでも毎日、読んで下さる方がいて、本当にありがとうございます。
ネット日記は、読んでもらうことで、書く側も何かの自分へのプラスがあると思います。ノートとか自分だけに書き読むものなら、自分にやさしく書ける、いわば、自分中心にいくらでも自分保護で、突っ走れるかな、と。

はじめの頃は、日記を公開することに大きなためらいと迷いがありました。私はここで、自身の抱えているものの大きさをひけらかし、同情を集めたかったわけでも、骨髄バンクや献血のドナーになってくださいと、お願いしたいわけでもなく、ただ長年書き続けていた日記が、自分の手では書けなくなったとき、私はきっと自分を再び見失いそうな気がして、そうなったときに、生きる意味を見失わないためにも、このデジタルという世界に、私自身の思いを託したまでです。
しかし、ひいては、こうして公開することで、客観的に自分を見つめる目というのも、養われてきました。
文字を書き続ける事で、成長してきた自分がいます。でも、最終的には、それも自己満足なんですけどね・・・。

自分の書いた文字がみられる恥ずかしさは、今もあります。文字って、気持ちの裸でもありますから。
人はそれぞれ考えが違う。出すほど、叩かれるというのもあるわけです。
だから、書くのが怖いというのも、ある。自分を守りたい、安全圏で守られたいという弱さもあります。
沈黙も大切・・・。そんなバランスをうまくとりながら、ここを今日までどうにかこうにか続けられてきたわけですが。
私は、そのバランスも悪い。。自分で自分のバランスが取れず、ドキドキハラハラしっぱなしの情けない管理人なのかもしれません。
そんな私に、支え、見守り、いつも元気を届けてくれる仲間や皆様に、本当に感謝しています。
この場を借り、改めてお礼申し上げます。

小学生の恩師にこんなことを言われたことがありました。
「書く手段がある限り、書き続けなさい。あなたにはその使命があります。書く事から逃げては行けません。それは自分から逃げるということです。堂々と書きなさい。あなた自身の言葉で綴りなさい。あなたには人を引き付ける力があります。」
私はその先生によって、文字と出会い、今日まで文字を書き続ける事が出来た。
読まれるのに、慣れたい・・・。恥ずかしがらず、これが私の日常だと、文字で綴りたい。全く文章力もなく、何の魅力もない私です。表現力もない。読まれる方には、退屈なくだらない未熟な話にお付き合いさせてしまってるかも知れません。
それでも私は、書く楽しみ、幸せを、知りました。
これからも、文字というものについて、生きている限り、学びたいと思います。

思えばあたしは、こうして日記ひたすら更新するだけで。
こちらからの交流って、してなかったんだと気づかされた・・・。
いや、あたしはそんな、自己中心的な人だとは知ってたけど・・・。自分がこうして私生活を公開する。って行為に、最近、迷いや複雑なものを感じるんだ。
ふと聞いた話だけど、たとえば名前を勝手に使って、どこかにカキコされたり、アドレスを勝手に公開されたり。
文字だけでは、だれがだれなのか分からない。信じる・・・しかないものね。そういう、怖さ。知ってたつもりなんだけどなぁ・・・。私生活をあからさまにするって事は、他人の関心を引いてしまうこと。それは面白がってとか、興味本位とかにも繋がるんだし。決めつけたくはないけれど・・・。

あたしにとっては、ネット=外との接点だし。ネットで出会えた友達は、大切な宝だ。
でもそれぞれ、ネットへの価値観って違うものなんだな・・・と思うと、寂しくなる。でも、ネットでつながって、かけがえのないものとも、出会えたんだ。
それは、ずっと大事にしたいな。


それが、今の、文字に対するわたしの本音。

【2007/06/23 15:36 】 | 想うこと | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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