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粉雪

レミオロメンの粉雪が、ふと、懐かしくなり聴いてみたくなりました。
母に、ツタヤへ行ってもらって借りてきてもらった★


この歌を聞く度に、主題歌だったあるドラマを思い出します。
沢尻エリカちゃん主演の、『1リットルの涙』。


『病気は、どうして私を選んだの?』


このセリフを聞いた後、一瞬、あの頃の自分にタイムスリップした。


なぜ、自分が病気に選ばれたのか?
なぜ、私なのか?


元気に学校に通う、同い年の子達を眺めながら、あの子達の生きる場所が、別世界に見えた。


『人は過去に生きるものにあらず、今出来る事をやればいいのです。』


『足を止めて今生きよう。いつか失ったとしても、叶わなかった夢は、誰かに託したって、いいじゃないか。』


たった、16~20歳の女の子が、難病と向き合い、想いを文章に綴り、時には自分の悲運さに折り合いをつけながら、そして、皮肉にも、病気とであったからこそ、人間として、彼女は成長していく。


私も生まれた時からすでに、病気と向き合ってきたわけだけども、もし今度生まれてくることが出来たならば、元気に生まれたい!と思うけれど、病気とであったからこそ、今の自分がいるのであると思う。


時には、健康さにうらやましく感じたり、それは年老いて若い子をうらやむのと似たようなものかも知れないけど、だけど、絶対に私の人生じゃないと、学べなかったものって、あるもんね。


生じゃないと、学べなかったものって、やっぱり、存在する。
私って、人が思うより、結構たくましいですよぉ。
ちょっとやそっとじゃ、あきらめないし、くたばらないもん。それだけは、…自信がある。
そういうのって、やっぱり、今の人生だったからこその、おかげなんだよね。



死とはどういうものだろう?
私が死を意識しだしたのは、何歳だったか。
はっきりと死を意識したのは、5歳だったかな。


死について、語るのはまだ、早いとも思う。
たった、2歳で悪性腫瘍で、お星様になった女の子がいた。
まだ、25歳で、新婚の奥さんとまだ、1歳にも満たない、我が子を残し、病気で天国に旅立った男性もいた。


まだまだ、死は遠くて、死ぬ怖さを語る相手もなくて。


『死なないで』と、来る人、会う人から励まされるばかりで。どんなに、孤独で死んだだろうか。


俺にその命をくれと。
もっともっと、命を大切に、過ごしてくれと。
生きる者は、いずれ、死ぬのだと。


当たり前のように、ただ、日々を無駄に過ごす私たちには、伝わるだろうか。


死ぬなと、1秒で言葉に出来るけれど、生きる事が辛く、悲しく、生きる事に絶望した者が、
『生んでくれと、頼んだ覚えはねぇ!』
と言ってしまった、胸の痛みが、分かるだろうか。


生かされるという言葉を、理解するのは、容易くなく。
生きるという事は、もっともっと、難しい。
だから、もっともっと、生きる事に貪欲に、激しく燃えるように、人に迷惑を掛けたり掛けられたりして、たった、一つずつの、命は生かされなければ、ならないのだ。と、思う。


生きる事の難しさ。生きる事のしんどさ。生きる事を、今生かされていることを理解するのは、安易ではない。
でも、大切な人には、生きていてほしいと思う。
大切な人のために、生きていたいと思う。
たとえ、その行為が、痛みを伴う行為であったとしても。


人は皆、必ず死にいくもの。だからこそ、何も自ら死を急ぐことはない。
時間はどんな時でも、平等に流れ去るものだから。
苦しかったあの頃も、しんどかった今日も、いつか、
『あの頃』と過去化してしまう。


今日を、積み重ねるということが、生きているということ。
そして、明日を生きるということに繋がるのだ。


私は、生きる事に貪欲ではない。
死が来るのなら、それを受け入れようと思ってる。
生きる事に、失望もした。
この世の絶望も、知った。
だけど、この世で出会った大切な人たちに、大切なものを、大事な事を、気づかせてくれた。


でも、人はすぐ忘れて、そして気づいて。
その繰り返し。
どうして、人は忘れるのだろう?
どうして、人は気づくのだろう?


やっぱり、生きていたいと思う。
今を生きたい、と思う。


そして、忘れたものを、あの日手放してしまった希望を、もう一度。
この手で掴みたいと思う。
掴んでみたい。


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【2006/11/30 19:11 】 | 想うこと | コメント(4) | トラックバック(0) | page top↑
彼との付き合い
そんないきさつから、彼と付き合い始めた訳ですが、私たちが付き合うには、幾つかのハードルがありました。
それは、越えても超えても、越えられないような、高い高い壁。
まるで、私とNが、これからの未来は、存在しないかのような、冷たい壁でもありました。


全てを受け止めてくれたN。
彼なら、全てを任せられる。と思いました。
今まで見せなかった弱さも、未熟さも、後ろ向いた気持ちも。
彼の前なら、自然と素直になれた。


しかし、仕事に私情は挟みませんでした。
あくまでも、仕事は仕事。
そう割り切らなければ、この世の中生きてはいけません。
職場には、私とNが仲がいいという、噂は立っていましたが、まさか付き合っているとは、思いもよらない事でした。
私もNも、仕事は仕事と割り切り、目で時々合図はするものの、仕事以外の事では、口をききませんでした。
彼には専門職としての、プライドがあります。
そして、私にも。
ボランティアとしての、プライドがありました。
プライドという名の意地が、そうさせただけの事かも知れません。


デートをする場は、たいてい決まっていました。
彼のアパートか、バイクで人込みを避け、夜景を見に連れてってくれたりしました。
人一倍、抵抗力がない私。
そんな私に、彼は、気遣い、そこまで・・・と思うような、温かい配慮と、優しさで、私を包んでくれました。
何も、必要なかった。
ただ、この幸せで居心地がいい、この時間が、長く続けばいいと、思った。


でも、それは、私の儚い夢であり、幻想であり、幻でもあったのです。
永遠なんて…続くはずがなかった。


病魔はふたりを引き裂く、人生において最大の苦痛を、私に与えようとしていたのです。


特別、喧嘩らしい喧嘩をした事もなく、私は幸せでした。彼の腕の中で、安心しきって眠った夜。
これ以上の、幸せは、ないと思った。
彼が傍にいる事。
それだけで、充分の幸せを感じる事が出来ました。

元彼を亡くし、初めて人を心から愛せた人でした。
心から、愛しいと思えた。
愛することを、再び教えてくれた大切な人です。


彼のぬくもりを、肌で感じ、今までにない力強く抱きしめてくれた、彼のぬくもりは、今でも覚えています。


病気の関係上から、外で会う事はあまりありませんでしたが、彼のアパートやドライブで、私の心は、十分満たされていました。
私が、海を見たい。といったとき。
彼は、十分な対策を練って、ご実家から車を借りてきてまで、私の願いを叶えようとしてくれました。
感染症にかかっては、大変だからと、自分の上着を着せてくれ、バイクで出かける時には、ヘルメットも、自分のよりはるか頑丈なものを、被せてくれました。


よく彼は、言いました。
『俺と会ってる時にお前になんかあったら、俺、お前の親御さんに申し訳つかん。』


彼の優しさを肌で感じ、そして、心で、感じたこと。
なんて、幸せだったのだろう。


地元をふたりで歩くとき、いつ利用者さんが見ているか分からないからと、手をつなぐことを、嫌がっていた彼でしたが、人波を避けると、手を繋いでくれる、優しい彼。
勤務時間もだいたい同じだったので、私は毎日、彼と待ち合わせをして、一緒に職場へ向かうことが多かった。ふたりで歩いた並木道。
昼休みもいつも、一緒だったね。


背丈もだいぶ違う、歳も10コ離れてる。
ふたりで並んで歩くと、明らかに彼が犯罪者に見えたことでしょう。
でも、そんなこと、どうでも良かった。

私が戦友を亡くし、悲しみにくれているとき、彼は、何も言わずにそっと、でも、力強く抱きしめてくれた。
何も聞かずに。
その、優しさがまた嬉しくて。
私は、温かい涙と冷たい涙を、知ったのです。
そんな、優しい彼に私は何か言おうと、嗚咽を挙げながら、口を開きかけようとすると、
『何も言うな!辛ければ泣いていい。』
と、言ってくれたN。


人の温かさを知りました。人のぬくもりを感じました。
愛される痛みを知りました。信じる強さを知りました。


お互い出勤時間も、帰宅時間も一緒だったので、仕事が終われば帰りに、夕食を食べて、家まで送ってくれる。という生活が長く続きました。
お互いの休みが取れれば、県外へもあそびに連れてってくれた。

彼はよく、待ち合わせ時間に遅刻してきました。
だから、私はいつも、彼から預かった合鍵で、彼のアパートへ行き、彼を起こすことも多かった。
子どもみたいな、彼のあどけない寝顔は、みているだけで、つい微笑んでしまうそんな、優しい笑顔でした。
モーニングコールも、いつもしていたっけ。


私は、親に隠し事はしない主義なので、彼と会ったときやその日の出来事を、母にありのまま伝えていました。母は、あえて聞きませんでしたが、私が勝手に喋っているという感じでした。
私とNが付き合っていることは、家族の誰もが知っていることで、特に母には、なんでも話しました。
けれども、父には怖くてそれ以上の事は言えません。


一度、デートで出かけているとき、父が付いてきていたことがありました。
前方から父がひょっこり現れた時は、さすがに焦って彼の手を引いて、隠れたこともあります。
何も疾しいことなどしていないし、隠れる必要もなかったと、後で彼と大笑いしたこともありました。


母にはありのままの出来事をいえましたが、やはり男親。彼の話を持ち出すと、たちまち不機嫌になって、手のつけようがないほど、やきもちを焼いて大変でした。
だから、彼と会う時は、ほとんど平日です。
日曜日にデートを入れようものなら、その日一日が、父のご機嫌をとるので、精いっぱいの日となることもありました。


よく、母が助け船を出してくれました。
父がトイレに入っている間、母が、『今のうちや!はよ行き!!』と身ぶり手ぶりで、表現して、家を出させてもらったことも何度もありました。
その後の母が、父のご機嫌をとるので精いっぱいだったことは、言うまでもありません。


仲が良かった私とNですが、一度だけ、本気で別れようと思ったことがあります。
それは、小さな小さな、すれ違いから生まれた葛藤でした。

彼は、私の体を気遣うあまり、そこには、思いやりという名の制限を加える事にもなったのです。

私がそこまで、しなくていい。と言っても、彼は、慎重にならざるを得なかったのかも知れません。
そこまで、私を愛してくれていたのです。
愛の重みを知りました。


このままでは、お互いがダメになってしまう。
私のせいで、彼の人生を縛りつけてしまうことは、許されない。
彼には、彼の人生がある。
そして、彼には未来がある。未来を、見据えて生きる事が出来る。
彼には、健康な女性と付き合って、結婚して、子どもを授かって、幸せになってほしい。
私と一緒にいては、彼の未来まで、暗闇の中に葬ってしまうことになる。
それだけは、絶対にダメ。
お互いが、嫌いになり、別れてしまう前に、好きなまま、素敵な思い出のまま、綺麗に幕を閉じたかったのです。


私から別れを切り出しました。
『このままだと、お互い嫌いになってしまうよ。もう、会わないって決めよう。』

私の一大決心にも関らず、彼は呑気にこう言いました。
「俺は別れんわ。お前を守るって決めたんや。そんな中途半端で、バイバイできるか。俺とお前との絆は、そんなものやったんか?簡単にバイバイできる程の、脆いもんやったんか?お前のせいで俺の人生縛られてるとは思ってないし、お前が例え俺を嫌いになったとしても、俺は絶対にお前を嫌いにはなられへん。だって、家族やろ?家族を嫌いになる人は少ないやろ?」


そのときの私たちは、恋愛感情というものとはどこか、違った愛を、築いていました。
それは、家族愛に近いものだったのかも知れません。

私は、彼の言葉を聞き、どれだけ自分が彼のことを、軽率に考えていたか、思い知らされました。

私たちの絆は、そんな簡単に揺るぎるものではない。
子どもの恋愛ごっこでは、ありません。
本気で愛した、本気で好きになった。


でも、いつしか、それは、家族愛という形の愛へと変化していっていました。
お互いがお互いの中に、住み始めていたのです。


N「俺の中で、お前は大切な存在や。でもな、俺はお前と並んで歩いてかれへん。俺はお前の前にいって、行くべき道を照らし出してやるか、一歩さがってお前の精神面の支えしかできへん。もし、お前に好きな奴が出来ても、俺は、お前から離れていけへん。好きになった奴に、兄貴分みたいなそんな存在がおることを、伝えておいてほしい。もし、俺に彼女が出来たとしても、彼女にもお前の事はすべて話すつもりやし、分かってくれるまで話し続けるから。」


そう、言ってくれた彼。
私は、そこまで愛される程の価値がある人間だろうか?
私は彼を精いっぱい、愛しました。好きになりました。
守りたい。と思った。愛しい。と思った。


でも、決して、ふたりは、一緒の道を歩む事は出来ないと、私は知っていた。
それは、憧れで終わってしまう愛。
でも、それでも、いい。
ただ、愛し愛される存在が出来たことは、私の人生にすばらしい価値を、見いだしてくれたものでした。


病気が悪化して、もう在宅サービスステーションMにはいけないと、言ったとき、彼は黙って力強く抱きしめてくれた。
私たちは口下手で、うまく感情を言葉に出来なかったけども、抱きしめ合うことで、なんでも伝わった。
それ以上の、言葉はないと思った。
言葉はいらない。ただ、ずっとずっと、抱きしめ合うふたりが、そこにいた。


私がディサービスを辞めて、その4カ月後。
彼は、隣接された特養に異動になりました。


特養に異動してから、夜勤もあり、休みも不定期になってしまい、なかなか会う時間はこれまでのように、取ることは出来ませんでしたが、彼は精いっぱいの愛を私に注いでくれていました。


彼からくるメールは、いつも心がこもっている言葉でした。私は、自分からメールをすることはあまりありません。メールは便利なツールだけに、相手の都合を考えない不便なものでもあります。
夜勤で疲れている彼を、起こしてしまうのでは?と考えると、安易にメールは出来ませんでした。
だから、彼からのメールを待つ事が多かった。
どんなに疲れていても、仕事が休みの時は必ずメールをくれたN。

彼が特養に移ってから、利用者さんの情報は、これまでのように滅多に入ってはきませんでしたが、彼が時々教えてくれる、利用者さんの話に、花が咲いたのでした。


利用者さんと組み、私をからかい、困らせていた彼。
その困った姿をみて、あどけない表情で笑う彼。
無邪気に利用者さんと笑い合う彼が、好きでした。

「お年寄りが好きなんだ」
と言ってくれた彼は、今年職業柄腰を痛め、長くこの職業に就けないとドクターに言われて、転職しまし
た。今は、PC関係の仕事をしています。


彼が、介護の現場を離れると決心するのには、どれだけの苦悩がつきまとったでしょう。
彼の心情を思うと、切なくなります。
そして、私自身がボランティアを辞めなければならない。とされた、あの頃の事を思い出しました。
私も、必死で悩んだ。そして考え抜いた末の厳しい選択でした。
彼も、迷っていました。
私は、静かに見守るしかなかった。
辛い時、言葉は無力です。私が辛い時、何も言わず静かに見守ってくれた、彼の優しさのように、私も静かに、彼を見守り支えようと、思った。


私が意識をなくし、危篤状態だった時、連絡を受けた彼は、夜勤中なのに、深夜の街を、バイクですっ飛ばして、駆け付けてくれた。
面会謝絶だったにも関らず、ドクターに無理を聴いてもらい、面会出来た時、意識を失いながらも、しっかりと彼の存在を傍に確認することが出来た。


『戻ってこい!帰ってくるって約束したやないか!一緒に帰ろ。』


と言ってくれたこと、聞こえていたよ。
でも、返事できずごめんね。声出せなかったよ。
だから、あたしは、涙を流したんだ。
あなたの声、聞こえているよ。という返事だったんだ。


ドクターが彼に言った言葉。

「覚悟はしておいて下さい。」


その言葉に対し、あなたは、

『覚悟は、彼女と出会ったときから出来ています。』


と言ってくれた、あなた。


私と出会った時から、あなたはいつかこうなる日を想定して、覚悟してきたんだよね。
覚悟がなければ、私と向き合えなかった。付き合って行くことなんて、出来なかった。
その切なさ、辛さ。
どんなに、大きなものをあなたに、背負わせていたのか、はじめて知ったんだ。


いつか、私はいなくなる。
あなたよりも、早く。


あなたは、いつも、優しかった。
そして、大人の愛を、私に注いでくれました。

いつか、言ってたね。
『お前の葬式の夢をみた。でも、お前は笑ってるんだよ。それで、俺に言うんだ。“しっかりして。あなたはあなたの道を、精いっぱい生きて。”って。夢ん中でも、お前は、自分の人生に責任を持つんだな。』



私たちは、恋人ではありません。友達でもありません。血が繋がった家族でも…ありません。
でも、家族以上の関係にたった、絆があります。
私たちは、一緒に同じ道を歩む事はありません。
彼に好きな人が出来たら、私は一歩退いて、見守ろうと思います。
そして、彼も、もし、私に好きな人が出来ても、関係を一切切ることはないでしょう。
切れるわけがない。
お互いの中に、住み始めてしまったのだから。


恋人でも、友達でも、家族でもない。
そんな、奇妙な関係のふたり。
でも、私たちは、確かに愛し合いました。
誓いました。
守りたいと。愛したいと。


例えその愛が、『永遠』では、ないにしても。


私たちは、それぞれの道を歩みだしました。
お互い、胸を張って歩いていけるような、人生を歩もうとしています。
誰にも恥じる事のない、たった一度きりの人生を。
この人生において、彼と出会えた事は、結果的に良かったというべきなのかも知れません。
でも、何度も、出会わなければ良かった。と思いました。そうすれば…悲しく辛い思いもせずに済んだ。


たった、一つ願いが叶うならば、
あの頃に戻して欲しい。とは思わない。
ただ、出会う前のふたりに戻して欲しい。と。
存在すら知らなかった、あの頃に。


好きになってごめんね。
愛してしまってごめんね。
傷つけてごめんね。
守らせてごめんね。


あなたに会えて、私は愛することの尊さを知りました。
あなたに会えて、私は愛する意味を知りました。
あなたに会えて、私は愛する強さを知りました。


いっそう、知らなかったら良かった。
お互いの存在を。
でも、あなたに出会えて、本当の愛を知ったんだ。
だから、もう、あの頃に戻りたいとは、言わないよ。

私たちは、それぞれの道を歩みだしたから。
私は私の道を、あなたはあなたの道を。
生きるんだ。


面会が許されない今。
大好きなあなたさえ、私は会えない。
そして、今の私には、例え面会の許可が降りたとしても、あなたに、会う資格はないと思ってる。


ごめんね、たくさん我がまま言って。
ごめんね、たくさん愛してしまって。
ごめんね、たくさん好きになってしまって。

ありがとね、愛してくれて。

あなたと出逢えた事、私の誇りです。
あなたと出逢えた奇跡。
あなたをこの世に生み出してくれた、あなたのご両親に感謝します。


あなたとの想い出を胸に、私は今日も、生き続けます。



【2006/11/27 15:51 】 | 未分類 | コメント(6) | トラックバック(0) | page top↑
彼のこと
在宅サービスステーションMのディサービスで活動していた3年前の夏。
ボランティアをして、1年以上たったある夏の事でした。


朝の職員会議で、新しい男性職員が入ってきました。
いつものように、一通りの報告をし、活動場所の2階に行き、送迎車で来た利用者さんに温かいお茶を出しているとき。
新しく入った男性職員が声をかけてきました。


「はじめまして。U・Nです。よろしくお願いします。」


ポットから熱いお湯を、コップに移す手を止め、振り向きざま、


『あっ、はじめまして。ボランティアのRessarです。こちらこそよろしくお願いします。』


そう挨拶を交わしました。
これが、Nとの出会いでした。


その日の午後。
責任者の方に呼ばれ、スタッフルームに行くと、責任者の方とNがいました。


責任者「Uさんが現場に慣れるまで、Ressarさんが、利用者さんの事や現場の事を教えてくれませんか?」


突然の事で、何と返事をしたらよいのか、戸惑いました。まさか、そんな話だとは思っていなかったのです。私はただの、ボランティアです。ボランティアが、職員に指導する事にも、抵抗がありました。
それは、ボランティアがすべき事ではない。
私の直感がそう、告げていましたが、熱心に頼み込む責任者の方の姿をみて、一度だけ、やってみようと決心しました。
その決断が、その後の私の人生で、大きな存在になるとも知らずに。


それから、2週間の期限付きの私の指導期間が始まりました。
Nとはいつも一緒でした。受け持つ利用者さんは、Nと2人で受け持っていましたし、お昼休みも、一緒にお弁当を食べたりしました。
私は、早くNに現場の雰囲気を掴んで欲しい思いと、利用者さん一人一人の事を、把握してほしい思いで、口下手な私が、珍しくべらべらと喋っていました。
夢中だったのです。
この現場に入った以上、彼らと中途半端な関りを持ってほしくはなかった。
現場は、いのちを扱う仕事です。
彼らの事を、中途半端な想いのまま接して欲しくはなかった。


ただ、その思いだけが、私を前へと突き動かしていたのかも知れません。
私にとって、彼はあくまでも、仕事上のパートナーでした。あの時までは…。


2週間の指導期間は順調でした。
彼もだいぶ、慣れてきたようで、利用者さんとふざけ合う姿も見られました。
仲よくなりだすと、男性利用者さんと組み、私をネタにからかったり、ちょっかいを出したりして、私を困らせたものでした。
でも、そんな無邪気で、子どものように笑う彼が、私は好きでした。
恋愛感情ではなく、心の底から愛しいと思えた人でした。


2週間の指導期間が終わり、その3カ月後の11月。
木枯らしが吹き始め、風も冷たくなってきた季節。
ある日。
私の携帯に一通のメールが届きました。
お昼休みにメールをみると、その日は非番で休みだった、Nからでした。

“話したい事がある。公園で待ってる。”

というもので、私は活動が終わった6時に、Nが言っていた施設の近くにある公園に行きました。


そこには、ずっと待っていたと思える寒さに身を縮こませて、立っているNの姿があった。
私は、近くにあった自販機で、温かいコーヒーを買い、彼の元に駈け寄りました。


Ressar『ごめんね。待った?』
N「いや、そうでもないよ。こっちこそ、ごめんな。しんどいのに。」


最初は、他愛もない会話をしていて、過ごしていましたが、ふと、Nが真面目な顔になり、こう切り出しました。


N「なぁ、俺お前の事が好きやねん。お前は?」


突然聞かれ、私は答える事が出来なかった。
それまで、特別Nの事を、異性として捉えた事はありませんでした。
むしろ、好きという感情がどういうものだったのか、遠の昔に、あの出来事で、忘れてしまっていたのです。
忘れてしまった感情を、もう一度思い出す事は、安易な事ではありません。


私が、答えに詰まっていると、さらにNは、独り言のように、続けました。


N「俺には今彼女がおる。でも、お前と出会ってからお前の事が気になって、しゃぁないねん。病気の事とか、色々大変なんはスタッフから聞いた。それ聞いて、思ったんちゃうで。病気も含めたお前を、支えたいと思ったんや。ずっと一緒に仕事してきて、その思いはさらに強くなった。俺やったら…あかんか?」


真剣なまなざしで、私を見つめていたN。
私は、Nの気持ちに答える事が出来たのだろうか?
すぐに、出せる返事ではなかった。
私には、忘れられない過去がいくつもある。
そして、男性恐怖症でもあった。
どれくらい沈黙が、流れていただろう?
30分か1時間か。ほんの数分だったかも知れない。でも、何時間のようにも、思えた。
長い長い沈黙の末、私が口を開いた。


Ressar『私、元彼を亡くしてるの。だから、好きという感情がどういうものか、あれ以来忘れてしまった。元彼の事、忘れようと思っても、忘れる事出来ない。たぶん、私が生きてる限り…忘れる事はないと思う。病気の事も、そうだし、私には色々しんどい過去があった。もう、誰も傷つけたくないの。傷つきたくないの。』


そこまで、切羽詰まって言い切ると、彼は静かに話しました。


N「辛かったんやな。ごめんな。辛いのに思い出させてしまって。でも、元彼の事は忘れる必要あれへん。簡単に忘れられるもんじゃない。それに、そういう痛みは忘れたらあかんと思う。覚えていて挙げる事が、その人に出来る、お前の精いっぱいの愛情や。過去の事は無理に聞けへん。お前が話せるようになったら、話したらえぇし、俺はそこまで干渉できる立場じゃないしな。俺は、お前を守りたいんや。歳はえらいちゃうけど、俺は、お前を守るから。支えになりたい。」


彼の言葉に、思わず涙を流してしまった。
こぼれ落ちる涙。
一筋の涙が、頬を伝る。
それは、温かい涙だった。


すぐには答えを出せず、時間をもらった。

翌日私とNは何事もなかったかのように、職場に向かいました。
そして、施設で顔を合わせても、目で合図するだけで、いつもと同じ。
彼は私をネタに、今日また利用者さんとふざけ合います。


決して私情を仕事に持ち越さない。
それが、社会でのルールです。


あの告白から3日後。
今度は私が、あの公園に、彼を呼び出しました。
ずるずると引きずりたくはない。
早めに活動が終わった私が、今度はNが来るのを待ちました。
10分遅れで来た彼は、バイクで、すっ飛んで来たようでした。


私はちゃんと、これまでの事を話した上で、彼の反応をうかがう事にしました。
過去を話す事は、とても勇気がいったけれど、あの日、彼が言ってくれた言葉が、真実だとしたら、私は彼なら、信じる事が出来ると、思ったのです。


Ressar『考えたんだけどね…。私の病気、そんな簡単なものじゃないの。いつ意識を失ってもおかしくない。いつ心臓が止まっても不思議じゃない。そんな体だとは思わなかったでしょ?たいてい引くんだよね。病気の事、話すと。あたしの病気は日本でも初めてだって言われてるし、世界でもとっても珍しいらしい。いつ何が起きてもおかしくないの。いずれ動けなくなると言われてる。長くは生きられないとも言われてる。それでも…いいの?あなたの人生を縛りつけてしまうかも知れないよ。あなたの人生を後悔させてしまうかも知れないよ。』


Nは黙って、私の話が終わるのを、静かに聞いてくれました。


N「俺は、病気のお前が好きになったんちゃう!お前自身を好きになったんや。たまたま好きになったお前に病気があっただけの事。それ以上もそれ以下もあれへん。病気の辛さは理解できんかも知れんけど、お前が弱ったとき、俺はそばでお前を支えたい。支えるなんて、そんな偉そうな事言えんかも知れんけど、精神面で支えになりたいんや。愛したんは、病気のお前じゃない。お前の生き方が好きやねん。」


そこまで言ってくれる彼を、どうしても受け入れられなかった私。
実は、彼を受け入れる事を拒んでいる理由に、もう一つ、訳がありました。


それを、ここへ書くのはあまりにも、辛い過去です。
決して人に知られたくない、そしてこれまでにも、ごくごく親しい人にしか、この事は話していません。
でも、書きます。
真実を偽る事なく、ここに、ありのままを、綴る事を約束します。


私が小学4年生の頃。
寒い寒い風が吹きつける、身をも引き裂かれるような寒さが厳しかった2月の事でした。


数少ない級友と近くの銭湯に行った帰り道。
私は祖母の団地の前の階段で、級友と別れました。
階段をあがっていると、後ろから突然声をかけられ、振り返ると、見知らぬ男性がいました。
彼は私にこう言いました。


「今の子と友達?」


私が頷くと、


「ちょっと、あの子のお兄さんの事で、話したい事あるから、一緒に来てくれへん?」

『あの子のお兄さん、だいぶ前に自殺していないよ。』


そう、友達のお兄さんは、中学の時いじめを苦に自殺したのです。
その事を知っていた私は、迷わずそう言いましたが、


「うん、でも話したい事あるから、来て」


そう言った彼は、突然私の手を引っ張り、人気のない路地まで連れていかれました。
その彼の表情はまともでは、ありませんでした。
鋭い眼つき。逆らったら隠し持っているナイフででも、刺されるかも、そんな思いすら脳裏をかすめた。

殺される。と思った。
私は言われる通りに、動く事しか出来なかった。
あと数段、階段をあがれば、祖母の玄関にたどり着けるのに。
あのドアを開けば、みんながいるのに。
あとちょっとなのに…。


まだ10歳だった、私の体は震えていました。
そして、レイプされたのです。
声も出せなかった。動く事も怖くて、出来なかった。
ただ、これが、悪夢であってほしいと思うだけでした。


気が済んだのか、男の人は、私を返してくれました。
ただ、また明日、ここに来るように言われて。


ひとりで帰路についたとき、祖父やら近所の方までが、私の名前を呼び、探し回っていたのです。
祖父が私を見つけ、
「Ressar、おったぞ!」
と、祖父の声を聞いたとき。はじめて、涙を流しました。そして、その場で動けなくなってしまったのです。
すぐに、母親が駆け付け、抱き上げられ、私は祖母の家へと入りました。


あまりの恐怖で、何も話せなかった。
ただ、出てくるのは、涙とオエツだけ。
温かいお茶を入れて、落ち着くまで何があるか聞かなかった母。
そんな母の姿が、一番安心できた。
帰ってこれた。それだけで、安心できたものでした。


落ち着いたところで、今あった事をすべて話した。
もちろん、警察にも届けました。

翌日、私は治療日で、行かなければならず、あの男の人の約束は守れなかった。
母に言うと、そんな約束は守らなくてもいい、といった。でも、悲劇はこれだけでは、終わらなかった。


病院から戻った夕方。
約束の時間に現れなかったので、今度は堂々と昨日の奴が、祖母のうちまで尋ねてきました。
祖母と母が警戒し、私を家の奥へとやった。
そして玄関先から聞こえてくる、会話。


祖母「何しに来たんや?あんた誰や?」

男の人『妹がRessarちゃんと遊びたいっていって、迎えにきた。僕は妹の、兄です。』


と、見え見えの嘘を並べたてる男。


祖母「あんたがやった事、警察にも届けたんや。帰れ!」


祖母のあまりの迫力に、おののいたのか、男の人は、去っていきました。


被害者宅まで来るとは、まともじゃない。
私が、何も喋らないと思ったのだろうか?
あんな、見え見えな嘘を言えただろうか?


翌日、私は母に連れられ、警察にいました。
母の誕生日の日だった。

婦警さんがそばにいましたが、行為の詳細について、あれこれ聞かれたのは、とてもいやでした。
思い出したくない。話したくない。
でも、私が黙っていては、事件は解決しません。
嫌だったけれど、我慢して、あった事の事実を話した。

犯人は、高校生だと分かりました。
母の証言で。
あれから7年たった今でも、あの時期になると、フラッシュバックのように、甦ってきます。
犯人は、いまだ捕まっていません。


私はそれから、男の人をひどく拒むようになりました。
体が拒絶反応を起こしてしまう。
主治医の診察の際でも、筋肉がこわばっていくのが、分かります。
聴診も視診も触診も、男性医師には、怖くて近づけなかった。
女医さんに主治医になってもらった事もあります。
けれど、私の病気は難しいので、ある程度の経験と権力を持った医師が主治医になる事に決まっていました。その頃はまだ、女医の数も少なく、仕方なしに、恐怖感をぬぐえないまま、付き合っていました。


そして、元彼と出会い、理解ある主治医とめぐり合えた事で、徐々に男性恐怖症はなくなり、今でもまだ、男の人は怖いけど、でも、前よりは格段に普通に話も出来るようになりました。



そんな過去のトラウマを、Nにも話した。
すると、突然、彼が抱きしめたのです。力強く。
息苦しさを覚えるほどの強さでした。
でも、そこには、確かなぬくもりがあった。


N「辛かったな。ごめんな。そんな辛い事、話させてしまって。しんどかったやろ。怖かったやろ。もう絶対そんな思いさせんから!俺、お前を守るから。もう、何も言わんでいい。何も言うな!」


彼の言葉を聞き、私は全身の力が抜けたように、彼に全てを任せました。
彼なら…信じれる。
私の直感は、そう告げていた。
そして、その直感は、決して間違ってはいなかった。
と確信する事になります。


そうして、私はNと付き合い出したのです。
これが、そもそもの、始まりでした。


【2006/11/25 14:48 】 | 未分類 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
生きている限り。
生きている限り、失うものは、何もない。


障害が進行して、1つ1つ失ったかのように思うが、今の自分にできる事が、必ず、あるはず。
当たり前にあるかのように思う事が、どんなに幸せか、わかった。
生まれる事、その奇跡だけで、十分幸せなのだ。


年間、100人もの子どもたちが、自殺しているという現実。なぜ、今までニュースにならなかったのか?
いじめが、原因の自殺は、0件との報告…。


ほんとうだろうか?


いじめた人間が?自殺した人間が?
誰が悪いとか責めるより、なぜいじめは起こってしまったのか?
いじめの起こった、場所、時間、流れを、きちんと調査してほしい。
誰かに責任を押し付けるのではなく、逃げるのでもなく、どうしたら、いじめは二度と起きないか?を、大人も子どもも、きちんと考えて欲しい。


私たち、社会に問題はないのでしょうか?
死ぬ事でしか、人の役に立てないと、思う時って、あると思う…。
私も、そう思った事、ある。
だけど、とりあえず、今を生きて欲しい。
あたしは、今を生きていたい。
例えそれが、痛みを伴う行為であっても、その痛みも生きているからこそ、感じる痛みであって、痛みも苦しさも、かみしめたいと思う。


命を失わないであげて。
死んだら、何もかも、失くしてしまう…。
生きる事は、失うものでもあっても、また得るものでも、あるんだよ。生きているからこそ…。
だから、自分の命を。




障害を持って、『死にたい。』と思ったこと。…ある。
病気が進行して、誰の手にも負えなくなって、車椅子へとなり、そして寝たきりとなり。
人の手を借りねば何も出来なくなった、体に失望し。何度も死ぬことを考えた。毎日何かしらの発作を起こし、痛みに耐え、迫り来る死と闘った。
この世の最大の絶望というものを知った。
痛みがものすごくて、苦しみも半端ない。


闇に閉ざされた世界で、たったひとりで。向き合った。
理解してくれる先生たちにめぐり合うまで。
何度も何度も挫折と失望を経験した。
人間の弱さも汚れた心も。


『お嬢さんは長くは生きられないから、今のうちに好きな事をさせてあげなさい。』

『長くは生きる事出来ないから、おうちでご家族で、過ごす時間を大切にされてください。』


そんな言葉ばかりを言われ、在宅医療を続けてきた。入院しても出来る事はないから。良くなることはないから。
どんなにしんどくても、入院すらさせてもらえなかった。
あの時ほど、医療はなんのために、誰のために存在するのだろうと思った。
在宅で出来る事には、限りがあります。
難病患者はほとんどが回復することはなく、治療も難しい。
だから医療界から見放される。
なんでもかんでも、在宅医療に任せっきりなんて、そんなの『優しい医療』でもなんでもない。
それは、ただの『押し付け』にしか過ぎない。


在宅医療のサポートは、決して整っている。とは言えません。制度も設備も、安全も不確かなまま。
不完全なままの場所に、難病患者や在宅で暮らす重度障害者は、行き場のない感情と向き合います。


在宅生活を続けて、母の疲労も溜まり、助けてもらう人もなく、周りに頼る人もいなく、どんどんやつれていった母の姿を、見るのはとてもつらかった。
私さえ、いなければいいと、思った。
疲れきった母の顔。精神的にも参ってしまって、何も罪のない弟に当たってばかりだった。


私のせいで、家族が壊れてく。
私のせいで、家族が疲れてく。


そうなるのは、避けたかった。在宅にかえって、家族が疲れたら、その時は、死のうと思った。
それしか、道は、ないと思った。


容易に、

『病院より家がいいわよねぇ~』、
『おうちに帰れて良かったね~』、
『やっぱり家がいいでしょ?』


なんて、言わないでほしい。在宅での生活が、本人にとって、家族にとって、どんなに大変なものか、分かりますか?想像できますか?
10分以上離れてはいけない。
いつも監視しなければならない。
2時間置きの体交。
吸引・吸入・薬剤管理。


重度難病児を育てるということは、そういうことなんです。それに、日々の家事がつきます。
母の一日はとても、大変。
朝誰よりも早く起き、父を見送り、弟を起こしてご飯を食べさせ、朝の支度をして、学校へ見送り。
掃除・洗濯・買い物。
それに、祖父母の介護も加わるんです。
母が倒れないかと、いつも心配です。
介護をするものにとって、在宅での生活は生易しいものではありません。
自らのいのちをも削られる覚悟がなければ、やってはいけないのです。


在宅を始めると、益々自分の気持ちが苦しくなり、家族には倒れさせない、家族を苦しませるくらいなら、自分が全部苦しみを抱えてやる。と覚悟したものの、全てを一人で抱える事に、疲れてしまった。



リハビリしたら、回復するかも?
自立できる?と前向きになるも、また再発し進行したりで、現実の厳しさにあきらめたり、また…、
『死にたくない。』
と生きる事に、諦められなかったりした。


寝返りが出来ない辛さ。
痛みが治らないしんどさ。
生きるのに、介護が必要な重み。悲しみ。


自由に寝返りが出来ない。
痒いところを掻けない。
美味しそうな匂いを嗅ぐだけで、食べられない。


その辛さは、生きるのには、かなり辛い。


トイレもいけない。
お風呂も入れない。
食事も出来ない。
介護してくれる人がいないと、生きられない。


人の顔色を伺い、遠慮することに慣れる。
家族でも気を使う。
傷もつけ合う。
他人だから、頼みやすい事もある。
だけど、他人事の悲しみとも出会う。


四六十中の痛みと痺れ。痙攣も襲う。
体の辛さが続くならば、死んだ方がまし、と正直、思う時もある。


いつまで私が、がんばれるかな?いつまで周りが介護を、がんばってくれるかな?


死ぬのは最後の選択。最後の最後に、死ぬ事を選べばいいと思えば、今の苦しみが幾分か、楽になった。

私はたぶん。怖がりだから、死ぬ事出来なかった。


死ぬの、明日にしよう…。
ううん、明後日にしよう…。


そうして、今まで生きてきた。
だから、やっぱり、死ねないんだ…。
弱さがあるから、あたしは今、ここにいるのかも知れない。
強くなろうとしなきゃ、生きられなかった。
世の中、あたしは、生きててすみません。な存在だとしか思えない。


死んで楽になる事は最後。
みんな、いつか死ぬのだから。



生きてていいって言ってくれた人がいる。


生きなきゃダメと言ってくれた人がいる。


自己中心になりすぎた時、あたしは死にたくなる。
生きていても、楽しくない。
死んだら楽になるだろうか?
でも、体の心の痛みや辛さを、強く耐えようと決めた。生きるには、強くなるしかなかった。


あたしは、弱い。だから、時々今でも死にたい。と思う時がある。
家族のためだとか、言って今まで生きてきたけれど。もうそろそろ、仮面を剥がして本音で生きたいと思った。
そしたら、死にたい。と願う自分が出てきた。
でも、結局いつまでたっても、死ぬ事出来ないんだ。


あたしには、体が自由に動かないから。
あと数十センチの距離にある薬に、手が届かない。
もし、手が届いたら…それで?どうする?
数グラムの瓶を、口へ運ぶことさえ出来ないんだ。
あれを飲めば、一気に死ぬ事出来るのに…。


ひとりでは、何も出来ない今。
ひとりでは、死ぬ事すら出来ない。
弱い自分。情けない自分。


でも、きっと…動けたとしても。
死ぬ事に躊躇してしまう、あたしなんだろう。



死ぬの、明日にしよう…。
ううん、やっぱり明後日にしよう…。
明後日?ううん、しあさってにしよう。


そうして、生きている。乗り越えている。
全然前向きじゃない、あたしの生き方。


だけど、こうして生きている。そして、生きていく。


亡くなった闘友の無念さを、思いながら…。



今まで、明かさなかった死の本音も、書きたいと思う。



【2006/11/23 00:18 】 | 想うこと | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
心筋炎のこと
昨日、『ウイルス性劇症型心筋炎』と診断され、過去に心筋炎で、亡くなった彼女らの事を思い出してしまいました。


心筋炎とは、心臓の筋肉(心筋)に炎症がおき、心臓としての機能を低下させる、恐ろしい病気です。
心筋炎は大きく別けて2種類あります。
ウイルス性のものが大半ですが、膠原病や炎症性疾患による続発性の心筋炎もあります。
私は、後者の心筋炎にもなった事があります。


私も過去何回もこの心筋炎で、いのちを落としかけそうになりました。
一度は1歳の頃。2度目は4歳の時。3度目は7歳の時、4度目は13歳です。
私の記憶にあるのは、7歳と13歳の時だけで、いずれもインフルエンザが原因でした。ベッドの上で、泣きながら夜が明けるのを、ひたすら待ったものでした。1カ月意識が戻らなかった時もあります。



入院中に出会った仲間。
ボランティアで関った子どもたち。
知り合いの子ども。
ネットを通して知り合った仲間。


心筋炎で亡くした子どもの親御さんともお知り合いになり、色々なお話を聞かせてもらったこともあります。


ただの風邪だと言われ、その僅か数時間後には、死亡宣告・・・。
心筋炎で亡くなってしまった、私が知っている子どもたちは少なくとも16人います。そのうち、直接関った子は、8人でした。


この数字を見ても、心筋炎は、稀な病気だと言い切ることができるだろうか?
そう言って、逃げてはいないだろうか?


『稀な病気だから、早期発見は難しかった。』
そんな言葉で、最愛の我が子を亡くした親は、納得できるものだろうか?


親が『いつもと何か、違うんです!』と訴えているのに、はなから親の過保護だ、うるさい母親とされ、さっさと診察室から追い出されてしまう。
そんな現実が、日常社会の中に潜んでいます。


元主治医が言っていた。
『母親は子どもが第一にかかる、最良の主治医だ。』と。病気の時だけに診る医者より、一日の大半をそれこそ、子どものそばに、常にいる母親の方が、良く子どもの状態を診ている。
自分の症状を自分でうまく表現できない小さな子どもは、それこそ母親が子どもの代弁者である。
医師にとっては、貴重な情報提供者だ。
なのに、考えすぎ。と処理できるだろうか?


心筋炎は稀ではない。
実際に私は我が子を心筋炎で亡くして、裁判で最後まで闘った親御さんを知ってる。


確かに日常の診療ではあまり見られない。でも、風邪の中のほんの一握りの重症児の中には、この病気が潜んでる事を頭の隅っこにでも、思っていてほしい。



“知らない。”
で済まされるものでしょうか?
一体あと、何人犠牲になればいいのですか?
あと、何人犠牲になれば、
『珍しい病気』ではなくなるのですか?


あるお母さんがこんなことを言っていました。
『ただの風邪だと言われ、娘はその僅か17時間後に死んだんです。ただの風邪でどうして死ななきゃいけなかったのですか?』


僅か数年でいのちを絶たなければならなかった彼女たちが、残してくれた課題はたくさんあるような気がします。


心筋炎はとっても、怖い病気です。
だからこそ、すぐに見つけてほしい。


でも、私に関る医師たちも心筋炎は通常の外来診療では見つけるのが、非常に難しいと言います。
風邪と酷似している心筋炎の症状。
でも明らかに違う点がいくつかあるのです。


熱のわりには、頻脈がある。
胸痛を(小さな子どもではお腹が痛いと表現することもあります。)訴える。
チアノーゼ、四肢の冷感。
呼吸が速い。
元気がない。
食欲がない。
嘔吐や吐き気が激しい。
頭痛を訴える。
放っておくと眠ってしまう(傾眠傾向)。


一見すると風邪と良く似ていますが、ふつうの風邪ではチアノーゼや四肢の冷感はまずありません。そしてあまり、熱が高くないのに、脈拍が速いのも心筋炎の特徴です。通常の風邪では、傾眠傾向は出ません。
心筋炎の子どもが悪化した時には、とてつもない睡魔に襲われ、放っておくと、何時間も眠ってしまうようなことがおきます。尋常では、そこまでなりません。


心筋炎は、とても怖い。でも早期発見も難しい…。
悪化した時に、または悪化してから、見つかることが非常に多いです。
医師の中にも、『心筋炎』という病気を知らない人が、多い。その現実は、子どもを持つ親にとって、どれだけ無知な世界に生きている事を実感するでしょう。


心筋炎は、ふつうの『風邪』の中に、紛れ込んでいるんです。
風邪ではない、何か違う。いつもとは何かが違う。
多くの母親たちは、そう感じるといいます。


親が『何かがいつもと、違うんです!』と、訴えても、次のカルテを出され、看護師に診察室から追い出されます。
悪化して、入院しても、そのまま診断がつかないまま、死亡宣告を受けてしまう事もあるのです。
中には、死亡解剖で、病名が明らかになったケースもあります。


子どもが訴える症状にも、それは子どもの我がままだと捉えられ、真剣には向き合ってくれないお医者様もいます。


私が小4の時、こども病院で診察を受けた時の事です。


当時診察してくれた日直医は、訴える症状は、すべて『風邪』だと、診断し、帰されました。
帰っても、良くはなりません。


その日の夜。
次第に不整脈が出始め、意識も朦朧としてきました。
救急車で運ばれた私は、脱水状態。と言われ、入院することになった。
しかし、治療という治療は、ただ、点滴による、水分補給のみ。
私はひどく、震えていました。そして、心臓が止まり、そのまま17日も意識が戻らずにいたのです。


心臓が停止した後、循環医の診察で、心筋炎とはじめて診断されたのでした。


過去に、何度も心筋炎を起こしているのに、それでも、見過ごされてしまうのか?
単純な病気ではない。
いのちを持っていってしまう、恐ろしい病気なのです。


どうか、一般社会にこの病気を知ってくれる人が増えてほしい。そして、増えてくれなければ、いけないと、切に願います。



“医者任せにしては、いけない。”


心筋炎で亡くなった子どものお母さんから発せられた言葉です。


もう二度と、あんな悲劇を繰り返さない為に。


彼女らのあどけない笑顔が、浮かんできます。
【2006/11/22 14:11 】 | 病気 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
I先生との出会い
私が、14歳の時。
小児腎臓内科の担当医が、変わりました。
担当医が変わることを前から聞かされていたので、腎臓主治医の外来で、新しい担当医が助手として、いる事を確認しました。

腎臓主治医G先生「今日から、○○先生(前の腎臓担当医)の変わりで、Ressarちゃんの担当をしてくれることになった、後任のIくんです。」
I先生「はじめまして。Iです。よろしく。まだ、勉強の日々だけど、一生懸命Ressarちゃんのこと診させてもらうね。」

これが、私とI先生との出会いでした。

まだ、ジュニアレジデントだったI先生は、上の先生に日々怒られながらも、がんばって、私と仲良くなろうと、面白いことやあそびや勉強を教えてくれました。
I先生が仕事が休みの時は、ドライブもつれてってくれたりした。
I先生は、28歳の男性でしたが、とても気さくで、話しやすい先生でした。
人見知りが激しい私も、すぐに仲良くなれた。

ある時、入院中。
先生は、夜病室に来ては、ベッドの横に腰かけながら、とてもしんどそうな表情を浮かべては、
「頭痛い…。なんだか最近体が重くて、ついてこないんだよね。太ったかな…?笑」
冗談まじりで、そう言っていたI先生は、太ったどころではなく、どんどん痩せていっていました。
夜必ずと言っていいほど毎日、私の病室を尋ねては(個室だったので)、頭痛い、と呟いていました。

私は、心配になり、何度も、
『検査受けたら?』
と、言いましたが、忙しかった先生は、それどころではなく、日々の業務に追われて、
「大丈夫だって!さぁ、気合でがんばるぞ!」
と自分で自分を奮い立たせていた。



あの時、もっと強く、先生に検査を進めていれば…
あんな悲劇は、起こらなかったかもしれない。。
あのしんどそうな顔は、まともじゃなかった。
毎日来てくれる先生の顔を、日ごとに衰弱していく先生を、見るのはとても、辛かった。

「頭が痛いんだ…」
と私の病室にくる度に、呟いていたI先生。
他の先生の前や、教授回診の時は、そんなこと微塵も感じさせぬ、笑顔で、振りまわっていました。
そんな、無理を重ねて、しんどさを自分自身で消化しているI先生を、私は何も言えず、何も、出来ず、ただ、あの時を迎えてしまうことになった。


あの日は、いつもより、早めに病室に訪れていました。そして、いつものように、椅子に腰かけ、私の話や、控えていた検査や今後の治療について、いつもより丁寧に話してくれたI先生。
2時間ほど居て、今日は当直だからと、部屋を出ていきました。
私も、消灯が近づいて、そろそろ寝ようかと、その前にお手洗いに行こうと、車椅子で、トイレに行こうとしたとき。病棟のトイレは、ナースステーションの前を通らなければいけないことになっています。
この日も、詰め所の前を通ると、なんだかいつもとは違う、ばたばたな雰囲気が漂っていました。

経験から、“何かある!”と直感した私は、詰め所の前にある処置室のドアが、開け放たれていて、ナースや他のドクターが、バタバタと出入りしていました。
チラッと中を覗いてみると…そこには、さっきまだ病室にいてくれたI先生が、意識がないのか、ぐたっと、倒れこむように、ストレッチャーに乗せられていました。
先生の体には、心電図の電極や、点滴のチューブ。そして、色々な管が取り付けられていました。

あまりの衝撃を目のあたりにして、声も出せず、そのままトイレにも行かず、病室へと戻りました。。

翌日、いつも来てくれるI先生ではなく、主治医のG先生が診察にきました。
先生からは、I先生の事を、何も言わなかったので、診察が終わったあと、私の方から切り出しました。


『I先生……どうしたの?』

G先生は、はっとした表情を一瞬みせ、その後はいつもの温和な笑みで、

「I先生、ちょっと熱出しちゃって、今日はお休みなんだ。でも、心配しなくていいからね。少しお休みするけど、また元気になったら、すぐに戻ってくるから。」

もちろん、私はそんな説明では、納得できません。
G先生に詰めよりました。

『あたし、知ってるんだよ。昨日の夜、トイレ行こうとして、見たの。処置室で、先生倒れてるとこ。……嘘つかないで!!』

G先生は、私があの現場にいた事を知らず、とてもびっくりしていましたが、やがて、椅子を持ってきて腰かけながら、話しだしました。


「君には、嘘はつけないな。実は…I先生、君の言う通り、昨夜倒れたんだ。頭痛を訴えてね。MRIをとったら…脳腫瘍だった。今、この病院の脳神経外科病棟で入院してる。でも、場所が場所なだけにね。簡単に手術で取り除ける大きさでも、なくて。かなり進んでる。どうしてもっと、早く気づかなかったんだ……」


悔しそうに、言うG先生が、いつものたくましい先生ではなく、少しだけ小さく、寂しそうに見えました。


Ressar『I先生、あたしの病室に来ては、いつも“頭痛いんだ”って言ってた…。何度も検査受けてって、言ったけど、忙しくてそれどころじゃないんだ。って言って、いつも笑って気力だけで乗り切ろうとしてた。昨日も、I先生ここに来たんだよ。その僅か10分後にI先生倒れたの。』


私も、2歳8カ月の時、脳腫瘍になり、そして、6歳に再発し、8歳の時には、また違う脳腫瘍を発症しています。だから、脳腫瘍の怖さも、辛さも、痛みも、少しは分かるつもりでした。
それでも、やっぱり、I先生が脳腫瘍だと聞かされたときは、自分の病気の告知を受けるより、とてもショックでした。


I先生は、その後脳神経専門の病院に転院し、2度開頭手術を受けましたが、すべてを取り除くことが出来ず、そして、場所も悪かったために、ここでは、成す術はない、と宣告されていました。


私も、一時退院した時、I先生が入院している病院に、車椅子で、母と面会に行きました。
5カ月ぶりに見たI先生の姿は、まるで私が知っているI先生ではなく、まったくの別人のようでした。
頬がげっそりこけ、もともと痩せていたその体は、ますます細くなっていて、手には、幾度も刺されたと思われるほどの、点滴痕…。
想像していたとはいえ、やはりショックは大きかった。


I先生と二人だけで話がしたかったので、母には席を外してもらい、I先生は、私と2人になるとこう言いました。

「ごめんな。最後まで、君を診るって約束したのに。約束守れなくて。俺、病気なんてインフルエンザくらいになっただけで、大きな病気とか、なったことなくて。病気の子の気持ちとか、分かるなんて、えらそうなこと言ってたけど、こんな病気になって、初めて気づいたわ。病気の子の気持ちなんて、分かってなかった。そんなん、分かるわけないよな。同じ痛みを知ってないくせに。この病気になって、俺がどれだけうぬぼれてたか、分かったわ。Ressarちゃんは、俺とは比べものにならんくらい、たくさんしんどい思いしてんねんもんな。恥ずかしいけど、俺…怖いねん。」


そう、話してくれたI先生。
その2カ月後、彼は、カナダに脳神経のスペシャリストがいると言うことで、海外にての最後の望みに賭けてみる事にしたのです。
渡米する日。
私は、I先生を見送るため、両親に連れられ、関西空港にいました。


その頃のI先生は、もはや自力では歩けず、車椅子に乗っていたその衰弱しきった体は、まるで、死期を悟っているようでもありました。


I先生「わざわざ見送りに来てくれて、ありがとな。Ressarちゃんもしんどいのに。絶対帰ってくるから。Ressarちゃん、生きるんやで!」

Ressar『うん、分かったよ。Ressarもがんばるからね。先生が帰ってくるまで、生きて待ってるから。』

I先生「俺が帰ってくるまでちゃうで!俺が帰ってきても、生きるんや!あきらめたら、あかんで。ほな、行って来るわ。俺もがんばってくるわな!じゃぁな!」



そう、言葉を交わしただけで、飛行機の時間が来てしまい、先生とは別れました。
その日はすごく寒い日で、珍しく雪が降っていました。
私は、毛布にくるまれながらも、I先生の姿が見えなくなるまで、ずっと、先生の後ろ姿を見送っていました。
父が、『もう行こう。』というのも聞かず、ずっとずっと、先生の姿が見えなくなるまで、飛行機が、空へと発つまで、見送っていました。





私の元に、I先生が亡くなったと知らせが届いたのは、あの日から1週間後の事でした。
1週間、I先生は、生まれ育った日本を離れ、異国で病と必死に向き合った。
そして、旅立っていったのです。まだ、29歳でした。

彼が、あの日。
私に言った、「恥ずかしいけど、俺、怖いねん」
その言葉が、今でも私の耳にこだまのように、残っています。
あれは、ひょっとしたら、迫り来る死への怖さだったのかも知れません。
1年の闘病生活の中で、彼は、何を学び、何を見、何を、感じたのでしょうか?
今となっては、彼の心のうちは、誰にも分かりません。
でも、きっと彼は、病気をして、人の痛みを知り、そして。
辛さも味わったけれども、冷たい涙だけではなく、温かい涙も知ったのではないでしょうか。


今年、I先生の3回忌が終わりました。
私は、出席できなかったけれど、ここで、先生の事、ずっと想っています。

あなたが、とても患児想いのやさしい先生だったこと。
楽しく、どんなときでも、ユーモアを忘れずに笑いをくれたこと。
自らの私生活を捨て、すべてを私たち患児ひとりひとりにつやしてくれたこと。
どんな病気でも、弱点は必ずある!だから、知識という武器を持って戦えば、絶対勝てる!と体を張って、守ってくれたこと。

あなたは、とても優秀なドクターでした。
まだレジデントという、勉強を重ねる身でしたが、あなたが、今生きていたならば、きっと優秀な医師になっていたでしょう。

「将来は、小児の腎臓の専門医を目指してるだ。」
と微笑みながら、将来を語ってくれたI先生。

あなたの叶えられなかった夢は、あなたの大切な人が、叶えてくれていますよ。
第一線のドクターとして、彼女もとても優秀なドクターで、多くの子どもたちを笑顔にしています。



「頭痛いんだ…」

あの時のあなたの言葉が、頭を離れられません。
どんなに、しんどかったでしょう。
どんなに、痛かったでしょう。
薬剤部にいっては、痛み止めを貰っていたと言っていた先生。


気づいてあげられなくて、ごめんなさい。
何も出来なくて、ごめんなさい。



「Ressarちゃんが、俺が受け持ったはじめての患児やった。正直、俺まだ勉強不足やから、Ressarちゃんの病気も詳しくは分からんけど、俺はRessarちゃんの生き方に感銘受けたし、難しい病気抱えても、前向きに生きようとするRessarちゃんを人間としても尊敬できる。俺が、こんな病気になったんも、もっと人の痛みを分かりなさいっていう神様からのお告げやったんかもな。医者の不摂生ってやつや!」


辛いのだろうに、しんどいだろうに、痛いだろうに、
そんなこと、微塵も感じさせぬほど、明るく、いつものユーモアを決して忘れなかったI先生。


私は、あなたを忘れません。
あなたと過ごした、1年と8カ月の日々の事を。


私の担当医になってくれて、ありがとう。


天国のI先生へ。

【2006/11/20 00:18 】 | 過去の入院日記 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
セクハラおじいさん。
在宅サービスステーションMで活動していた時。
あるひとりの、おじいさんと出会いました。


『あんた、新しく入った職員か?』


送迎の車で来た利用者さんにお茶を入れてる為、ポットでお湯を注いでいたとき、後ろから、声をかけられました。


『あっ、はい。ボランティアでお世話になる事になりました。
Ressarです。』


笑顔で言う私に、おじいさんは、笑顔を返しながら、どさくさに紛れてお尻を触っていました(笑)。


それが、私とOさんの出会いでした。



そう、このOさん。
このディでは、ちょっとした問題児だったのです(笑)。
施設で可愛い職員を見つけては、どさくさに紛れてお尻を触ってきました。その時、ディで一番若かった私に、魔の手が忍び寄った事は、言うまでもありません。


いつも、私のお尻を挨拶代わりにタッチしては、私からもスタッフからも叱られていました。


けれども、それは決して、いやらしいものではなく、Oさんの言わば日課であり、時間が経つにつれ、私も気にならなくなりました。


それが、Oさんのコミュニケーションだったのですから。


Oさんは、脳梗塞で右半身麻痺の人でした。
軽度の言語障害もあります。


それでも、私はOさんとお喋りするのが好きでした。


毎朝、ディの送迎車で、来られたOさんを確認した後、私は下の事務に走り、新聞を取ってきます。
そして、Oさんに温かいお茶と新聞を渡すのが、私の仕事でもありました。


利用者さんの迎えの送迎が一段落した頃、Oさんの座っているグループに入って行く事が多かった。
Oさんとは、色々な話をしました。
戦争時代の事、病気の事、家族の事、子ども時代の事。
私がスタッフに呼ばれ席を立ったり、他の利用者さんの介助で席を立つと、暫くしてOさんからのお呼びがかかります。


私は苦笑いしながら、Oさんとの話を続けました。


やんちゃで、いつも私やスタッフを困らせていたOさん。
私が再発して入院したり、流行性の感染症にかかり休んだりすると、次の週に私の姿を見つけると、


『何で休んでたんや?心配しとったぞ。』


と、本当に悲しそうな目で訴えかけるように言いました。




そして、Oさんと同じグループにいつも居たのが、KさんとOさん(女性)というおばあさんでした。
KさんとOさん(女性)は仲が良く、家も近いようで、ディの送迎車にもいつも同じで、来ました。




Kさんは、私と同じ先天性の目の疾患で、極度に光をまぶしがり、いつも室内ではサングラスをかけていました。
私は活動中は、コンタクトでしたが、やはり、まぶしいのが苦手で、
Kさんとは意気投合していました。



ある一部の利用者さんにおいて、病名は伝えてはいないものの、私が病弱であることは、いつの間にか知れ渡っていたようです。

いつも青白い顔。血色が悪い手足。生気がない顔は、とても健康とは言い難いもののようでした。


在宅サービスステーションMでは、施設に入ると真っ先にスタッフルームへ行き、自分の名前が書かれたNAME札を表にします。
札を表にすると、出勤してきている。という合図なのです。
そして、職員用のジャージに着替えます。
私は、小柄で、まだ子どもだったので、大人のサイズしかない常備している職員用のジャージでは、とても大きく、特別発注してくれました。
そして、施設に入る際に、専用のシューズにも履き変えて、活動に入ります。


そのジャージを着てても、私の身体に、治療や検査によって傷つけられた傷跡は、見えてしまう事がありました。


ふと、腕まくりをして活動していたときの事。
Oさん(男性)が、私の左腕に出来たいくつもの、点滴痕を見つけました。



Oさん『これ、どうしたんや?』
Ressar「あっ・・・点滴してて・・・その痕ですよ。」


Oさんは、そうか、でも点滴でこんな痕になるか?
と、不思議そうでしたが、私がその場から離れてしまったので、
それ以上は何も言いませんでした。



私の血管は非常に脆く、少しの刺激だけで、いや、血液の圧にも
耐えられず、毛細血管が破壊され、出血します。
この度重なる点滴の痕も、その血管が破壊された破壊痕です。



ここのディの利用者さんは、私の事を自分の孫のように、とても
可愛がってくれました。
スタッフでさえも、我が子のように接してくれました。




私が、ここも続けていけないと知り、最後の日。
お別れ会を開いてくれた時は、みんな涙顔でした。


私は、こんなにも想ってくれていた人がいたんだ。
ただ、この世に恩を返したい。人の役に立ちたい。
と想って、ただ、それだけの思いで入ったこのボランティア。


こんなに頼りないボランティアを、こんなに泣き虫なボランティアを、
こんなに子どもなボランティアを、こんなに弱いボランティアを、


心から信頼し、信じてくれた利用者さんとその家族。スタッフ。
頼ってくれた利用者さん。


私はただただ、彼らに感謝するしかありませんでした。


私との別れを惜しんで涙を流してくれた利用者さん。
私は、泣かれるほど、別れを惜しまれるほど、彼らに何をしたでしょうか。
ただ、自己満足で続けていたに違いない。
別れを惜しまれるほど、私には価値も何もありません。


それでも、彼らが流してくれたその涙は、私の心を温かく、優しく
包んでくれました。


いつもお尻を触っては私に、叱られていたOさんもこの日は、朝から
元気がなく、とても悲しそうな表情をしていました。


そして、最後まで、私の手を握っていました(笑)。
最後だからと、私もその手を振り払うことなく、握り返してた。


ここで出会った人たちは、私の人生に大きな影響を与えました。
ここを辞めてから、何人かの利用者さんが亡くなったとの知らせを受け取りました。
その度に、空に向かって、思いを巡らせています。


唯一の情報源だった彼も、私が辞めてから暫くして隣接された特養に異動になったので、彼らの情報も途絶えてしまいました。


今、時々私の耳に入る情報と言えば、
「○○さんが亡くなった。」
というようなものばかり。


そして私はもう、施設の人間ではありません。
個人情報保護法で、利用者さんのその後の経過も安易に、聞けなくなりました。


彼らの情報が分からなくなった今。
あのOさんが、どうしているのか、元気で居るのかも、私には分かりません。
情報は不明確で、勝手に想像するのみです。



でも、きっと。



また、新しい可愛い職員を見つけては、相変わらずのセクハラ精神で、
若い子のお尻を触っているのでしょうか。



少し歳のいった職員には、手を出さないので、


「なんであたしには、触らないのよ!!」


と、怒られていたOさんのにやけ顔が、想いだされます。




ありがとう。
たくさんの思い出をくれて。


ありがとう。
たくさんの優しさをくれて。





【2006/11/13 12:01 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
すべてのボランティアをやめて、1カ月後のクリスマス。
私は、MTディサービスセンターの責任者の方に呼ばれ、クリスマス会に参加していました。
もう、これが、本当に、最後だという思いで。


同じ、在宅サービスステーションMで働いていた彼と、その後利用者さんの近況も聞いたりしていましたが、のちに彼も隣接された特養へと異動し、彼らの情報は、途絶えてしまいました。来る連絡といえば、
『〇〇さんが、亡くなった。』というものばかり。
そのころの私は、もう動く事もやっと、であり、本当にあの頃、動けていた自分が信じられないくらい弱っていました。


その後一気に体調を崩し、今まで苦労して、登ってきた坂道を、まるで転がり落ちるように、急激に悪化し始めました。
そして今。寝たきりとなり、自分では何も出来なくなった。それは、ある一方で、予期していたことだったのかも知れません。
今は、あの頃がただただ、懐かしく、感傷に浸るばかりです。


あの頃、無理をしなければ、病気はこんなに早く進行しなかったかも知れない。
まだ、歩く事は出来たかも知れない。


でも、後悔はしていません。
あれが、私が望んだ道だった。これが、私が選んだ選択だった。そして、これが、私の人生です。


ボランティアで学んだことは、たくさんあります。
ボランティアで教えられたことは、たくさんあります。
ボランティアで見たものは、たくさんあります。
ボランティアで経験したものは、たくさんあります。


そのどれもが、私の人生の財産であり、守り続かれる宝物となるものでした。
ボランティアをしていて、よかった。
あの時、無理をして、よかった。
あの日、自分の信念を貫いて、よかった。


もし、私が病気でなかったら、きっとボランティアをしたいなんて、思わなかった。自分を見失う事もなかったでしょう。ふつうに、暮らしていたら、気づかないことに、病気を通して気づいたことは、いくらでもあります。
彼らと出会えたことに、感謝します。
あの、辛かったけれども、幸せだった日々を、一時でも持てた事を、誇りに思います。


ボランティアとして、彼らに関る事が出来た事を。
ボランティアとしての、存在意義を、そして私個人の生きる価値を再び、見いだす事が出来たこと。
それは、すべて、ボランティアが教えてくれたことでした。人を向き合う事が怖く、人と関る事を拒絶していたあの頃。自分を見失い、自暴自棄となっていたあの頃。中途半端な想いで、入ったこの世界。
でも、そこは思ったより厳しくて、それでも優しい世界でした。人を思いやる気持ち、人をいたわる心、人を信じる強さ、人を好きになる想い。
人として、いくらか未熟だった私は、ほんの少し。ここで、成長できた気がします。
もう、自分を見失ったりはしない。そう、ぜったいに。
これから、何があろうとも。。


ボランティアの頃、繋がりを持った、人たちは、今でも私の良き理解者であり、時にヘルプをしてくださるサポーターです。元気がない時、しんどい時、手をさしのべてくれる、人がいる。
そう、このボランティアで、私は、またひとつ。
大切なものに、気づかされたのです。


もう、見失いたくない。
やっと、手に入れた『希望』と『勇気』を。

ずっと病気ばかりで、本当に、病院と家が、生活の場所だった。
そこから、一歩。社会に出た、まだ中一だった幼き私。学校にもいけなくて、社会の事なんて、全然分からなかった。
でも、ボランティアという世界で、社会の厳しさを知り、社会の優しさを知り、社会の窮屈さを知りました。


『ボランティアが生き甲斐』だった。
忙しく、本当にしんどかったけれど、心は満たされていました。
もう、あの頃には、戻れない。
そして、あの楽しかった日々と、彼らには、もう二度と。出会う事はない。


ありがとう。
私に、夢を与えてくれて。
ありがとう。
私に、勇気を与えてくれて。
ありがとう。
私に、自信を与えてくれて。
ありがとう。
私に、信じる強さを与えてくれて。


ありがとう。
ありがとう。
ありがとう。


そして、さようなら。
あの日々よ。
【2006/11/07 18:37 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
2つのディだけに絞ったのに、それも長くは続かなかった。どうして、病気は私から大切なものを、奪うのだろう。どうして、もう少し、待ってはくれないのだろう。
もう少しだけ…続けさせてください。。
お願いします。


どんなに願っても、どんなに祈っても、神様も病気も、私に味方はしてくれませんでした。
各施設をやめてから、2ヶ月後の10月。
再び、心臓が停止して、病院にいました。


心臓と免疫、神経主治医から
『残念だけど、もう続ける事は出来ないよ。Ressarちゃんが今まで頑張ってきたの、先生知ってる。だから、君にやめろ。というのは出来るものなら言いたくない。君は、ボランティアで自分を取り戻して、すごく成長したと思う。でも、君の病気は今も現在進行形の形で、進んでいっているんだ。今、生きていることも不思議な状態なのに。』
『君のがんばりは、良く分かったから。君はもう、十分に社会に貢献したんだよ。もう、自分を解放させてあげなさい。』
『Ressarちゃんの思いは、皆良く、分かってるよ。でも、自分もしんどいのに、そんな体で何が出来るんだい?君がしんどい思いをしているのを、知ったら利用者さんも悲しむと思うよ。中にはそんな人には来てほしくないと思う人もいるかも知れない。もう、十分頑張ったんだから、もういいんじゃないか?』


と言った。そう、かも知れない。
もう、限界かも知れない。体はパンク寸前でした。
心臓の高鳴りは、やむ事がなかった。寝る時も、安静にしていても、高鳴り続ける心臓。どうして、治まってくれないの!もっと、続けたいのに。もっと、彼らといたいのに。お願いします、後少しだけ。あとほんの一カ月でいいの。それまで、どうか。私の心臓。持ってください。


11月27日の15歳の誕生日を最後の日と決め、私は残りの1カ月をがむしゃらに、ただ一心に、通いました。あと、1カ月。自分の誕生日の日を最後と、自分自身で決め、自分で納得し、使命を、終えたかった。
誰に言われるでもなく。誰の言う通りにするでもなく。
私は、自分自身で決め、この世界に入った。だからこそ、最後も、自分でけじめをつけなければ、いけなかったのです。
最後の日を決めてから、私はあるものを製作していました。利用者さん全員とスタッフ全員に渡す、星のキーホルダーを一つひとつ、仕上げました。
私が、いなくなっても、ずっと長生きしてほしい。そして、星のように、輝き続ける彼らでいてほしい。という願いを込めました。


そして、迎えた最後の活動日。


特に思い入れが強い在宅サービスステーションMでは、途中責任者の方が突然やめ、部長だった職員が責任者となり、そして、彼と出会った場所。
ここの利用者さんにも、特別な想いがあります。
そんな在宅サービスステーションMでは、最後の日は、いつも午前中だけの活動だったけど、午後もいようと母の手作り弁当を持参して、一日いることにしました。
午前中は、いつもと変わらない風景。
私も最後だからと、気を張って、いつも以上にがんばりました。送迎も、入浴介助も、話し相手も、食事介助も、レクリエーションも。
午後からのレクリエーションの時間。
椅子を丸く並べて、その中心に突然、スタッフからそこに行くように言われました。事前の打ち合わせでも、何も言われていなかった私は本当に、『???』で、何が起きるのかドキドキしていました。


すると、利用者さんはじめ、スタッフ全員が一輪一輪の花を持ち、私に渡してくれたのです。
思いがけない『お別れ会』に涙が止まらず、本当にここまで頼ってくれた彼らに、頭が下がる思いでした。
いつもは、ちょっかいばかり出して、困らせてばかりの利用者さんも、あの日だけは。涙を浮かべて、私に『今までありがとな。もう、可愛いあんたに会われへんねんな…』と言ってくれました。
利用者さん、スタッフ全員から受け取った一輪一輪の花は、大きな花束となり、私の小さな手では、抱えきれないほどのものでした。
今でもあの時の事を、鮮明に思い出すことが出来ます。
そして、ある認知症のおばあさんがいました。私と彼とで、担当していた利用者さんで、自分の事も、相手の事も、ご家族の事も、記憶にないおばあちゃんで、こちらの言っていることも分からないようなおばあさんでしたが、この日は、しっかりした表情で、今まで見せた事もないはっきりした口調で、
『ありがとう。』と言ってくれたのです。
あの時程、嬉しかったことはありません。
だって、いつもうつろな目をしていたのに、私の目をはじめて、見てくれたのですから。
責任者の方から代表としてもらった、誕生日プレゼント。私にとって、ここで学んだことは人生のかけがえのない宝物となり、財産です。ここで、活動出来てよかった。辛い事もあったけど、ここで、出会った人たちの事は、出来事は、私がおばあさんになって、彼らと同じように、介護される側となっても、忘れない。


星のキーホルダーもとても喜んでもらえ、苦労して100個も作った甲斐がありました。
中には、さっそく袋からあけて、かばんや財布につけてくれるお年寄り。彼らの姿を見る事は、もうありません。悲しいけれど、これが現実。私が選んだ道なのです。本当は、ずっと、続けたかった。でも、私の病気は、待ってはくれません。


最後に2枚の色紙をもらいました。スタッフからと利用者さんからの想いが詰まった色紙。
最後のあたりは、もう自力で自転車を漕いでいく力もなく、タクシーを使い、行きました。その日はちょうど、雨で、私の心の中を反映しているかのようだった。
自宅へ戻り、色紙を見て、再び涙しました。


そこには、たくさんの
『ありがとう。』と『お疲れさまでした。』の言葉が。
『土曜日に現れる可愛いエンジェルRessarちゃん。その優しい心でたくさんの人々を、力づけてくださいね。』
麻痺がある利用者さんの、必死で書いた字。
『希望を与えてくれてありがとう。』
これが、どんなに嬉しかったことか。
今でも、この色紙を見ると、涙が溢れます。
そして、あのころを思い出しては、涙します。
だから。もう、この色紙は、本棚の奥に、閉っておこうと思いました。涙が誘われないように。
でも、ふとした拍子に、どうしても見たくなります。
そんな時、泣くのは分かってて、読んでしまう。
そして、また。涙します。


今も、その繰り返しです。


もう一つのMTディサービスセンターでは、誕生日も兼ねて、旅立ちのお祝いをしてくれました。
そして、バースディプレゼントをスタッフや、利用者さんから貰い、ここでも、色紙を貰いました。
その日来れなかった利用者さんは、スタッフに、
『あの子、ビーズが好きやって言ってたから、今度きたらこれあげて。』
と、可愛い袋に入ったビーズをたくさん、もらいました。


責任者の方から、『また、あそびにおいで。』と言われ、暖かい気持ちになれました。


【2006/11/07 18:36 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
中2の夏。ボランティアを始めて1年と少し経過した頃。あの悪夢の日々がやってきました。
がんばり続ける私に、病気はストップをかけたのです。
それが、あの再発でした。
いずれ動けなくなる。と言われていた。でも、それはもっともっと、先の事だと思っていました。まだ、早い、まだだいじょうぶ。そんな根拠など、どこにもなかったのに。


いつものように、朝目覚めると、体が動きません。
うんとも、すんとも言いません。
冗談でしょ?本当にそう、思った。待って、今からボランティアに行かなきゃならないのよ!どうして、今なの?ねぇ、お願い、待って。。
すぐに、母に連れられ、病院に行き、入院することになりました。それから、1カ月。寝たきりで、ボランティアをお休みすることとなったのです。
この1カ月の間。体を動かすことは出来ず、本当に地獄の日々でした。今と同じ、寝返りさえひとりでは、出来なかったのです。病院で、休息の時間を与えられ、私は今までの、この1年を振り返っていました。私は、頑張りすぎていた。それは、自分でも分かっていました。体調が悪くても、どんなにしんどくても、どんなに体が痛くても。その痛みを必死でこらえ、電車とバスを乗り継ぎ、向かった施設。片道40分もの道のりを毎週毎週欠かさず通った施設。風の日も、雨の日も、それこそ台風でも。どうしても、自転車が無理な時は、タクシーで施設へと通っていたあの頃。


頑張り続ける私に、主治医はもう一度言いました。


『ほんとに、死ぬよ。いい加減にしなさい。君にとってボランティアが大切なのは良く分かった。でも、このままだと僕も、助ける自信がない。』


主治医の涙を見て、私ははっとさせられたのを覚えています。そして、父が私に向かい、言ったひとこと。


『御前は俺にとって、たった一人の娘なんや。今まで大切に育ててきた。御前がそこまでして、ボランティアちゅうものに、かける想いは分かった。だから、もう。もう、自分の体、大切にしてくれへんか。』


父の涙を始めてみた。
私がボランティアを続ける事で、悲しむ人がいるなら、私はもう、続けていくことが出来なくなるかも知れない。と思いました。
そして、動かない体のまま一カ月が過ぎようとしていた頃。Mディサービスの責任者の方が、お見舞いに来てくださいました。


責任者「Ressarちゃん。具合どう?無理するから。ボランティアセンターの〇〇さんから聞いたよ。うち以外にもいろんなボランティアしてたんやってね。うちは、Ressarちゃんが来てくれて、本間助かってるんだよ。利用者さんも待ってはるよ。“今日はあの子、来えへんのか?”とか聞いてくる。スタッフも、皆、Ressarちゃんに来てほしい。」


責任者の方からの話を聞き、涙を流しました。
そして、帰り際に、動かなくなった私の右手を握りながら、
『また、来てね!待ってるから!』
と言って、帰っていく責任者からの言葉が重く、それでも嬉しく感じました。
ほかの養護施設の職員も次から次へとお見舞いに来てくださり、笑顔をくれた、彼らに、私は自分の欲と傲慢さで、活動に入っていただけではないのか、と考えさせられました。
変わる変わる来る、来客者に主治医も担当医も看護師も、両親でさえも、目を丸くし、ただ驚くばかりで、来客中は皆、遠慮して診察もケアも入る事はありませんでした。


入院中、考えたことは。このままでは、いけないという事。このまま、以前のように、走り回っていたら、自分はおろか施設の人にも、迷惑がかかってしまう。
ボランティアはもう出来ない。
それでも、なかなか決心がつかなかったのです。
ボランティアは、私にとって大きな大きな存在となっていたのですから。
あそこで出会った彼らの事を思い出しました。
いろいろな人と出会った。いろいろな子と出会った。
別れてしまった子もいた。何人もの利用者さんを見送ってもきました。その度に、彼らと過ごしたこの場所を、続けたい。と思った。


そして、私の中で。やっと、一つの決心が出来た時。
1カ月の強力な治療を終え、動けるようになった私は、自宅へと戻り。各施設にもう、続ける事は出来ないと、電話しました。
そして、活動で、ではなく、退院から1週間後。各施設に、挨拶に出向きました。
肢体不自由児養護施設。知的障害児養護施設。情緒障害児養護施設。病弱児養護施設。
とりあえず、この4つの施設を、辞め、私は、MディサービスセンターとMTディサービスセンター、入院している子どもにあそびを届けるボランティアの定例会、きょうだい児へのサポート、臨時の病児保育、市民に応急手当を普及する活動だけに、絞りました。
それでも、だいぶ、楽になったのです。
でも、まだまだ体は悲鳴を上げ続けていました。


退院してから、1カ月後。
今度は不整脈から突然心停止し、集中治療室で2週間入院することになりました。2週間だった入院が、入院中にまた再発してしまい、動けなくなり、1カ月入院しました。


2度目の入院で思ったことは、もう、ボランティアを続けてはいけない。減らしたけど、それでも、私はもう出来ない。と限界を感じ始め、残りのボランティアについても、本気で検討していました。


そして、入院中。
残りのボランティアに電話を入れました。
もう、出来ないこと。申し訳ない思い。ごめんなさい。と何度も何度も詫びました。また、同じ過ちを犯してしまった。特養でのあの、経験で。同じ思いは、もう二度と繰り返さないと決めたのに。


最終的に残ったのは、在宅サービスステーションMと病院内にある、MTディサービスステーションでした。
病院内にある、MTディサービスステーションは、まだ養護施設の活動もやっていた時に、追加して活動していたところです。ディに来ている人の通院介助やリハビリ訓練も行いました。


この2つだけは、最後まで続けていきたい。
心から、そう願いました。
そして、在宅サービスステーションMが毎週土曜日の午前9時から12時半まで活動に入り、MTディサービスステーションは、毎週月曜日の午前9時から12時半まで活動に入りました。
それ以外の日は、フリーで、時々保育ボランティアや講座への助手として、参加したりしました。


これなら、後もう少し。続けられると思ってた。
でも、病魔は刻々と進行していきます。
やめて。と叫んでも、私の体はどんどん、闇に吸い込まれていくばかりでした。



【2006/11/07 18:35 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(1) | page top↑
ボランティア日記?
次いで、面接に行ったのが、病弱児養護施設。
ここでは、重度の心臓病を持った子。血友病の子や慢性疾患を抱えた児童が生活していました。
私も、一度、二度と養護学校に行くように薦められた所。同じ病気を抱えた仲間とも知り合いました。
ここでは、毎週金曜日の午前10時から午後3時まで。
レクリエーションで、あそびを考えたり、食事の用意をしたり、忙しく働きました。ここの寮母さんから色々な事を教わりました。お昼の時間には、調理場で料理を教えてもらい、色々な生活の知恵を教えてもらい。
第二の母のような存在でした。


最後は、知的障害児施設に面接に行きました。
知的障害児施設は2カ所のところで面接希望があり、2つとも行きましたが、1カ所のところは県外で、とても通える場所ではなく、断念し、府内の施設に決めました。ここは、隔週火曜日の2時から6時半まで活動に入りました。自閉症や発達障害、重度の知的障害を子どもとも触れ合い、私の中で根付いてしまった、『障害児者』という根底を覆されるきっかけともなりました。


これ以外に、入院している子どもにあそびを届けるボランティアや病気の子どものきょうだいへのサポート。
保育ボランティアも経験しました。
病弱児養護施設から、不定期でしたが、院内学級のお手伝いにも出張ボランティアという形で、入りました。
救命救急士の方と市民に応急手当(心肺蘇生術など)を普及するボランティアにも携わりました。
救命の資格を取り、救命救急士さんと各地を周り、勉強会を開き、市民に応急手当を普及する活動を続けてもきました。


とても、忙しかったあの頃。毎日毎日、スケジュールがびっしりでした。手帳もふたつ。休む時間なんて、なかった。
今思うと、爆弾を抱えた身をよく酷使したものだと、驚きを通り越して呆れてしまいます。体は、常にしんどかった。
忙しく、でも、その毎日が、私に『生きている。』という実感を与える事でもあったのです。
体を限界まで、酷使することで、強さを手に入れようとした。でも、それは、私の妄想であり、歪んだ価値観だとのちに気づく事となりました。


私にとって、ボランティアとは。
私の人生に、なくてはならないものだったのでしょう。
辛い時、しんどい時、いつもあの頃の事を思い出します。
辛い思いもしたけれど、悲しい思いもしたけれど。
私は、あそこで。あの場所で。
人間としていろいろなものを教えられ、学び、そして。
人と関る事が素晴らしい事だと知りました。
いろんな人と出会い。いろんな子たちと出会った。
いろんな先生と出会い。いろんな親御さんとも出会った。
それは、私の人生で、大きな力となり。また、素晴らしい財産でもあります。


しばらく、このような生活が続きました。
そして。ボランティアを続けて1年。
私は、大きな再発をすることになります。


【2006/11/07 15:46 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
いくつかの養護施設から面接を言い渡されました。
肢体不自由児養護施設。
知的障害児養護施設。
情緒障害児養護施設。
病弱児養護施設。


肢体不自由児は1カ所の施設から。
知的障害児は2カ所の施設から。
情緒障害児は2カ所の施設から。
病弱児は、1カ所の施設から。


面接を頂き、各施設と連絡を重ね、面接の日取りを取り、向かったあの日。


私にとって、新たな出会いの場所となりました。


まず最初に向かったのが、肢体不自由児養護施設でした。ここで、私は多くの事を学ぶ事になります。


電車に乗って、バスを乗り継いで、行きました。
家から1時間半のこの場所で。いろいろな想いを抱く事になります。
責任者の方と面接をし、その場でOKを貰い、活動日と支援内容を決めました。
ここでは、月・土の週2日。午後2時から夕方5時まで。活動に入りました。児童との関り。レクリエーションで一緒にゲームをしてあそんだり、子どもたちと企画をしたり、時には訓練のサポートをしたり。相談に来る小学生の子もいました。車椅子の彼ら。動けない彼ら。それでも、自分の意思と人生を歩いてくその生き様を見て、未来の自分の姿を、重ねてみた事もあります。
でも、今は、私に出来る事を。精いっぱいの形でやろう。それが、私を突き動かしていたたった一つの、キモチでした。


次に、面接に向かったのは、情緒性障害児短期治療施設でした。ここには、不登校の子や知的に発達遅れはないのに、学習が出来ない子。不安が強く、人前で話すことが出来ない子。など、情緒的に何らかの障害を抱えている子がたくさんいました。
私はここで、子どもの心理というものに、向き合い、そして自分というものを取り戻す場所でもありました。
人間的に、多くの事を磨かせて頂いたような気がします。
情緒障害児短期治療施設は2カ所、面接を受け入れてくださいましたが、最終的に活動に入るのを、受け入れてくださったのは、1カ所だけでした。
受け入れてくれた施設での活動は、火・水の週2日。火曜日は9時から12時まで。水曜日は9時から5時まで。
家から、電車を乗り継いで、毎週通いました。


そこで出会った、一人の女の子。
対人恐怖で、目を見て話す事が出来ず、いつもひとりでいるような子でした。私は、活動に入ったその時から、彼女の事は気になっていましたが、話し掛ける事が出来ず、日々の忙しさに紛れ、彼女と接点を持つ事が出来ませんでした。


ある日。
スタッフと話をしているとき、彼女が私に一通の手紙を渡しました。そして、「後で、読んで!」と言って、タッタた、と走り去っていきました。
その日の帰りの電車の中で、私は貰った手紙を見ました。
『仲良くしてください。』と書かれたその手紙を、私は彼女の心のうちを、少しだけ、見たような気持ちでした。それから、私と彼女との文通が始まりました。
活動に行くときには、必ず彼女へ渡す、手紙を入れていきました。ほかのボランティアで忙しく、書けなかった時には、電車の中で書き綴りました。
そうして、彼女の信頼を得られたと思ったとき。
彼女は突然、お父様に連れられ、治療施設からご自宅に戻る事になったのです。
彼女は、『ほんとはね、帰りたくないの。』と手紙に書いてくれました。けれども、たかがボランティアでしかない私は、止める事も、彼女にだいじょうぶよ、とも言えませんでした。そして、迎えた彼女とのお別れの日。彼女の強い意思で、私の活動日に自宅へ帰る事になったのです。後で、それを知ったとき、もっと彼女と話せばよかった。と後悔しました。


お別れの日。
お父様の車の窓から、寂しげにこっちを見る、彼女のあの顔が、あのまなざしが忘れられません。
『さよなら。Ressarちゃん、ありがとう。』
と言って、さよならしたあの日から、5日後。
彼女が手首を切り、睡眠薬を大量に飲んで、亡くなったという訃報を施設のスタッフから、聞きました。
一切のボランティア活動をその日はお休みして、私は彼女のお葬式に出ました。そこには、あの時見せてくれたとびっきりの笑顔で、笑っている彼女の姿があった。穏やかな顔で、眠っている彼女を見ると、涙を止める事が出来なく、本当にやりきれない思いでいっぱいでした。どうして、あの時。
『帰りたくないの。』
と言った彼女の気持ちを無視してしまったのだろう。あの時。私がスタッフにでも言えば、彼女は自分を苦しめる事はなかったかも知れない。
あの、さよならが本当の、さよならになってしまうとは。誰が思ったことでしょう。
あの子の想いを分かる事なんて、出来なかった。
ボランティアをしていて、初めての別れでした。


それでも、私はボランティアを続けます。
ここで、やめれば、彼女の死が無駄になってしまうようで。彼女が伝えたくても、伝えられなかった思い。
その想いが、なんだったのかは今でも分かりません。
でも、彼女のためにも、私は彼女とであったこの場所を、続けていきたかったのかも知れません。


【2006/11/07 15:45 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
特養を2週間で、やめてしまった事は、私の中で大きなマイナスのダメージを与える事になりました。せっかく受け入れてくれた数少ない施設。なのに…自分の都合で、やめなければならなかった事を、ずっと責め続けました。それでも、ずっと、ウジウジしている訳にはいきません。次のボランティアが待っているのです。
私は、目の前にやる事があると言う事だけで、前へ進んでいく事が出来ました。若さゆえの、パワーだったのかも知れません。体は、ほんとに、辛かったんですけどね。精神面では、ボランティアとしての存在が、大きな力となっていました。


暫くは、在宅サービスステーションM、一つだけに絞る事にしました。もう、無理をして、特養のように、自分の都合だけでやめてしまう事が、許せなかったのです。それが障害を抱えながら社会に一歩出た、社会への、施設への、利用者への、スタッフへの、最低限のマナーと精いっぱいの配慮でした。
Mディサービスセンターは、週1回土曜日の午前中だけ活動に入りました。初っぱなから焦り、特養のような過ちを、もう二度と、繰り返さない為に。


Mディサービスセンターの初めての活動日。
特養である程度の、関り方を知った私は、積極的に利用者さんの輪に入っていきました。人と関る事が、出来なかった、私。人と関る事を拒絶していた、私。そんな私が、自ら積極的に、話し掛けられるとは、自分でも驚きでした。ただ、ここに入った以上は、彼らと向き合いたかったのです。自分が望んで、入ったこの世界に。責任と誇りと、プライドを、持ち続けたかっただけなのかも、知れません。


Mディサービスの責任者Kさんと一緒に、活動場所の2階に連れて行かれ、スタッフや利用者さんに紹介してくれました。


K責任者「今日からボランティアとして働いてもらいます、Ressarさんです。」
私『Ressarです。よろしくお願いします。』


「きゃぁ~可愛い名前!!」


と、どこからともなく、スタッフの声が聞こえてきました。何とも明るい、このディサービスセンターが、私は好きでした。特養とは違う、明るさやオープンさ、そして、スタッフと利用者さんの対等さ、時には利用者さんを人生の先輩として、尊敬しているスタッフの在り方に、特養にはなかった、ものを気づかされました。


初日に、いろいろな方と触れ合い、さっそく仲良くなった利用者さんもいました。


利用者さん「また、来てくれるか?」
Ressar『これから毎週土曜日にこの時間に、来ます。』
利用者さん「待ってるで。来週やな。来てな!」


と、手を握ってくれたおばあちゃん。
私は、涙を見られないように、そっと、手の甲で涙を拭いました。私を必要としてくれる人が、いる。ただ、それだけで、私は自分の存在価値を明らかにでき、認めてくださった利用者さんやスタッフ。そして、受け入れてくださったこの施設に、ただただ、感謝するばかりでした。


翌週、土曜日。
朝早く、9時前には家を出ました。ディが始まるのは、10時。自転車で、片道40分もかかるのです。普通なら、自転車で20分でいける距離。でも、心臓病の私には、とても、ゆっくりゆっくりしか、行けなかったのです。いつも不整脈が起きていました。活動中は笑顔をつくり、しんどそうな表情は一切見せず。
でも、通勤途中では、何度も自転車を降りて、休憩しなければなりませんでした。肩で息をしながら、チアノーゼを隠し、Mディサービスセンターの職員駐輪場に自転車を止めて、息を整えました。そして、活動に入る前に、強力な不整脈を抑える薬と、発作止めの薬を飲み、活動に入る事が、日常でした。


母は、あの頃の事を、こう語ります。


『見ているのも辛かった。帰ってきたら真っ青で、玄関で座りこむのを見て、それでも続けようとするあなたが、信じられなかった。』


と。家に帰る途中で、何度も意識を失いかけました。それでも、気力だけで、帰路にたどり着き、家の前で立って待っている母の姿を見ると、ほっとして、そのまま意識を失ったこともありました。
発作で肩で息をしながら、チアノーゼで全身真っ青になりながら、意識も定かでない私の背中を必死でさすってくれた母の姿を、今も思い出します。


『また、来てくれたんか。もう、来てくれへんと思ってた。嬉しいわ』


私が流行性の風邪にかかってしまい、週一回のディでの活動をお休みしていたとき。利用者さんから発せられた言葉。そんなに、私の事を思って、待ってくれている利用者さんやスタッフがいる事を知り、涙を拭うのももどかしく、とても嬉しい気持ちで、暖かい涙を、初めて流しました。


Mディサービスでの活動を3回程行った3週目の事。
センターから一本の電話が入りました。


担当者「Mディサービスではどうですか?何が困ったことはありませんか?」
私『順調です。』
担当者「そうですか。それは良かった。そうそう、病気の子どもに関するボランティアですが、いくつかの養護学校から面接をしたい。とのご連絡を頂戴しました。特養での件もありますし、今はMディサービスだけで精いっぱいだとは思うのですが。どうされますか?」
私『行きます。面接の日取りは?』


私は迷わず、そう答えていました。何も、考えずに。ただ、考えるより先に、口に出していました。
どう考えても、今はMディサービスだけで、精いっぱいなのに。これ以上重ねると、また、特養での同じ過ちを繰り返してしまう事など、分かっていたはずなのに。
冷静に考える事が出来ていなかったのです。
ただ、私の中ではある決定(けつじょう)のようなものが、出来ていました。


“もう、二度と同じ過ちはしない。責任と誇りを持って、やろう。”


僅か、中一だった私の古い日記帳にそう、記されています。


【2006/11/07 15:44 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
特養で、週5日の活動をする事になった、初めての活動日。
所属する事になった2階へ行くと、スタッフが忙しく働いていました。何をすれば良いのかオロオロするばかりだった、私に気づいた一人の職員が声をかけてくれました。


職員「大丈夫よ。皆が揃ったら自己紹介して。後は普通にしてればいいから。」


利用者さん、スタッフが全て揃った所で、職員に促され前まで行き、自己紹介する事になりました。


私『今日からボランティアとしてお世話になります、Ressarです。よろしくお願いします。』


名字だけを述べた私に、スタッフから、

『下の名前も!下の名前が可愛いんだから!』


と、言われ、下の名前を言って、


『歳、言ったら皆、びっくりするから!』


私『13歳、中一です。』


と照れながら、言うと、どこからともなく盛大な拍手をもらいました。人前で話す事に慣れていない私は、とても、恥ずかしくて照れながら、ドキドキしまくりでした。適当に、利用者さんの輪に入り、おしゃべりをしていると、ある利用者さんとスタッフから質問攻めにあいました。


スタッフ「どうしてこのボランティアに就こうと思ったの?」
私『自分が幼い時から病気で…。だから今まで沢山の人からもらった恩を世に返したいと思ったからです。』
スタッフ「すごいねぇ。ねぇ、○○さん。まだ中学1年よ。あたしが、中一の頃なんて、何も思ってなかったわぁ~」


と、利用者さんに話し掛けます。
スタッフの利用者さんへの接し方を見ていくうちに、次第に利用者さんへの関り方を見につけました。


スタッフ「将来はやっぱりこういう仕事に就きたいの?」
私『一応、お医者さんを目指してます。』
スタッフ「お医者さんですって!きっといいお医者さんになるんでしょうね!これくらいから自分の夢を持てるなんて、やっぱすごいわ!ご両親のしつけがいいんでしょうね!」


などと言われ、私は愛想笑いを浮かべていました。
その頃は、まだ、本気でがんばれば、夢は叶うと信じていた。それが、幻想だとは、思いもよらずに。


特養での毎日は、本当にきつかった。
毎日が地獄のような日々でした。体は早くも悲鳴をあげていた。学校さえいけていないのに、こんなところへ行く元気があるなら、学校へ行け。と思われるかも知れませんが、私は学校に行くより、ここで多くの事を学ぶ事になるのです。


私が所属していたのは2階でしたが、一日のうちに何度も最上階を行ったり来たり。非常階段を往復していました。重度な障害を抱え、大きな爆弾を抱えた体には、なんとも信じられない日々が続き、ある特養に向かう途中。あの悲劇は訪れました。


自転車で通勤していた私は、その日も重い体を引きずり、特養へと向かっていました。
自転車を漕いでいる途中、急に胸が苦しくなり、心臓が激しく痛みだしました。そして、みるみる内に冷や汗をかき出しチアノーゼが増強。とても、自転車を漕いでいられなく、止まって呼吸を落ち着かせようとしても、どんどんひどくなってきます。そして、私はそのまま意識を失い、倒れてしまいました。


通行人の親切な方が119番通報してくれ、救急車で、運ばれました。気づいたらMY病院のベッドの上で、心電図モニター、酸素吸入、点滴やら、いろいろな管に繋がれていた。
そこには、心配そうに覗きこむ主治医の姿と、母の姿がありました。


意識を戻して、主治医から言われた事。


Dr.「もう、ボランティアを続ける事は無理だ。今すぐやめなさい。このまま続けると、本当に死ぬよ。」


これは、脅しでもなんでもなく、私にも限界は分かっていました。それでも、私はやめなかった。それは、私の中での意地であり、ボランティアとしてのプライドでした。やけになっていたのかも、知れません。自分を見失った最中で、多くの人と関る事で自分を取り戻し、認めてもらいたかったのかも知れません。


それでも、特養での忙しさは私にとって限界で、僅か2週間で、特養をやめる事になったのです。


施設長に話しに行きました。


私『皆さんにこれ以上迷惑はかけられません。これからも度々今回のような事が起きる可能性はあります。皆さんへ与える影響を思うと、このままここで、続けるわけにはいかないと、判断しました。せっかく受け入れて下さったのに、身勝手で申し訳ありませんが、今日限りでやめさせて頂きます…』


活動中に意識を失った訳ではなく、通勤途中で起きた事故だったので、これが活動中に起きると…と、施設長も理解下さり、2週間の活動を終えました。


スタッフや利用者さんには、施設長から話してもらう事になり、私はそのまま、その日の活動を終え、2週間の特養での、活動に終止符を打ちました。


さよなら。
ありがとう。


この特養で、私は人間として多くのものを吸収し、ほんの少し成長した自分をみました。



【2006/11/06 23:04 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
はじめて、面接に行ったのは、特別養護老人ホーム(特養)でした。センターから渡された施設の地図を片手に、面接の日、私はひとりで、向かいました。
たどり着いた特養の、建物は5階建て。緊張と不安でいっぱいの私は、意を決して、門を潜くぐりました。


私『すみません。ボランティアのRessarですが。』
事務「あっ、ボランティアで面接のRessarさんですね。今、担当者の者が来ますので、お待ちください。」


と、言われ、待っていると、すぐに責任者の方が走ってこられました。


責任者「Ressarさんですね。はじめまして。私がここの責任者の○○です。こちらへどうぞ。」


と言われ、ロック式のエレベーターの前まで来ると、責任者の方は、


責任者「ここのエレベーターはすべて、安全のためロック式になっています。番号は○○○○。覚えてくださいね。でも、職員はすべて非常階段を使う事になっています。出来るだけ階段で来られてください。」


ボランティアは、職員同様に扱われます。責任者の方には、私の病気が伝えられてはいるはずですが、特別扱いを受けたくはなかった私は、責任者の方の言われるまま、階段で行こうと決心していました。
それがそもそもの、間違いでした。


責任者の方に連れられた面接ルーム。
そこで、私は色々聞かれることになります。


責任者「ボランティアセンターの○○さんから、聞いてはいますが、ボランティアをどうして、したいと思ったのですか?」
私『自分が生まれたときから、病気で、今まで多くの人に助けられました。だから、その恩を何かの形で世に返そうと思ったからです。』
責任者「病気は、なんですか?」
私『先天性多機能低下不全症候群という病気です。日本では初めての症例で、世界でも珍しい病気といわれています。』
責任者「どういう病気ですか?」
私『簡単に言えば、全身を侵す病で、進行性の病気です。いずれ歩けなくなり、動けなくなり、喋れなくなると言われています。だから、動ける今に、出来る事をやっておきたいのです。』
責任者「こちらで、どのような事に注意すればいいですか?」
私『感染症に非常にかかりやすいので、施設で流行性の風邪や病気が流行っていたら教えてください。出血すれば止まらないので、針を使う作業は出来ません。食事も制限があるので、お弁当を持参するので、提供はいりません。それ以外は、何の配慮もいりません。自分自身で管理していくので、特別扱いはしないでください。』


施設側に、配慮してほしい事は、たくさんありました。階段は、上れないからエレベーターを使わせて欲しい事、重い荷物は持てない事、歩行が不安定になる事。でも、それらを言ってしまえば、何の活動も出来なくなります。はじめに、すべて言ってしまうのは、向うの注意を掻き立てるだけだと、それ以上何も言いませんでした。


責任者の方は、黙ってうなずき、スタッフルームに連れて行きました。


責任者「ここがスタッフルームです。Ressarさんのロッカーは…ここね。あと、注意事がいくつかあります。携帯電話は電源を切って下さい。金属類は外してから活動に入って下さい。時計も指輪もアクセサリー類も、外してください。それから、来るときに一階の手洗い場で手洗いとうがいをしてから、ここに入るようにしてください。」


と、いろいろ言われ、スタッフたちに紹介してくれました。


責任者「この前話したボランティアのRessarさんです。明日から来てもらいます。皆、よろしく。」
私『ボランティアとしてお世話になります、Ressarです。よろしくお願いします。』


週5日、月・火・水・金・の午前9時から午後5時まで。土曜日だけは、午後1時から5時までの活動になりました。


そして、次の日から、活動が開始されたのです。


センターから2つの施設から受け入れを頂いたとの事で、この特養と、もう一つ。在宅サービスステーションM、ディサービスにも面接に行きました。
Mの面接当日。私は不整脈発作が持続し心臓が痛みだしたので、母に付いて行ってもらいました。


Mの責任者の方に言われた言葉が、今も忘れられません。


M責任者「私たちは、いのちを預かっています。」


その言葉は、私がこれからボランティアをしていく上で、支えられ、背中を押された言葉となり、私の中でずっと、響き続かれる言葉でした。


Mディサービスでは、2階での活動になり、活動日は特養が入っていない、週1の土曜日の午前中だけの活動となりました。このMディサービスで出会ったスタッフや利用者さんとの関係が、私の人生に大きな影響を与える事となりました。

【2006/11/06 22:55 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
センターの面接から5日後。週一回の定期外来がやって来ました。


Dr.『こんにちは。この間はごめんね。叱ってしまって。』
私「あたし、ボランティアする事にしたから。」
Dr.『えっ・・・』
私「先生ごめんなさい。もう、面接行ってきたの。来週からボランティアをするに為に研修があるの。2週間、土日以外毎日あるの。」


先生は、あっけにとられ、無言でした。
取りあえず、他の患児も待っているので、診察し、いつものように点滴するための部屋で4時間過ごしました。


点滴中、外来が終わった主治医が部屋に来て、話しこみました。
センターでの面接での事。母の言った事。両親の想い。私の想い。そして、先生の想い。
その頃は外来は、一人で行っていたので、母は送り迎えだけだったので、先生と2人っきりで話し合いました。


Dr.『もう、面接にも行ったんなら、僕が何と言った所で遅いね。君は自分で何でもする子だから、やるとは思っていたけど・・・』
私「ごめんね。先生。でも、ボランティアする事で今の自分を変えられると思うの。危険だとは思ってるけど、あえて、やる事にしたから、今は黙って見守ってくれない?自分の身体は自分が良く知っているから。無理はしない。約束する。」
Dr.『言うと思ってた。Ressarちゃんが決めた事なら、僕は何も言えないよ。』
私「ありがとう。」


決めたら、突き進むべし。
幼い頃から、私はそんな子どもでした。
思っているだけでは、前へ進む事は出来ない。行動あるべし。


翌週から、週5日2週間の研修期間がセンターで始まりました。
母は、毎日自転車の後ろに、私を乗せ、雨の日も風の日も通ってくれました。両親に、迷惑はかけたくない。でも、私の中でボランティアする事はもう、堅く決心していました。


研修時間は1日3時間~4時間。土日や平日と分かれていたのですが、私は平日の昼間2時から6時までのコースを選びました。ただし、週一の外来の日は、お休みしました。
研修内容は、介護と病気の両面の技術と知識でした。
心肺蘇生術も教わりました。
研修時間は、母は部屋の外で、あるいは一度家に帰り、終わりの時間になれば、また迎えにきてくれる、というパターンでした。


研修で、私の他に7人の研修生がいました。
福祉関係を目指す学生さん。主婦の方。専門職に就いている方。
春休みだったので、学生さんの参加が多かったです。


介護の時間では、高齢者の心理についても学びました。
そして、関わる時は同じ目の高さで。という当たり前の事も、1つ1つ学び、吸収していきました。
車椅子1つ押すのも、大変な技術がいる事。そして、人と関わる事には、いつだって『責任』が問われる事を、教えられました。
ただ、人の役に立ちたい。自分がこれまで多くの人から受けた恩を、動ける内に世に、返したい。そんな中途半端な想いで、ボランティアをしたい。と思った私は、この2週間の研修の中で、人と関わる難しさを知り、また、責任とプレッシャーが付きまとう事を知りました。


甘い考えでは、務まらない。


ボランティアは、自己の自由の思想と意思の下、行う事であり、無償だからと中途半端で関わるものではない。


私が、研修期間中、学んだ事です。


一方で、センターの担当者の方は、私が研修をしている間。
各介護施設や養護施設、各ボランティア団体に問い合わせ、受け入れを頼んでくれました。
けれども、研修生の皆は、次々と受け入れ先が決まって行くのに、私は最後になっても、決まりませんでした。答えは、決まってる。
重度の障害があるから・・・。
そりゃ、そうですよね。難しい病気を抱え、活動中に何かあったら、施設側の責任も問われてくるのですから。受け容れ側も慎重になっていたのは、言うまでもありません。


研修期間が終わりに指しかろうとしていた頃。
担当者の方から電話が入りました。


担当者『見つかったよ!!』
私「えっ?」
担当者『受け入れ先が見つかったよ!今ね、2つの施設から面接したい。と連絡が来たよ!』
私「本当ですか?」


他の研修生たちは、受け入れ先が決まったら面接なんてせずに、そのまま活動に入ります。しかし、私は特別に施設側から、面接を言い渡されました。ふつうの人と、病気を持った人との違い。
ここで、私は社会の厳しさを知ることになったのです。
病気を持って、社会に出る事は、そう簡単な事ではない。


私はわずか中一にして、その事を想い知らされました。


受け容れてくれるように、何度も断られながら、それでも微かな希望に託して、あきらめず、問い合わせてくれた担当者の方に、この場を借り、厚く御礼申し上げます。


【2006/11/06 17:02 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
重度の難病を抱えている。
それは、私にとってボランティアを受け容れてくれるのに、大きなハードルでした。
センターに足を踏み入れ、担当者と面接がはじまりました。


担当者『はじめまして。○○と申します。お電話でお嬢さんからボランティアをしたい旨をお聞きし、電話の口調からもとてもしっかりしたお子様ですね。とても中一には思えませんでした。』


担当者の褒め言葉をもらい、本題へ。


母が口を開きました。


母『私たち両親はこの子の意思を尊重したいと思っています。けれども、この子は普通の身体ではないのです。先天性多機能低下不全症候群という病気があります。色々な疾患があり、重度の心臓病もあります。血液の病気もあって、出血したら止まりません。走る事も出来ません。日々の日常生活を送るだけでも精一杯なのです。』


担当者の方は、黙って母の話を聞いていました。


母『ボランティアをする事を否定しているのではありません。ただ、この子の身体にとって大きな負担になる事が予測されるのです。今までも何度も心臓が止まりました。意識をなくすのも時間の問題なのです。娘は進行性の病気です。いずれ歩けなくなり、動けなくなると言われています。娘も良くわかっています。学校も行けていません。お医者様からストップがかかっているのです。そんな身体で・・・と思われるかも知れませんが、娘は今まで自分が受けた多くの人の恩を、何かの形で世に返したい。と強く思っています。娘が行きついた場所が、ボランティアなのです。難しい事は承知していますが、どうか娘の想いを叶えてください・・・』


母はそこまで、一気に言うと、フーと息を吐き出しました。
その母の目には、涙が溢れ、どれだけ母が私の事を想っていたのか、知り、母の想いに感謝すると共に、ボランティアをする事で両親を心配にさせるのならば、果たして自分の世に恩を返したい。という想いは、間違っていたのかも知れないと想いはじめました。


担当者の方は、母の言葉を真摯に受け取って下さり、私と母の方を向いて、話しだしました。


担当者『事情は分かりました。Ressarさんの思いは、素晴らしいものです。出来る限り、お力にならせてください。受け容れてくれる施設が見つかるように、私も全力を尽くします。』


と、心強い言葉を頂き、詳細を決める手続きをした後、担当者は私と話をしてくれました。


担当者『電話でも少し聞いたけど、どういうボランティアをしたいですか?』
私「お年寄りのボランティアとか、病気の子どものボランティアとか。」
担当者『分かった。Ressarさんは難しい病気と闘って、人の痛みが分かるんだね。そのRessarさんの思いを沢山の人に分かってもらえるように、僕も協力させてね』
担当者『介護施設や病気の子どもに関わるボランティアは原則、2週間の研修期間があるんだ。車椅子を押す技術とかも必要になってくるからね。それでも、いいかい?』
私「うん。」


翌週から、センターでの2週間の研修が始まりました。
そこでも、私は色々な事を学ぶ事になるのです。





【2006/11/06 16:14 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
中一の時。病魔は進行し、私から出来る事を次々と奪って行きました。
その頃、ちょうど自分を見失い、私は自暴自棄となった。
自分を、見失いました。何もかもが嫌になった。夢に向かい突っ走ろうとしていた矢先の出来事だった。
私は、進行し出来なくなって、後悔するより、出来る今に、出来る事を、したい事をしようと思い、ボランティアの道へ進む事になりました。
ある外来で、免疫・呼吸器主治医にボランティアをしたい。と申し出ました。


私「ボランティアしたいの。」
Dr.『えっ?!』
私「だから、ボランティアしたいの。」
Dr.『何の?』
私「介護施設とか色々。」
Dr.『冗談やろ?』


難病の私が、日常生活を送る事で精一杯だった私が、まさかこんな事を言い出すとは誰も、思っていなかったのでしょう。その場にいた主治医はじめ、担当医も看護師もとても驚きました。


私「ね?いいでしょ。」
Dr.『本気なの?』
私「うん。」
Dr.『自分が何を言っているか、何をしようとしているか、分かってる?』
私「馬鹿じゃないんだから、それくらい分かってる。」


主治医は、フーとため息をつきながら、こう続けました。


Dr.『Ressarちゃんはとても外に出る事は出来ない。医師として断固反対する。』
私「分かってる。でも、進行してこのまま出来なくなる事を黙って見てろって言うの?進行して動けなくなった時、このままだと私は絶対、後悔する。だから、危険だとは分かっているけど、やってみたい。学校も行けなくて、このまま社会に出て行く事も不可能なら、せめてボランティアとして世に今までの恩を返したい。例え、それで自らの寿命を縮めたとしても、それは私が望んだ事だから。」


断固として首を縦には振ってくれなかった主治医。
でも、彼は私の意思を尊重してくれました。


Dr.『分かった。君を長年診てきているから、君が自分で決めた事はなかなか曲げない事も知っている。でも、医師としては許可は出来ない。僕は君のいのちを守る責任があるんだ。』


先生の気持ちは分かってた。許可できない事も。
だけど、私の中ではもう、誰になんと言われようともする。と決めていました。
その日は、これでおしまい。


次の日から資料集めに入りました。
図書館でボランティアに関する本を集め、インターネットで資料を集め、読み漁りました。そして、ボランティアセンターというものがある事を知ったのです。
翌日、さっそく母が出かけている時に、ボランティアセンターに電話をして見ました。


私「あの、お忙しい所申し訳ありません。ボランティアをしたいんですけど。」
担当者『はい。お名前と年齢。どのようなボランティアをご希望ですか?』
私「Ressar 13歳です。介護とか病気の子どもに関するボランティアをしたいのですが。」
担当者『13歳!!中学1年生ですか?』
私「はい。」
担当者『それは、それは・・・。偉いですねぇ!』
私「・・・」
担当者『分かりました。詳細は面接時にお伺いします。センターに来て頂く必要がありますが、いつごろなら来れますか?』


そういうやり取りをして、日取りを決め、後日ボランティアセンターに行く事になりました。
その夜。両親に本格的にボランティアをしたい旨を伝えました。


私「話したい事があるの。」


弟が寝付いた深夜。
両親にこう、言いました。


私「ボランティアする。」
父『はっ?!』
私「聞こえなかった?ボランティアするの」
父『お前何言ってんの?』
私「だから、もう電話したの。ここに。で、面接の日取りも決めたの。」


私から手渡されたボランティアセンターについての資料を、両親はまじまじと見つめていました。長い長い沈黙が流れました。
何分、何十分経っただろうか。何時間にも思える、長い長い沈黙でした。
そして、母が口を開いた。


母『分かった。あんたの好きなようにしなさい。』
私「ありがとう、おかあさん。」
父『お前何言ってんねん!こいつ何しようと言うんか分かってんのか!』
母『Ressarがしたいと思った事をすればいい。あたしは応援するよ。』


父は、それ以上何も言いませんでした。


母『でも、ボランティアセンターの面接はおかあさんも一緒にいくよ』
私「うん。」


その夜は、両親への葛藤と母の優しさと、父の想いが伝わり、ぎくしゃくした思いで眠りに付きました。


後日センターでの面接日。
母の自転車の後ろに乗り、向かったあの日。
緊張と戸惑いと、両親への思いで、眠れなかった前夜。


そんな複雑な思いを抱え、センターの扉をくぐった。
それが、全てのはじまりでした。



【2006/11/06 15:45 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
orange事件
中学生の時の入院中の出来事。
中2の終わり。私は、検査の為、入院する事になりました。
小児病棟に空きがなく、無菌室も一杯で、仕方なく成人内科病棟に入院する事になった時の事。
ある同室のおばあさんがいた。その人は、リウマチで手の動きに制限があり、ほとんどの事を周りの介助なしでは、出来なかった。
毎朝、朝食のトレイにオレンジがついてきました。
でも、おばあさんは、手の動きが制限されるため、一人で剥けません。
その頃の私はまだ、動けていたし、身体はめちゃくちゃだったけど、まだ今よりは、マシだった。
だから、私は毎朝そのおばあさんのオレンジの皮を剥いて、トレイに食べやすいように、置いていました。それが、私の日課だった。
おばあさんから、『ありがとう。』と言われるのが、嬉しくて。
でも、入院中再発し、手の動きが思う様に行かず、段々、おばあさんのオレンジの皮を剥くことが出来なくなった事はおろか、自分自身の身の回りの事さえ、出来なくなった。
ある日。おばあさんにもう、オレンジを剥く事が出来なくなった事を話しました。すごく、辛かった。自分の事よりも、そのおばあさんのオレンジを剥くことが出来なくなった事が、私の中でずっと後悔する事になったのです。
おばあさんは、優しくこういった。

『そんなん気にしいな。あんたはあんたのやる事があるんや。わたしの事は気にせんと。皆、しんどうなって、ここにおるんや。あんたが謝る事あれへん。』

おばあさんの、優しさが、温もりが、余計に辛かった。
どうせなら、責めて欲しい。『どうして、剥かれへんねん!』って怒鳴って欲しい。優しくされれば、されるほど、出来なくなった自分が非力のように感じた。

翌日、おばあさんの食事のトレイにオレンジがそのまま乗って、下げられていたのを見ました。
ベッドで泣いた。わんわん泣いた。
看護師さんが心配して、『どうしたの?』と声をかけて下さる方もいた。でも、先生も看護師さんも、再発して動けなくなった事を泣いているのだと勘違いしていた。
そうじゃない。私が泣いているのは、あのおばあさんのオレンジの皮が剥けなくなった事。私の変わりに、誰も剥いてくれる人がいなかった事。
同室の人は、私以外、皆動ける方ばかりだった。一人くらい、おばあさんのオレンジを剥いて上げる事だって出来たのに。

どうしてですか?どうして誰も剥いてくれなかったのですか?
どうして、知らん顔するのですか?
そんな、何分もかからないでしょう。
オレンジ一個の皮を剥くくらい。ほんの少しの時間があれば、出来る事です。なのに、看護師さんも、看護助手の方も、同室の方も、皆、見て見ぬふりをした。

私が、動けたら。私が、再発さえしなければ。
これからも、続けていけたはず。オレンジの皮を剥くくらい。

たまりかねて、さりげなく看護師さんに言って見た。
そしたら。

『だったら、食べなきゃいいじゃん。』

オレンジを食べ無くったって、死ぬわけじゃない。病気が良くなるわけじゃない。
でも、あのおばあさんの気持ち。考えた事ありますか?
少しだけでも、ココロに寄り添った事ありますか?
悲しかった。誰も、あのおばあさんの気持ちに気づいてあげれてないのが。日々の業務に追われて、一番肝心な、『患者の心に寄り添う事』が出来ていない臨床の現場に、目の当たりにし、とてもやりきれなくて、悲しくなった。

そのおばあさんは、息子さんに引き取られ、在宅に戻られました。
最後に、あたしに言った。

『あんたがみかん剥いてくれた事。すごい嬉しかったんやで。ありがとな。あんたはまだ若いさかい。こんな病気に負けたらあかんよ。あんたの優しさがほんま嬉しかった。』

と言って、帰られていきました。

あのおばあさんに、もう会う事はありませんでした。

たかが、オレンジ。されど、オレンジ。
この事件は、入院中の切ない事件でした。

いまの季節。オレンジを見るたびに、あのおばあさんの事を思い出します。

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【2006/11/05 13:32 】 | 過去の入院日記 | コメント(1) | トラックバック(0) | page top↑
祖母への想い
祖母の事を書きます。
私にとって、祖母は、とても重要な人生において、いろいろな事を教えられ、感じさせられた人生にとって、最愛の人です。

私は、おじいちゃん・おばあちゃんっ子でした。
母方の祖父母は、目と鼻の先。といういつでも、会いにいける環境にいました。幼い頃の私は、自宅で過ごすより、病院から戻った後は、しばらく祖父母のうちで過ごす。という事が当たり前の日常でした。

長い入院生活で、いつも母が付き添っていた。
その母の疲れを取るためにも、祖父母の家で私を皆の手で、育ててくれたのは、そんな祖母の優しさ。だったのかも知れません。

私はおばあちゃんが大好きだった。
いつも、心配して、私を可愛がってくれました。
食欲がない時、おばあちゃんが握ってくれた鰹節のひとくちおにぎり。
とっても、美味しかった。

病院にも、付いて来てくれたり、母の具合が良くない時は、祖母が入院中、付き添ってくれました。
そして。
私が入院するたびに、両親が付き添う度に、弟を見て育ててくれたのも、祖父母でした。

祖母に助けられた想いもあります。
中学生だったある日。
いつものように、ひとりで外来に行って、点滴を受けていた時の事。
急に不整脈の発作が出て、突然激しい頭痛が生じ、苦しくなりました。
その時に、ちょうど祖母から携帯に電話がかかってきました。
いつも、病院にいると、祖母からの電話があります。
『だいじょうぶか?』
いつもの通りの声。私は、しんどい事を伝えました。
そして、切った電話。電話を持つのも、辛くなり、話していられる事が出来なくなったのです。
そして、その後、すぐに事務の方が様子を診に来てくれました。
いつもは、そんな事はありません。点滴が終われば自分で処置室に行って、抜いてもらうのです。
そんな時。どうして事務の人が来たんだろう。と思っていました。
事務の方は『しんどい?』と心配してくれ、看護師をすぐに呼んでくれました。そして、その後、当直の先生もかけつけてくれ、不整脈に対する適切な処置をしてくれ、いのちは取りとめました。
病院から、家族に電話が入り、急いで母が迎えに来てくれました。

早急な対応で、大事には至らなく、不整脈が治まったところで、自宅に帰してくれたわけですが、母の自転車の後ろに乗りながら、ふと
『どうして、しんどいのが分かったのだろう。』
『あの部屋、盗聴器で、私がおばあちゃんと電話で話しているの、聞こえたのかな・・・』
と本気で、思っていたのです。

後に、それが祖母の連絡によるものだと知りました。
あの電話を切った後、祖母は心配になり再び病院に電話をかけてくれていたのです。
『しんどそうやから、診に行ってほしい。』
と事務の人に頼んでいた事を、知り。
涙が出ました。祖母に、助けられたのです。
祖母のやさしさ、思いやりが身に凍みて、感じた出来事でした。

もし、あの時。
祖母から電話がなかったら。
もし、あの時。
祖母が病院に電話を入れてくれなかったら。

急激に悪化しやすい私は、恐らく意識を失って、心停止を来していたのに違いありません。
そう思うと・・・。ぞっとします。

祖母は、私をいつも心配してくれました。
とっても、大切に可愛がられ育てられたのです。

歩けなくなった今。
祖母に会いにいけなくなりました。
動けなくなった今。
祖母の顔をみることが出来なくなりました。

でも、今でも毎日。祖母からの電話があります。
『だいじょうぶ?しんどくない?』
その祖母の思い。祖母からの電話。
電話の受話器を持つ事も出来なくなった。
聴力も聞こえなくなった。
声も、長く出せなくなった。

でも、私は今も、あの時の事を忘れないでいたい。
忘れられない。

そんな祖母も。ある日を境に、倒れた。
4年前腰を痛め、寝たきりとなった祖母。
当時、まだ動けていた私は毎日祖母の介護をしに、通った。
時に、泊まりこんで介護をした。
祖母が入院すれば、毎日お見舞いに行った。
私が、祖母にしてあげられる事は、こんな事しかなかった。
祖母が私にしてくれた、たくさんの恩を。私は祖母に、返しきれていない。
介護ボランティアをしていた経験を活かし、祖母に介護を提供した。
そんな、私も、今は介護をされる側となった。

祖母は、リハビリをがんばり、一人で歩けるまで回復した。
『また、孫と走りたい』という元来の強さを多いに発揮し、走るという願いは叶わなかったけれど、歩けるまで回復した事は、医師も驚くばかりだった。
寝たきりとなるまで、私を自転車のかごに乗せて、走ってくれたおばあちゃん。
通院に、リハビリにも、ついって行った。
そして、帰りには。高いお寿司を食べに連れてってもくれた。
病院帰りに、美味しい物を祖母と、食べに行くのが、楽しみだった。
母に内緒で、いろんなとこ、2人で行った。
楽しかった、あの頃。
懐かしい、あの頃。

でも、今は。私の日常を、精一杯生きる事。

おばあちゃんが言った。
『もっとおばあちゃんが元気になって、Ressarのとこ行ったる!』
と、元気づけてくれた、おばあちゃん。

何も、して上げる事。出来なくてごめんね。
おばあちゃんの、事。大好きだよ。
いつも、お小遣いくれて、ありがとう。
いつも、心配してくれて、ありがとう。
いつも、想ってくれて、ありがとう。

おばあちゃんが、1日でも元気で長生き出来るように。
私も、がんばるからね。

ありがとう、おばあちゃん。

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【2006/11/04 14:15 】 | 想うこと | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
終わりのない病気
いつまで頑張れもいいの?
いつまでこのままでいなきゃいけないの?
いつまで…?

しんどいの。とっても。
だけど、それを、言葉にすること出来なくて。
周りに言う事、出来ない。

よく、言われる。
『病院、変わったら?』
『入院したら?』

でも。そんな簡単な事言って。
あなたは、何も知らないから、そんな事言えるんだよ。所詮、他人だから。私が、ここまで、どんだけ必死で、歩いてきたか。あなたに、分かりますか?
私の人生の一部しか、携わっていない、見つめていない、あなたに、言われたくないのです。

私が、病院を変わるという事。
それが、どんだけ、いのちがけである事なのか。
あなたは、知らない。だって。あなたは。私ではないから。どれだけ、しんどい姿を見せても。あなたは、所詮あなたであって。私ではないから。本当のしんどさは、痛みは。分からないのです。
長年、診て来てもらった病院。先生。
生まれる前から。生まれた時から。診てもらっている病院。中には、主治医も担当医も、看護師も。外来も病棟も、どんどん変わって。知っている人も少なくなった。でも、あの病院には思い出があるの。あの病院で私は育ったから。設備が整っていなくても、大きな病院でなくても。あそこで、私は育ったの。
あなたが、知らない時間、時を、私はあの場所で。
仲間と、親と過ごしてきたの。

『もっと、大きな病院に。ちゃんとしたところで診てもらいなさい。そしたら、治るから』
と周りから言われ。転院も真剣に考えて。
病院も、本気で移ろうと思っていた。だけど。セカンドオピニオンをどれだけ、とっても。言われる事は決まって同じ。
『多機能低下不全症候群って…なんですか?』
こっちが聞きたいよ!
『前例がないし、あなたの病気は進行性だから、出来る今に、好きな事をしなさい。出来なくなった時に後悔しないように。』と言われ、病院から追い出されました。
『治る事はない。ここまで生きてこれたのが不思議です』
そう当たり前のように、言われて。私は、この世の絶望を、感じました。

どうして向き合ってくれないのですか?
どうして、見捨てるのですか?
すがりたいのです。どうか。
助けてください。
見捨てないでください。
見放さないでください…。

そんな私の、想いは、願いは、届かなかった。

『いつ何があっても、おかしくない状態なんです。お家で、出来るだけ長く今の生活を続けさせてあげてください』
心停止して、意識をなくして、運ばれても。
集中治療をやった後は、まだ状態が落ち着かないうちに、在宅に帰されました。
『ここにいても、もうすることはないんです。』
『我々に出来る事は、もう何もありません。後は、残りの時間をご家族で過ごしてください。』
感染症への抵抗力がまったくないにしても、病院は、入院させてくれませんでした。

こんな難病な患者を。重度障害者を。
回復が望めない患者は、排除し、ベッドの回転率を挙げるため、必要最小限しか入院も出来ませんでした。

中には、良き医師もいて、私の精神が不安定な時は、精神の安定を保てるまで、その場所として。緊急避難入院をさせてくれる事もあった。
そんな。信頼できる医師と出会えたのも、この病院なのです。
ここには、いっぱいの優しさと。温もりと。思い出があって。簡単には、サヨナラできないのです。
もっともっと大きな病院に行って、設備が整ってる病院行って、この病気が治るというのなら、喜んで行きます。思い出なんかも捨てて、行きます。
でも。そうじゃないんです。
私の病気は、治る病気でも、良くなる病気でも、リハビリをして再び機能が戻るような病気でも、ないのです。
あなたは、それを、分かってはいますか?
軽々しく、言わないで。
今まで、医療から見放されてきた想い。
見捨てられてきた想い。あなたに、何が分かるというのですか?

私は、あの病院を、愛しました。
先生を、信じました。
治療がなくても、必死で私のココロに、寄り添ってくれた彼らがいたから、今の私がいるのです。
そんな、彼らとの築き上げてきた信頼関係の土台は、誰にも踏みにじる事、この域に入ってくる事は、許されません。

いつまで、頑張ればいいのか。分かりません。
だけど。
終わりのない病気を抱え、それを機に見えた事を、私は、伝えていきたいのです。残しておきたいのです。

静かに、今を生きたいのです。
もう、何も期待はしないと決めたから。
それは、あきらめでもなんでもなく。
ただ。
今を生きるために、必要じゃないものを捨ててきただけの事。
今を生きるために、きょうをあすに繋げていくために、邪魔なものを、排除していくと、誓ったのです。
そうしないと、私は前へ進めません。


医師と対立する事もある。
医師も人間。患者も人間。
ある病棟医が言った言葉が忘れられない。

『治らない患者の病室には、行きにくくなる。』
『申し訳ないと想いながら、正直気持ちの重荷となり離れてしまう。』

という言葉を、想いだします。
医師との信頼関係も所詮。人間関係のうえで、成り立っている事だけど。そこには、生命への責任と、ひとりの人間の、人生が係っている事を、忘れないでほしい。

医療の限界を知ってしまったから。
医療の厳しさを知ったから。
医療のあいまいさを、みてきたから。
医療の実態を、目の当たりにしてきたから。

医療から、見放され。
見捨てられる辛さ。無念さ。やりきれなさ。憤り。
いろんな感情を抱いて。私は、ここまで生きてきた。
この小さな胸で。
誰にもいえず、たったひとりの胸の内で。
いろんな事を感じ、いろんなものを見て。

もう、見捨てないでください…
もう、見放さないでください…

望みがなくても。
どうか。どうか。どうか。
治療を…続けてください。

あの時の周りの厳しさは、まだ可能性があったから。
でも今。すべての優しさに、不安になってしまうのです。

私は、生きている限り。
この『終わりのない病気』と闘い続けるのです。

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【2006/11/03 00:40 】 | 病気 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
久々の景色
今日、病院から自宅へ戻る救急車の中で。
車内の窓から。見えた青空。
久々の景色が。何とも嬉しくて。
左手も自由に動く事が出来れば。
写真を、パチリと撮ったのに。
今では。それも出来なくて。
ただただ。PHSのキーを打つだけで。PCの操作をするのも時間の問題。

窓から見える、外の景色をみていると。
ふと、あの時の事を、思い出すのです。

5歳のころ。初めて。外に出たあの時のことを。
無菌室から、決して出られなかった幻の外。
その外に。初めて父に抱っこされながら、出た外は。
とっても、心地よく。肌に当たるそよ風も。気持ち良くて。

いつも病室の窓から眺めていた外の景色。
日中はずっと。ブラインドを下げられていて。
お医者さんから。
『絶対に昼間は、ブラインドをあげてはいけないよ』
と言われていた。
幼かった私は。その言葉を忠実に守って。
先生の言う事を、守っていた。
だから、私の見ていた景色は。
ネオンが光る街ぼ光景。月が出て。
あたしの、ココロを灯してくれていた。

紫外線に当たる事が出来ないから。
ブラインドはあげてはいけないのだと。
幼心にも、それは、植えつけられていた。

無菌室から出られない中。
あの日。見た景色は。
どこか新鮮で。私に感動と勇気を与えてくれた。
はじめて見た。昼間の世界。
『わぁ~』と目を輝かせて。
太陽がまぶしくて。

それでも。お外に出るときは。
紫外線カットクリームを塗られければならなくて。
短時間の外出。
体力もない私は。長時間の外出も許されなかった。

あの日。
父に抱かれて、はじめての明るい空を見ました。
あの日。
父の胸の中で、外の空気を吸いました。

マスクをしていたけれど。
あの時、吸ったはじめの外の空気は。
無菌室に閉じ込められている滅菌された空気ではなくて。
無菌室より、汚くて。細菌もいっぱいで。
なのに。すごく、おいしくて。

空気が、こんなにおいしいと。
外に出る事が、こんなに幸せなことだと。
外には、私が知らない世界が、たくさんあるのだと。
まだ、5歳だった私は。
父に抱かれ、思ったのです。


今日、一週間だったはずのオペの入院にピリオドを打ち、在宅に戻ってきました。
でも、決して良くなったわけではなく。
もう、何もすることは、ないからと。
ここにいても、出来る事は、なにもないからと。
帰れる今に、帰してあげようと。
言ってくれた、外科医の先生。

付き添いの医師に守られながら、病院の中を車椅子で、通ったとき。
ひとりの仲間に出会った。
彼は、気づかなかったのではなかったか。
リハビリに励む彼の姿を、みながらも。
可能性がある彼が、うらやましくて。
リハビリを、続けられる幸せに。
リハビリを頑張れば、歩けるようになると、信じている彼が、ちょっぴり妬ましく、嫉妬してしまった弱気自分。

まだ病院に。
仲間がたくさん入院しています。
この病院にも。違う病院にも。
彼らは、がんばっている。
再び、元気になり、おうちに戻れることを。
だけど、私は先に行くね。
がんばっている彼らを、おいて。先に帰るのは、後ろめたさもあり、後ろ髪を引かれる思いだけど。
先に、いくね。先に、帰るね。

ここに、私の居場所はないから。
ここにいても、私の病気はよくならないから。
もう、することは、ないから。

決して。あきらめたんじゃないのよ。
がんばって、良くなると信じていたけれど。
病気も、神様も。
私に味方はしてくれなかった。

先に、帰るね。
あの日。見た。景色と同じだった。
12年前、父に抱かれて、見た景色と同じ空。

ここまで、生かせてくれて、
どうも、ありがとう。

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【2006/11/02 19:44 】 | 日々の日常 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
はじめまして。
はじめて書いてみた、Blog☆
はじめまして、の皆様。
こんにちは、の皆様。
レッサーです☆って、ここだけの秘密のHNだったりして。

このBlogは、私の昔の入院中の出来事や、日常の中で、想った事などを自由気ままに綴っていくBlogです。
感傷や同情は…やめてね。

日本で初めての症例。
『先天性多機能低下不全症候群』という稀少難病。これが、私のすべてを奪ってきた病気。私から夢を奪い、歩く事を奪い、立つ事を奪い、動く事を奪い、そして。自由を奪ってきた憎っくき病気。
でも。同時に。得たものもあるのも事実。
学校にはいけなかったけど、友達はたくさん出来た。
走る事は出来なかったけど、心の両足で、歩いていく事は出来た。
病気は。私から奪ったものが多かったけど、得たものも多かった。
動けなくなった今。車椅子になった今。寝たきりになった今。私に残されたのは、書くという事。動かない右手。動かない両足。残された左手も。いつ再発してまた、動かなくなるかという不安がつきまとい、書く事が出来なくなったら。私の居場所がなくなってしまうようで。
私自身を表現する場がなくなってしまうようで。
自分の感情と、自分の心と向き合うために、私には、書く事が必要だった。
誰かに向けた言葉でも、誰かに宛てた文でもない。
ただ。私が生きていく過程で。私自身が。成長する場として、書く事が必要だった。

原因不明で。治療法もなくて。胎児期に死亡すると言われていた私。例え生を受けても、長くは生きられないと。1週間、1カ月、1年持たない。と言われてきた。そんな私が。
もうすぐ17年の誕生日を迎えようとしています。

奇跡なんて言葉。
安易に使いたくはないけれど。
現に今。生きている事事態が、『軌跡』であって。
生まれた事に、感謝しなきゃいけない。
病気になって、良かったとは絶対に思えないけれど。
病気だったから、出会えた人たち。たくさんいる。
病気だったから、学んだ事。知った事。それは。すべて。
私の人生の財産となった。

動けなくても。寝返りも打てなくても。毎日を生きていられる、きょうに。今というこの瞬間を、大事に。私は、私に、出来る事を。精いっぱいの力でやり遂げたい。悔いのないような生きた方を。

何があっても、おかしくない体。いつ何があるか、分からないからだ。
今は、こうして日記を書いていられても。あと、10分後、意識を失うかも知れない。心臓が止まるかも知れない。
そんな病気。と闘って。

私が今日まで、生きてこれたのは。両親の強い愛情と。
仲間の存在と。情熱とやさしさで幾度も助けてくれた医療スタッフの存在。

ひとりでは、生きていけなかった。
ひとりでは、立ち直れなかった。
ひとりでは、向き合えなかった。

神様。
願いを一つだけ。叶えて下さるのなら。
どうか。
歩きたいなんて、言いません。
健康になりたいなんて、言いません。
ただ、私に、時間をください。
『生きる時間』を、ください。

信じてる。
明日がある限り、生きていけると。

生きる事は、辛くてしんどくて。残酷な事だけど。
それもまた。生きているからこと、感じられる痛みであって。
生きてるって、とても幸せな事なんだよって。
生まれてきた事って、それだけで、とても『幸せ』で感謝しなきゃいけない事なんだよって。
知ったから。

私は、いのちがある限り。
生きていたい。生きたい。
そう思うと同時に。
『一人では何にも出来なくて。人の手を借りなければ寝返りも打てない私は。生きる価値なんてあるのか』とも思うけど。
それでも、やっぱり。
生きてるって、いいな。って思うから。

こんな、私は、生きてていいですか?
こんな、弱い私は、存在してていいですか?



親HPもあります。
いのちの再生
(http://hp12.0zero.jp/192/liveharu/)
良ければあそびに、来てね☆
【2006/11/01 00:55 】 | 未分類 | コメント(33) | トラックバック(0) | page top↑
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