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生きるということ

仮死状態で生まれた私にはいくつもの障害があった。
だいたいの事は出生前診断で明かされていたにも関わらず、それらとは明らかに異なる病態が多数存在した。


両親は混乱したという。


しかし胎児診断で早期に発見できた事は幸運だった。もし何も解らずにそのまま生まれていたら、十分な医療を行えず、不十分な体整での出産は私の生命予後を左右したに違いない。
そしてまた、母の生命も脅かされていただろう。
 
生まれた私はとにかく危険な状態だった。
痙攣し、無呼吸発作は止まらず、全身チアノーゼ。自力では呼吸すら出来なかった。
425グラムで生まれた私は、全身の多発性骨折をしていた。
種々の検査により実に沢山の異常が見つかった。医師も困惑したと言う。


当時の両親の心境はどんなものだったのだろうか。想像するのは簡単だが、理解には苦しんだ。
なにしろ私は、病児そのものだったのだから。親の苦しみは想像に苦しんだ。
我が子を必死で死から守ろうとする両親の決意と覚悟は、想像をはるかに超えた。
僅か生後数時間での余命告知はどんなにか辛かっただろう。この子が成長するとは思えなかった、
と医師をはじめ皆、口々に言う。


そう、私はいつ死んでもおかしくなかった。いや、胎児期を乗り越えて出生にこぎつけた事さえ軌跡
だったのかも知れない。
 
[お嬢さんは長くは生きれません。]
この言葉を聞くたびに両親は胸が締め付けられたと教えてくれた。
それでも覚悟は出来ていた。お腹の中で重度な障害を抱えていると言われたあの日から。
私を受け止め、受け容れてくれた両親の決意と覚悟は相当なものだった。
どんな想いで私を育ててくれたのだろう。どんな想いで私と接していたのだろう。
知りたいと思うと同時に知りたくないという想いもある。
 
重い心臓病、呼吸器、消化器、腎臓、神経、代謝内分泌、骨、筋、血液、視覚、聴覚・・・
生まれた時から私の臓器はほとんどが機能しなかった。
未熟だったせいもあったが、その後もほとんど機能という機能は果たせていない。


栄養も常に不良だった。
口からは栄養を取れない。摂ってもすぐに吐くか全て消化できないままに下した。
慢性の消化器障害、消化酵素の欠損などで、栄養状態はいつも悪かった。
厳しい食事制限は生涯付きまとう。
病院にいるときはほとんど点滴からの栄養だった。大変だったのは在宅医療に移ってから。
厳しい食事制限の中で、母と祖母は特に気を使った。


 [いのちがあるだけでいい]
父も母も、祖父も祖母もそう願ったという。


 [いのちさえあれば何だって出来るんだよ]
私は小さい時からそう教えられた。しかし、思う。


 [健康であってこそ、何でも出来る]と。
健康でなければ、例えいのちがあったとしても好きな事は出来ない。と。
私には、そう思えてならなかった。


生きるために何かを犠牲にしなければならない。
私の場合、それが夢であり自由だった。
身体が動かない苦しみはなった人にしか分からないだろう。


生きる事に必死だった。私も両親も。
今日を生き抜くのが精一杯で明日の事なんて考えられない。
そんな日々の中、生きていた。


[1歳まで生きれるか保障はありません]
そう言われたあの時から17年。当時の医者も両親もこんなに長生きするとは誰も思わなかっただろう。
今だから言える。あのときの事をもちろん私が覚えているはずはない。
両親や当時を知る医師と連絡を取り、教えてもらった。
当時のカルテも見せてもらった。
胎児診断で早期に異常を指摘してくれた医師、当時治療を行ってくれた医師達の名前すら解らなかった。
両親は医師の名前を覚える余裕もなかったのだ。
今は異動や退職したりして、彼らを探すのは安易な事ではなかったが、どうしても私は自分の生い立ちを
しっかりと確認しておきたかったのだ。
今の主治医や数々の医療関係者、彼のお陰でやっと当時の医師達と連絡がつき、そのときの状況を
詳しく話してもらえた。
当時の医師は私の事を覚えていてくれた。
そして[生きられない]と言われた子が17年の歳月を生きている事にびっくりしている様子だった。
ある医師が言った。[医学は100パーセントではない]と。そして[この世に起こる全ての事に絶対はない]
のだとその医師は言ったのだ。
 
[1歳まで生きられない]
そう告知を受けた子が17年もの歳月を過ごしてきたのは、軌跡だと言っても過言ではないだろう。だが、私はあまり[奇跡]という言葉が好きではない。
医学は[奇跡]で成り立つものではなく、根拠のある元で行われる科学なのだ。しかし世の中では、常識
を覆すものは存在する。私の例をとってしてもそれは明らかなものとなるだろう。
 
多数の世界的な文献の中で、私の疾患の数々は、明らかに生存率が低い。予後も決して良くないもの
ばかりだ。ある文献では2歳までに100パーセントの児が死亡、という文献もあった。
予後を聞いても、どんなに死亡率の高い話を耳にしても、私には動じない心があった。
自分でも不思議でたまらない。死は怖くないのだ。


いつだったか、小学3年生か4年生か非常に死に過敏になった時期があった。
仲間が立て続けに亡くなったせいもあったのかも知れない。
死がたまらなく怖く恐ろしくなり、夜になるのが怖かった。昼間は何ともないのに夜になって、皆が寝静まる
頃になるとフラッシュバックのように死に対してのイメージが強烈になって、悪夢が襲ってくる。
夜になるのが怖かった。いつも頭の中は死のことばかりだった。
仲間の死を自らの死と両親や祖父母の死さえも連想した。何度枕を濡らして眠った事か。
朝起きたときには目が腫れ、顔は浮腫んでは両親や主治医に[腎臓か]と心配されたものだ。
しかし、死と向き合い乗り越えられた時に、自然と死に対しての恐怖はなくなった。
ある意味で根性が座ったのかも知れない。
 
[死は全ての終わりではない。死から始まる物語もあるはずだ]


それが私が出した答えだった。死から始まる物語があってはならないとされる決まりがあるだろうか。
事実、亡くなった仲間たちは今も私の中で生きている、確かに存在している。
目には見えなくとも確かに私の記憶の中で、今も生き続けている。
そう思うようになった時、私の中で死は恐ろしいものではなくなった。
そして全く死を怖く感じなくなったのだ。
それもかなり怖いものである。


まったくの不安や恐れがないと言えば、それは、嘘になってしまう。
けれども、あの頃のただ迫り来る死に、不安に陥っていた頃を思うと、今の私は自分の死に対しての不安より、私の死後、家族はどうするのだろう。生きていけるのか。といった、心配である。
決して強いとはいえない父は、娘の死後、受け入れ、泣き虫な母を支える事が出来るだろうか。
まだ幼い弟は、姉の死を受け入れる事が出来るだろうか。
年老いた祖父母は、生きる希望を、見失わないだろうか。


だから、今は思う。
せめて、祖父母を看取り、叶わない夢だが、両親を看取ってから、自分の死を覚悟したいと。
それが、世間では、「当たり前の順序」と思われがちだが、それが叶わない人もいる。
だが、人間の致死率は100パーセント。いずれ、生きるものは、この世を去る。
だから、自ら死に急ぐことはない。


私は、この世に生きる、ひとりの人として、難病を背負った病児として。
この世に何かを残し、後世の人々に伝え続けていければ、と思う。
そのために、私が私であるために、私は、今日も書き続ける。
それが、私の人生だと、そう胸を張っていいたい。

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【2006/12/29 13:49 】 | 病気 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
良い病院とは?

良い病院とは、どんな病院だろう?と、この頃良く考える。
以前は、的確な診断・治療をしてくれる病院だと思っていた。


的確な検査・診断をしてくれる。というのは、まず第一条件だと思う。
医師とのコミュニケーションにおいて、患者さんの言葉に耳を傾けてくれる医師との出会いが、とても大切だと思う。
診察室に入っても、コンピューターの画面や検査データーばかり診ているような医師は、一人の人間としての患者として診てもらえないような不安な気持ちになってしまう。
患者さんからの症状や生活状況などの言葉は、検査や治療をするうえでも大切な要素だと思うし、信頼する専門の先生に聞いてもらうだけでも、安心感という薬を処方してもらえる。


医師のみでなく、外来においても入院においても、看護師さんやリハビリの先生、ケースワーカー、各スタッフとの連帯も大切だ。
外来の待ち時間などや、入院においての環境も大切だと思う。
良く本屋さんにおいてある、「名医のいる病院」などは、そんなそれぞれも総合的に採点されているみたいだけれど、その本は、医師が何々大学を出ているとか、そういう部分を最重視されているものも多く感じる。
専門医の医師のいる病院というのも大切だけれど、患者になるには医師との関わりだけではない。
慢性疾患など長期に付き合っていく部分では、周りのスタッフとの関係も大切になってくる。


だけど、そのすべてを満たす理想的な病院を探すのも、現実的ではなかったりする。
どこかでそのいずれかの部分を妥協して、自分の一番信頼出来る病院にかかっている。
あたしの今かかってる病院は、高度医療を扱う専門病院だ。いつも多忙。スタッフは忙しい。
もちろん、外来の待ち時間も長いし、入院のベッドも常に満床状態だ。
救急指定病院だから、軽症な患者はいない(むろん急性期疾患が多いから、すぐに元気になる事も多い)。生死をさまよう患者ばかりで、各病棟にICUがあるし、病棟スタッフはいつも走り回っている。


またそこでは、大学病院などでは、「入院してるでしょ?」という患者さんも、ふつうに外来受診または往診している。
点滴しながらタクシーに乗ってたり、もちろん腹膜透析やIVHなど在宅でしている患者さんもおられるし、同じように抗がん剤の点滴も外来で出来る。
あたしには、治療がない。診断がついても、確かな治療は出来ない。
確実な治療法は未だないから。
悪くなれば、「治療してほしい。」といい、入院を勧められれば、「入院はいや。」とわがままをいい。
そしていやいや入院すれば、「入院すれば治してもらえる。」と思っていた。
病院は病気だけを見つけて、治してくれるところだと思っていたけれど、病気と付き合うのは、誰でもなく、患者本人のあたしだということ。
それは厳しい現実かもしれないけれど、よい病院を探し求めていた頃のあたしは、甘えてたな・・・とも思う。


どんな辛い抗がん剤の治療にも、入院したくないと。言った人がいた。
死ぬのが怖くて、痛くて不安なのに、医師も看護師もい医療スタッフのいない、在宅で死を迎えた人もいた。毎日、治療のため、1日の大半を外来の処置室で過ごす人もいる。
何も知らない人は、「入院すればいいのに・・・」と思うかも知れないし、家での医療者のいない設備も整わない、状況・環境では困難な事でもあると思う。
体は辛そうなのに、いつも笑っていて、一人の人間として、患者として、病院との付き合いを誠心誠意している方だな・・・と、思う。


病院との付き合いは、病気にもよるし、個人それぞれの考えだ。
それはそれぞれのもので自由のものだと思う。


けれど、今のあたしは仕方なく、在宅で暮らしているのではない。
満足して暮らしているのでもない。
今日を幸せに暮らそうと、毎朝思っている。


これからのあたしは、病院に全てをお任せする付き合い方ではなく、自分の意思を持って、自分の生活・人生の一部として、そんな付き合い方が出来ればと思っている。

【2006/12/25 12:28 】 | 想うこと | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
障害と人の親切。
障害と人の親切。

障害持って、街に出ると、人の親切に出会います。
時々、声かけられる、

『何か、お手伝いする事は、ありませんか?』

の声がけは。
もしかしたら、“自分でしようと思ってたのに。”といったような。
お手伝いしようと、して下さる方に、断りにくい状況を生んでしまう可能性も、あります。


でも、それはそれで、
「自分で出来るので、ありがとう。」と、はっきりと断ればいい。出来る事ならば。
そして、声かけて下さった側も、
『またお手伝いする事があれば、声かけて下さいね。』
と、ごくさらっと、流せば、いい。


必要な時に、必要な事を、手伝える時に、手伝って頂ければ、嬉しい。


私は、ひとりでは、何も出来ない。
寝返りさえ、満足に打てない中。人の手を借りなければ、それこそ日常生活を送る事は、不可能。
例えば、以前地下鉄に乗って、母とおばと出かけていた時の事。
エレベーターがなく、地下街から下におりる時、傍にいたガードマンさんに、ヘルプを求めた。
すぐに、無線でほかのお仲間を呼んで下さり、男の人3人がかり(うち一人は、かなりご高齢とみられるお爺さん…大丈夫か?と思ったケド。。)で、車椅子持ち上げて、降りて下さった。…は、いいのだけれど。
車椅子の扱い、慣れていらっしゃらないのか、下りの階段を、本来ならば、後ろ向きで車椅子を下さなければならないのに(下りで前のまま、いくと、乗ってる方が前のめりになって、落ちちゃう危険があり、大変危険です。)、そのまま向き変えず、降りるものだから、ひやひやしまくりでした。
母も、叔母も、何も言ってくれなかったし…。まぢ、怖かったです。


下まで降ろして下さった、その中のおじいちゃんガードマンの人が、最後に、

『ごめんなさいね。エレベーターなくて。大変だったでしょう。ご苦労様。ほんとに、ごめんなさいね。』

と、最後まで、丁寧に頭を下げて下さった、そのガードマンの方の姿勢に、心が熱くなり、涙が出ました。


人の親切は、宝なり。
でも、間違った知識を持っていると、危険を伴うことも事実です。
人の親切は、嬉しい。でも、時として、その親切が、仇となることもある。
人への支援って、ほんとに、難しい。
自身、障害持って、そしてボランティアで、たくさんの方々に関らせて頂いた中で。
つくづく、そう思わされるのです。


特に、お年寄りの支援には、難しさが伴います。
基準(何の基準だ?)から言うと、十分“ご高齢者”となる方々にも、「お年寄り」といった意識で、接すると、
『わしは、まだそこまで、老いとらん!!年寄り扱いせんでくれ!!』
とすごい剣幕で、怒られる事…あった。。
彼らにとって、自分の『老い』と向き合う事は、自分の敗北を認めるようで、退化していくその体に、絶望し、向き合う事が出来なくなるケースもあります。
『年寄り扱い』される事を、嫌う高齢者は、実は結構多い。


私は、介護施設等で、いろんな方々と接してきました。障害を持った方も、いらっしゃいました。
そんな時、私は、いつも、こう、声をかけます。
『何か、お手伝いしましょうか?』
その時々で、彼らが求める要求はなんなのかを、いち早く見つけ、なるべく一人一人のニーズや要求に答える。
あのおばあさんは、この時間、お茶飲む時間だから、用意しよう。と、準備に取り掛かり。
長く関る中で、数週間もすれば、利用者さんの求める事が、分かるようになっていた。それは、私の中だけでの、自己満足に過ぎない、ただの憶測に過ぎなかったのかも知れないけれど。


もちろん、お年寄り扱いされる事に慣れてきたのか、あきらめているのか、自分を年寄り。と認めて、素直に甘えて下さるお年寄りもいた。
『ありがとう。』
と笑顔で、言われる度に、うれしくなる。
反対に、「構わんでくれ!」と追い返された時には…
“何か、対応がいけなかったのだろうか。”とショックを受ける。
逆に、「ありがとう。でもこれは、自分で出来るからいいよ。若いのに、気が利くねぇ」
と言われたりもした。
自分の憶測だけで、あれしてあげよう。これしてあげよう。と、親切心で動くのではなく、何よりもまず、本人にお聞きするのが、一番。


『何か、お手伝いする事はありますか?』
そう聞くだけで、
「じゃあ、これやってもらってもいいですか?」
「これは、自分で出来るからいいです。」
と、その時々の答えを、返して下さる。
私は、ボランティアとして介入していく際に、いつも心掛けていたことは、一方的支援にならないように、あくまで利用者さん本人のご意志に沿う。こと。
自分本位の一方的支援になっては、絶対にいけない。


だが、これが、健康な人ならば、どうだろう?
ふと、考えてみた。
例えば、満員電車で、ご高齢の方に、席を譲ろうと、
「ここ、どうぞ。」
と声かけても。
『私は、まだ立てますよ。』
と、断られた時の、気持ち。


『せっかく譲ってあげようとしたのに。遠慮なく座ればいいのに。』
『ちぇっ。』

遠慮なんて、しなくていい社会。
助けが必要な時に、ヘルプする。
必要ない時は、気持ちよく、主張したい。
また、傲慢な譲る気持ちも、ないような。
相手の立場になってみて。
その人の気持ちを、言葉を、素直に受け止められるような。


ほんとは自分で出来るんだけど。
もし断って。
せっかく勇気出して下さったのに、今後、声掛けにくくなってしまい。
今度から、助けが必要な人が、困るんじゃないか…。
そんな事も、耳にした事、あります。

日本人は、やさしいから。
ってのも、良く聞く。



『遠慮して断ってるんじゃないか?』

でも、中には、

『障害者は頼る事に、慣れすぎてるから…。』

という言葉も、よく聞く。

その言葉も、障害者を思っての発言かも知れない。
確かに、人の親切に、ほんとは自分で出来る事も、せっかくの人の好意を無にしてはいけないと、ついつい差し出された手を、受けてしまう事がある。
それは、決して。甘えている訳でもなく。
でも、健常者から見たら、その行為は、『甘え』になってしまうのだろうか?


全て、偏った価値観から、あるんじゃないかな。


障害者には、やさしく助けてあげましょう。
電車の席は、譲りましょう。
とか。
どっかで、習ったこと?


PTOに応じて、考える。その時々。
同じように、障害持ってるからって、車椅子だからって、みんなそれぞれ。
あなたとあたしも、違う。
それって、当然の事、でしょ?

この頃のあたし。

私は、障害という部分において、精神的にも、周りの人の支えになってもらっています。
たぶん、ううん、きっと、独りぼっちなら、ここまで来られなかったと感じています。

だけど、それと同じくらい、『自分でなんとかしなきゃ。』って思いも、持っていて。
時として、助けてもらうべき時に、素直になれなくて、自分を追い込んでいたり。
『出来ない自分』を責め続けていた。


『何か、お手伝いする事ありませんか?』
そのヒトコトで、伝えるきっかけとなる人は、あたしの経験以外にも、たくさんおられると思います。

自分の事は、自分で伝える。
それは、大人社会の基本です。
それを、こんな風に求めてしまうのは、甘えているのかも知れません。

でも、自立性や自主性だけで、人は生きられますか?
人は、一人では、生きられない。

『泣きたい時に、泣ける社会に。』
『やさしい社会に。』

なれば、いいな…。



『もっと自立に向けてがんばれ。』と。
『あなたみたいな人、もっと前向きに、やってるわ。』
あたしの一部分しか知らない人に言われる。
だって、あまり話したことないし…。
何も知らないのに、自分の価値観だけで、物言われるのって、ほんと…つかれる…。
どっかで、テレビや本で、得たのですか…?


あたしは、『車椅子の女性』でもないし。『寝たきりの障害者』でもない。
『寝たきり生活送ってる、一女の子』だと、思ってるし。
あたしは、一障害者だけど、あたしは、あたしという人間です。
って、主張したくなる。。


私は、ここでは、ズバズバ言いたい事、書いてるけど…実際、相手に、言葉として想いを伝える事は、苦手です。相手の事を、考えるあまり、行き違い、すれ違い…揚げ句の果てには、誤解…なんてことも。。
小さい時から、自分の感情を抑え、自分を殺し、怒りさえも自分の内で消化してしまう子どもだった。
過去を振り返り、思う。
自分が、変わらなければならない。
自分はどうなのか?どうありたいのか?どうしたいのか?
いつも、周りには、伝えてこなかったほんとの気持ち。
周りも、言えないあたしに気を使い、どうしてほしいのか?どう支援すればいいのか?と気を使わせてもきた。
伝えなければ、伝わらぬ想い。でも、伝える事で、生まれるモノたち。
伝えれば、伝われば、スムーズに事が運ぶ。でも、伝えれば伝えるほど、他人事の悲しみとも、出会う。


心許して、気持ち打ち明けられる人の前では…、ほっとし過ぎて、。気持ち聞いてもらいたくなって…。
一人よがりに、相手の今の、気持ちも考えず…。
そんな一方通行には、なりたくないから、あたしはいつだって、人との適度な距離、保ってる。
仲がいい医療者とも、一定の距離は、守る。
いくら我が子のように可愛がってもらっても、あたしは、患者。


適度な距離を保ち続けるのは、難しいと感じる今日この頃。。。




【2006/12/23 00:09 】 | 想うこと | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
空への手紙。
今日は、元彼の、命日です。

5年前の今日。
彼は、骨髄不全からの感染症のため、この世を去りました。


彼と出会ったのは、7年前の私が、小4の時。
彼が、中学2年の時でした。
歳が離れていましたが、同じ小児病棟で、私は彼を兄のように、そして彼は、妹のように、大切にお互いの心の中に、住み始めていました。

私たちは、あるきっかけから、付き合いだし、そして。その2年後。
彼は、骨髄移植を待てず、他界。
私たちが一番、嫌う。感染症で、彼の命は、僅か16年で閉じてしまいました。
同じ病気で(急性骨髄性白血病他)共に過ごし、共に闘病し。
同じ時間を、時を刻んでいた。
彼は、私を本当に愛してくれていました。
決して、子どもじみた恋愛ごっこではなかった。
そんな、小学生と中学生で、本物の愛を築けるわけがないとも、思われますが、私たちは、本当に、愛し合っていた。

無菌室での治療が行われた彼は、その後、重症感染症にかかり、ドナーを待てず。
危篤状態が、続いていました。

付き合っている事を知っていた、主治医の先生と病棟師長さんが、面会謝絶にも関らず、私に面会を許可してくれ、集中治療室で、見た彼の姿に、ただただ、涙する事しか出来なかった。
ずっと意識も戻らず、いつ何があってもおかしくないといわれていた彼。
私が近くに行くと、これまで目を覚まさなかった彼の唇が、かすかに動き、酸素マスクを外してもらって、彼の口から、出た言葉が。
あの、
『俺たちは、みんなに自慢できる生き方、しような・・・』でした・・・。微かに、震える声で、でもはっきりと。彼
の言葉を聞き取る事が、出来ました。
そう言った後、ご両親、妹さん、主治医の先生方、看護師さんに見守られ、彼は静かに、息を引き取りました。。

わんわん、泣いた。彼と一緒に逝きたいとも思った。神様は、どうして、私ではなく、彼を先に逝かすのですか?
最期の言葉が・・・私に宛てた言葉だった。
もっともっと、言いたかったろうに。
傍には、あなたが一番大切に想って、心配していた妹さんが、いたのに。

私は、彼のお通夜もお葬式にも、車椅子で、出席していました。
その頃の私も、状態は厳しく感染症の危険があったのですが、主治医の方に無理を言い、主治医の先生同伴で、彼の葬儀に出ていました。

彼のご家族とも仲良くして頂いていたので、どう声をかけていいのか。。
今何を言っても、所詮綺麗事。
他人事の哀しみだと、捉えられたくはなかったのかも知れません。。


彼の四十九日が終わり、一段落付いた頃。
彼のお母様から、一通の手紙が届きました。
そこには、お母様の我が子への熱い想いと闘病期間中の5年2カ月にも及んだ、あの壮絶な闘いの事など、書きつづられていました。
そして、最後に。
『あの子は、貴女の事を、心から愛していました。短い生涯でしたが、貴女という一人の女性を、愛せた事。恋も愛も知らず、逝くよりは、十分幸せだったのではないかと思います。息子を、愛してくれてありがとう。愛せる女性に出会え、私たち家族も、それだけが、救いです。本当に最期まで、あの子を見守ってくれて、ありがとう。』
という文面が、書かれていました。
私は、その手紙を何度も何度も読み返し、涙が溢れてなりませんでした。

一時帰宅が許された2人は、お互いの家に泊りもした。幸せでした。


彼を失い、私は愛する事が出来なくなり、好きと言う感情が、愛しいという感情が、どういったものか、忘れてしまい、人を拒絶するようになりました。
その頃、大好きだった主治医との別れもあり、自分を見失うきっかけにもなったのです。

彼の命日に近づくこの時期は、毎年様々な想いがフラッシュバックし、いろんな想いが交錯していました。今年は、彼の死をきちんと、ここに書こう。
彼の生きた証を、ここにしっかり、刻んでおこうと思い、、書いている今も、本当に辛いのですが・・・
堪えて・・・堪えて・・・書いています。


その1年後、今の愛する人に出会うまで。
本当に好きと言えず、誰も何も愛することなく、私は元彼以外、愛する人はいないと、思っていました。
今の彼に出会ってからも、元彼の事は、忘れる事が出来ず。
今の彼にも大変迷惑もかけ、我がままも言い・・・本当にどうしようもない彼女として、彼にいっぱい困らせてしまったのですが。
彼は、ありのままの私を受け止め、受け入れ、向き合ってくれました。
決して否定することなく。
決して、見放すことなく。
再び、愛しいという感情を取り戻せた事。

また、彼を失うんじゃないかと。不安になった夜もあった。
でも、私は元彼の死を受け入れ、そして、今の彼を心から、愛し。
元彼の死を、決して悲劇の悲しい出来事として、終わらせることなく、私は彼の死を見つめ、彼が一番伝えたくて伝えられないままだった。
自分の人生悔いなく、精いっぱい生きる事を、胸に。


あたしはこれからも、彼の死を背負い、彼の生きた証を見つめ、生きていきます。




勇樹へ
貴方がお空へ旅立っていってから、早くも5年の歳月が経ちました。

今、どうしていますか?

貴方と共に過ごした、2年間。
私は、貴方の事をずっと、忘れた事は、ありません。

あの時、貴方が言いたかった事。
あの時、貴方が伝えたかった事。

私はちゃんと、皆に伝えられていますか?
貴方が生きたくても生きられなかった、無念さを胸に。

私は、貴方の事を思うと、胸が痛くなります。
そして、貴方との思い出を振り返るたびに、涙が出ます。

貴方は、こんな私をみて、絶望しているでしょうか。
今の大切な愛する人を見て、嫉妬しているでしょうか。

それとも・・・ホッとしていますか?

この世で、私は心から、愛する人を、見つけました。
大切な、大切な人を、心から愛せる人に、出会いました。

でも、貴方の事。
忘れたわけではありません。
貴方との大切な時間を、背負い、私はこの現世の中で、もう一度。
大切な人と共に、自分の道を、歩いていく決意をしました。

・・・今ごろは、この世で叶わなかった夢を叶え、思う存分、楽しんでいますか・・?
好きなものを食べ、好きな時に寝、好きな場所へ行き・・・大好きだったサッカーを、思う存分・・・やっていますか?


私は、今日も生きて行きます。
あなたの、無念さを抱きながら。



5年前の・・・12月18日へ。
勇樹へ。

【2006/12/18 17:48 】 | 想うこと | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
日本の情勢と移植について。

 


日本では15歳未満の臓器移植が法律上、認められていません。
なので臓器移植適応と判断された小児の多くは海外へ渡米し治療を受ける事に
なります。
しかしその渡米には多額の費用が掛かり、とても個人では負担しきれない学と
なります。街頭で必死で我が子のいのちを救おうと募金を呼び掛けているご両親、
ボランティア達がいます。
臓器移植の年齢制限を設けている国は日本だけだそうです。どうして日本に在国
しながら日本で治療が出来ないのか。そこには日本の独特の偏見や宗教的問題、
矛盾や理不尽な事ばかりが伴っています。
私たちは1人1人に呼び掛け、署名を集め、法改正を強く訴えてきました。
しかしまだまだ小児の臓器移植にまつわる問題は解決していません。


私の仲間にも何人もの移植待機児者がいます。
助かるには心臓移植しかないと言われた子。
一生涯の透析から解放されるには腎臓移植しかないと言われた子。
元気になるには移植しかないと言われた子や親は絶望的な思いに駆られます。
それが母国日本で出来ないとされては、とても言葉では言い表せない程の絶望感
があると思います。
運良く欧州の病院に受け容れが決まっても募金が集まらなかったり、集まっても渡米
する前に力尽きてしまう子も少なくありません。
万一渡米してもドナー(移植提供者)を待っている間に亡くなってしまう子もいるのです。
異国で言葉の通じない知らぬ医師たちに囲まれながら最期を迎えてしまう子。
親戚や友達にも会えず、たった一人で旅立ってしまう事に何故日本では出来ないのか
と主治医に泣きながら・・・説明を求めました。


私の心臓病の友達で心臓移植をしなければ半年しか生きられないと宣告された13歳
の子がいました。
彼女は移植が必要で外国へ行かなければならないと告げられた時、笑ってこう言った
そうです。
 
  「日本を変える」


その言葉に医師やご両親や共に闘い続けた私たちにも大きなショックを与えました。
しかしそんな気丈な彼女を他所に病魔は進行し遂に移植を早急にしなければならない
日がやってきました。
しかし彼女は「どうしてアメリカで出来て(彼女の移植を引き受けてくれた病院はアメリカ
本土でした)日本では出来ないの」と泣いたそうです。
医師や両親らの説明と説得で彼女もようやく渡米しなければならない事実を受け容れ、
準備に取りかかっていた、まさにその時でした。
急変し心不全で彼女は14歳の生涯を閉じました。
本当にあっけなく、それでも彼女は自分の人生を全うし素晴らしく、旅立っていきました。
私より1つ下でした。余命半年と言われながら更に半年もの時間を懸命に生き抜いた
彼女の人生は決して、悲観され可哀想な人生ではなかったと思っています。
最期まで「日本を変えるんだ」と言い続けて、病と闘った彼女は、とても素晴らしい子でした。
 
彼女の死は今後の小児に対しての臓器移植に関して、改めて深く、考えなければならない
という改革を起してくれました。
一昔前に比べ、一般市民に対しても『臓器移植』という言葉が定着しつつあります。
多くのマスコミやメディアが移植について目を向けられるようになった今、私たちは国に
もっと、声を出していかなければならないと思う。
心臓移植だけではありません。血液透析をしている子にとって腎臓移植や胆道閉鎖症
の子にとっての肝臓移植もとても大切な問題でありながら、とても難しく、とてもデリケート
な問題です。


実は私も移植待機児の一人でした。
しかし多臓器障害の為、残念ながら移植待機児リストには載りませんでした。
常に全身状態が悪く、元主治医がアメリカへ留学していた事もあって問い合わせて頂いた
のですが、悪すぎて移植は出来ない、と言われたそうです。
手術も、唯一の望みだった移植も出来ない・・・それは正に死へのカウントダウンでした。


年々移植待機児者は増えています。
しかし渡米し移植を受け、無事に帰国できた方はほんの数パーセントしかいません。
もし、日本で移植が出来たら・・・膨大な金額を集める必要はなく、異国での言葉や文化、
宗教的な不自由もなく、何より生まれ育った母国を信じ、移植に安心して挑み、多くの
助かるいのちが必ずあるはずです。


『移植』それは1つの通過点に過ぎず、そこにまつわる問題は数多く、長い闘いを強いら
れる事になります。
例えば移植は本来他人の臓器を体内に入れるという事ですから、身体は異物として誤認
してしまい、その移植された臓器を攻撃してしまうためにせっかく移植された臓器も使えなく
なってしまいます。それを防ぐのが免疫抑制剤という薬ですが、移植を受けた者は生涯この
クスリを飲み続けなければなりません。いのちを守ってくれる大切な薬ですが、重大な副作
用も報告されています。免疫力が低下し感染症にかかりやすくなったり、罹患すれば重症化
しやすかったり、自分の免疫能を極限まで押さえ込むので、その他の自己免疫病に罹患して
しまうこともあります。
稀に白血病などの悪性腫瘍を併発するなどの報告もあり、移植が済んだからとそれで
全てが解決し終わるわけではないのです。
移植の問題はそうした移植後の道のりが、『第二の移植との闘い』になるのかも知れません。


 


日本で臓器移植を。
子ども達に日本の素晴らしさを伝えたい。
だって私たちは日本で生まれ、日本で育ったのですから。
日本は駄目だと言う前に日本を自分達の力で変えようと動きだして欲しい。
私たちは母国日本を信じたい。
生まれ育った“日本で元気になりたい”と思う子ども達は日本の政治や法律・宗教的な
事に反するものでしょうか。
メディアや市民が意識しはじめている今だからこそ、臓器移植について、そして日本の
現状についても理解をしなければならないと思っています。


臓器移植・・・それは自分には関係なく他人事だと思っている人にも、そんな事は遠い未来
の事だと漠然と思っている人にも、健康な人にも、それは突然、やってくるのです。
決して他人事ではなく、いつ自分や家族に降りかかってもおかしくない事態として受け止め
考える必要があると思います。


日本を変えたい。
日本で元気になりたい。


そう思っても渡米するために日本を離れなければならない子ども達。
大好きな家族や友人と別れて言葉も通じない異国で治療を受けなければならない子ども達。
移植を待つ間に容態が急変し亡くなる子も後を絶ちません。



病児者や障害児者がもっと住みやすい社会にならなければという思いも強くなります。
病児を取り巻く問題は実に多様に存在し、経済的問題のみならず親の精神的・肉体的負担
に加え、児の就学問題・進学・就職などの社会的問題が数多く出現しています。
様々な場所で様々な人がそのような問題に取り組んでいますが、解決していくのはまだまだ
先の事であり、病児を取り巻く環境は決して、万全であるとは言えないのです。
 病気であることを理由に普通校への入学を断られるケースや健常者と同じような条件で
就職させてもらえないケースなどなど私の知っている限りでも多数存在しています。


もっと世間の人に難病といわれる子ども達の事を知って欲しい。
一昔前と比べ、差別や偏見などといったことは一見、軽快してきたようにも思われますが、
まだまだ一般の人達への理解や協力体勢が十分だとは言い切れないのです。
私自身、重症の重複心疾患や重複難病障害の病児であり、差別や偏見、理解の得られない
事で悩み、迷い、苦しみました。
私達の後を継ぐ病児のためにも、この社会を変えなければならない、日本という国を変えて
いかなければならないと思いました。このままでは今後増えてくるであろう病児や障害児たち
がますます住みにくい社会になってしまう。それだけはなんとしてでも避けたい事でした。
でも、そうは思うものの私は何の権力も実力もない人間で、私一人の力では国を変える事は
出来ません。でもそれが10人、50人、100人・・・日本国民が一緒に国に対し声をあげれば何
かが変わるかも知れない。
情報を発信し、一人一人の意識を向上させ、国民一人一人の理解を得、意識を向ける事が出
来たら・・・きっと日本というこの国は変わっていけると思うのです。
変われる余地が、変われるその光が、変われる自信が、変わっていけるだけの力がまだこの
国には残されています。


 生意気でしょうか。自己満足でしょうか。身勝手でしょうか。


だけど、変わらなければ、変わっていかなければ、何も始まらない。
どんどん、どんどん住みにくい社会になっていきます。
病児者や障害児者だけではありません。一般の健常者も住みにくい社会になっていくのです。
その前に、本当にそうなる前になんとかしなきゃ。


少しでもいい。ほんの少しでもいいから、今の日本の状況や情勢に、そしてその理不尽な、割
り切れる事の出来ぬ事情で苦しむ人達の事を考える事はできないものか。


病気と闘いながら、死と向き合いながら生きるその一人として、彼らのためになにが出来るか。
そう考えた時に、情報を現実をありのままに伝えていく事しか、私には思い付きませんでした。
行動を起そうにも私は自分の力で立つことも、歩くことも出来ません。
移植のために海外へ飛び立とうとしている彼らのために街中で、募金に立つことも出来ません。
だからこそ、このネットという社会を通じて、情報を発信したい。


生活全般にかけ常に介助や看護が必要な身です。
けれど伝えていく事が出来る。何度も心停止し脳内への酸素供給が途絶えてしまったり、
様々な疾患によって知能低下を呈してもおかしくないはずでした。
でもどういうわけか考え理解し伝える力だけは最後まで残されていました。
だから私は伝えます。
残されている機能を発揮するのが私の生きている証ですから。
ひょっとしたら神様が、私には伝えていく義務があると、考え伝える力を最後まで残して
くれたのかも知れません。


このインターネットという情報発信の場で、私は伝えて行きます。
例えそれがご批判を頂くような内容であっても、それが事実である限り、私は伝える事
を諦めません。



「日本を変える」
そう言いながら旅立ってしまった彼女の心のメッセージを私が引き継ぎました。

【2006/12/12 14:19 】 | 病気 | コメント(2) | トラックバック(2) | page top↑
小児病棟でのいじめ。

昔、県立こども病院に入院していたとき。
長期入院中の子ども同士のいじめが、あった。



小4の時あたしは地元を離れて、遠い隣町の総合病院に、長期入院する事になった。
入院してたある小児病棟で。



仲間がお星様になった時、その病棟には、決して聞けない雰囲気が、暗黙の了解と化して、
こどもたちの間で、ある一定の圧力がかかってた。
「こどもだから。」何も分かるはずがない。ごまかしが聞くと、疑いもなく思っている大人たちの姿。
助け合いもあったけど・・・、いじめもあった。
先に退院して行きそうな子を、ターゲットにする法則。
そこには、社会の縮図。たった「子どもの・・・」と言えど、感じる事は、ちゃんと小さな胸で、感じてる。



私が通された部屋は、4人部屋だった。
まだ、9歳だったあたしがその部屋では、最年少で、後の3人は、中学生のお姉ちゃん。
あたしは、毎日泣いてた。いつも一緒だった母とはじめて、別れて、こんな遠い町での、知らない病院
での、生活に。これからの不安、感じて。
その時、同室だったおねえちゃんが、優しく遊び相手になってくれたし、しんどいときは、背中さすって
くれたりもした。
人見知りが、激しいあたしは、なかなかその環境に、なれなくて。
主治医になった先生は、地元のこども病院の主治医の同期の先生で、とても優しかったけど。
泣いてたら、話し聞いてくれたし、泣きやませてくれたし。
でも、看護師さんは、みんな、怖かった。
今では、考えられないような、閉鎖病棟。小児病棟には、厳重の扉で、鍵がかかってた。
親の面会も、院内学級がない、週末のみ。
ある意味、寮生活。
あたしは、耐えられなかった。その生活に。治療の為に、こんな地元でもない、見知らぬ土地で、
ひとりで、がんばるには、あたしはまだ・・・弱すぎた。
自分で、決めて、親とも主治医とも相談して、話し合って、がんばってくるって。
決めたんだけど。



でも、まさか。
こんな辛い場所とは、思わなくて。



そこで、見た光景。
患児同士のいじめ。看護師さん、知らぬ顔。
患児同士が、喧嘩しだしても、見て見ぬふりする、大人たち。
誰も、とめてくんない。


あたしが入院した翌日。その光景を、見てしまった。
小2くらいの女の子が、半年の入院生活を終えて、退院が決まった。となっていたいた、矢先。
病棟全体での、その子に対する嫌がらせが始まった。
いじめの内容は、詳しくはしらない。人の事構ってる余裕、なかったから。
自分の病気で、自分の事で、精一杯。
でも、確か、教科書に落書きされたり、無視したり、悪口言ったり・・・きっと、そんな事だったと思う。
その女の子は、泣いてた。
私が、入院した夜。その病棟では、食事は、食堂で皆で集まって、食べるという形式だったのだけど、
親と離れた心細さと勝手が分からない、病院に戸惑い、スタッフも、そっけない。
いつも、温かく見守られていたあたしには、耐えられない日々だった。



食事どころではなくて、ずっと泣いてたあたしに、看護師さんは、声をあげて、叱り付けた。
看護師さんに連れられ、食堂にいくも、食べる気になんて、さらさらない。
ずっと、机に伏せて口、閉ざしてたあたしに、その女の子は、ティッシュペーパーを持ってきて、あたしの
前に置くと、ニコッて笑いかけて、
「一緒に、食べよう。」
って言ってくれた。彼女の優しさに、ここに来て、はじめての温もりを感じたんだ。
その子が、いじめられているのが、耐えられなかった。
でも、あたしには、何も出来なかった・・・。声かける事も、誰かに救い求めて上げる事も。
彼女が、看護師さんに、いじめを打ち明けた時も、看護師さんは、
「そんなの、地元の学校に戻ったら、される事よ。そんな事で、いちいち気にしてたら、元の学校に、
戻れないよ。」
と突っぱねられてた。
恐らく、この病棟で、以前にもいじめがあったに違いない。
見て見ぬフリをする、病棟のスタッフ。


闘友が旅立っても、誰も、スタッフに聞かない。
聞かせない雰囲気。暗黙の了解で、誰にも教わらなくても、新しく入った患児にも、自然と伝わっていった。



入院してから、3日。はじめての面会日に両親が、来てくれた時。
あたしは、泣き叫びながら、帰りたい。と訴えた。
そして、病棟のいじめの事も、打ち上げた。スタッフが患児に関心示さない事も。
母は、これほどまでに、泣き叫ぶ私の尋常じゃない姿見て、
強制退院したい。と看護師に言った。
でも、この日は、休日で、主治医は休み。当直の医師が話しを聞いてくれたけど、独自に判断は出来なく、
それは、まだこの病棟に慣れて居ないから、だとか、子どもの我がままだとか言って、散歩する許可だすから、
ご両親と良く話し合うようにと、両親と病院内を散歩した。
でも、あたしの意思は、堅かった。何が何でも、帰る!
両親も、強く希望した。当直医は、根負けして、今日とりあえず外泊して、また明日もう一度戻ってきて、
主治医と話し合う事。を条件に、一旦、返してくれた。



その夜あたしは、家族に囲まれた中で、安心しきって、眠った。
病院では、決して眠れなかった。久々の安眠。
でも、その翌日。また、病院に戻らればならない。
病院に行く前に、地元の子ども病院の主治医に連絡して、向こうの主治医に、退院させてくれるように、
頼んだ。それから、病院に、2時間かけて、母と行った。
こども病院の主治医から連絡受けた、総合病院の主治医は、しぶしぶながら、退院を許可してくれた。
あたしは、ここに居た、3日間。食事も一切、とらなかった。
スタッフ達への、ささやかな抵抗・・・だった。
その話を、友達や学校の教師にした時、
「あんた、良くそんな抵抗できたな。ある意味すごいわ。あたしだったら、空腹感に負けて、食べるけど。」
って笑われた事があった。。
だけど、あの時は、必死だったんだよー。



もう、2度とここへは、来たくないって思った。
あの、小2のいじめられてた女の子は、あたしが退院して、週末に荷物を父と取りに病棟へ来た時、もう、退院
していなかった。
何だか、悲しくて・・・助けられなかった自分が・・・情けなかった。
自分より年下の彼女を救えなかった自責。彼女は、あたしに、ぬくもりをくれたのに。
「一緒に食べよう」って、優しい言葉、かけてくれたのに。
あたしは、逃げた。彼女は、どんな思いで、この入院生活を、過ごしていたのだろう。
そして、退院したのだろう。



病院は、色んな経験をする場所。
いい思い出も、悪い思い出も・・・。
小児病棟で、起こったいじめ。それは、決して特殊な例ではない。
公には、ならなくても、どこの病棟でも、ある種のいじめは、存在する。
長期に入院してる子が、退院を間近に控えている子めがけて、攻撃する事も珍しい事じゃない。
籠の中の鳥だから。
自由になる友が、羨ましくて。
誰よりも、人の痛みを分かってる子程、自分との違いを大きく感じてる。



あれから、7年。
あたしは、あの病院には、もう行って居ない。たった、3日間だけだった。
でも、あたしにとって、色々な事を学ばせてくれた入院でもあった。
はじめて、親と別れ、地元から離れて、全く新しい病院で、生活した。
その期間、たった、3日間だけだったけど、あたしにとっては、3年もいたような、長い長い時間だった。
そこから、見えてきた事。
時間がたった今だからこそ。見えてきたものがある。
友達が、あの小児病棟へ入院した時、面会や病棟の制限もゆるくなってると聞いた。
いじめの連鎖は、途絶えられたのだろうか?



小児病棟で見た、繰り広げられていた、いじめ。
その連鎖を食い止められるのは、周りの大人、スタッフ達だ。
あれから、7年もの月日が流れ、スタッフもだいぶ変わっただろう。



子どもは、自分と違う何かを見つけると、その違いを敏感にキャッチする。
それは、病気あるなし関係なく、子どもは、そういう生き物。



あたしも、「普通の子」と、ちょっと違ってる。
「ふつう」って何?
あたしがおかしいのか、周りがおかしいのか?そういったズレは、ずっと抱えてた。
いろんな事乗り越えて、少しずつ大人になってきた今も、引きづってる。
でも、周りが見渡せるように、背が伸びた今は、それが、あたし自身なんだと。自分の個性なんだと。
自分をいじめないで、そんな「ちょっぴり変な自分」の事。優しく思えるようになった、ケドね・・・
ほんと、少しだけ・・・だけど。


「生きる」って、「思い出」を重ねてくことでもあるけど。
だけど、その「思い出」は、きっと、「今日」に続いてる。そして、「明日」へと続いてく。
その時は、感じなかった感情も、過去になれば、自分の生きてきた実感として、ココロに宝石のように
キラキラと大切に感じる。・・・そういうことって、あるんだね。。。



あたしは、今まで、たくさんの病児や親御さんと出会ってきた。
我が子の為に必死に、病院に通い続ける親。
仕事と家事の両立で、なかなか面会に来られない親。
我が子が障害や重い病気と告知され、真っ暗な暗闇の中、光さえ見えない絶望を抱いて。
そこから、希望という光、追い求め。
意味は分からなくとも、我が子と一緒に歩もうとする親の成長する過程も・・・見てきた。
障害抱えても、明るく振りまわって、子どもに負けないくらい、明るさを、病棟に届けてくれる
親達。その親御さんの姿勢に、我が子と生きる、向き合う姿勢に、どれほど力を与えてもらったか・・・。



病気や障害を抱えた子どもを持つ親は、多少なりとも「将来への不安」は抱えてる。
我が子を思えば、思うほど。
死ぬまで、自分が抱えこまないといけない問題。
無意識に襲い掛かる、重圧、重荷。
育てても、(老後)何も、返ってこない。
今までの、子への期待の破棄。無力感。
未来は、暗澹たるものだらけ・・・。
なぜ、うちの子が・・・?


一度や二度、障害を持つ親御さんは、思うでしょう。
あたしは、親の愛情を感じてる。愛されて居ないわけでは、決して無い。そう思った事も、ない。
ときには、重たいくらいに。



病棟で出会った子や親たちに、いっぱい勇気もらった。
辛いときは、励まし合い、悲しい時は、見守り、嬉しい時は、共に分け合い。
同じ敷地に、赤の他人同士が存在してる、そんな奇妙な病棟社会で、いろんなものを見、
いろんなものを、感じてきた。



時にそれは、辛いものでもあったけど、素晴らしいものでもあった。



あの時の、入院は、決していい思い出では、ないけれど、私の人生の糧を大きくしてくれたもの
であるのも、確かだ。



あの、女の子は、今どうしているだろう。
元気に・・・しているのかな・・・?


あの時、励ましてくれて、ありがとう。
力になれなくて・・・ごめんなさい・・・。


 


 

【2006/12/09 14:07 】 | 過去の入院日記 | コメント(6) | トラックバック(1) | page top↑
精神科とカウンセリング。
小3~中1までの4年間。
私は、臨床心理士による、カウンセリングを受けていました。
稀少難病を抱え、生活を送るうえで、いろいろな葛藤も生まれます。
病気と向き合う上で、一番大事なのは、受け止め、受け入れる力。簡単なようで、実はすごく、大変な作業です。


入退院ばかりを繰り返し、学校もドクターストップがかかり、行けなかった。
新しい病院に、救いを求めて、セカンド・サードオピニオンをし、はじめて行く病院では、いつも、言われる。

『多機能低下不全症候群……って、、なに?』
医学界でも、知られていないこの病気。
あたしは、何度も孤独感に支配された。
そして、終いに言われる事は、
『詐病の疑い。』とまで、言われる始末。えぇ、もうなんとでも言ってくれ!って感じだった。
誰も分からない。この謎の病。
それを理解してくれる先生は、医療スタッフは、ほんの僅かしかいなかった。

色々問い詰められ、精神科に回されたりもした。
精神的疾患見つけるのに、必死にされてるって、雰囲気で。
精神科ってのに、いい印象持ってなかった。
おそらく多くの人が、『精神科』というものを、あまりイメージよく、思っていないだろう。

過去のトラウマ、いっぱい、引き出しちゃいそうだし。
学校行っていない(正しくは、ドクターストップかかり、行けないのだけれど。)のは、怠けているからだとか、努力が足りないから、病気は治癒しないのだとか、はじめて行った病院の多くは、学校の事を必ず聞いてくる。
『ところで、学校はどうしてるの?』
あなた方は、目の前に苦しみ、自分を頼ってきている患者を、見ようともしないのですか?
どこかに、救いはないかと、自分を頼って来ていることを自覚せず、そんな無駄話する時間があれば、教えてください。どうしたらこの病気は、治るのですか?
学校行っていない=登校拒否=不登校。
っていう、方程式が、未だに根付いてしまっている頭でっかちな人は、多い。
病気持って、治療をがんばる子どもたちは、多かれ少なかれ、勉強や進学や将来の事に対し、大人が思っている以上に、敏感に、反応します。


学校行けなくて、いつも家や病院で過ごす事が多かった私は、近所の方に、いろいろ変な目でみられもしていた。
学校ある時間に、母と外へ出れば、
『あの子、学校行ってないみたいよ。』
と、陰口をたたかれ。あたしも親も、辛い思いをした。
あたしの病気、よく知らない近所のおば様たちは、体が弱い私を見かけると、
『病気だからって、甘えてちゃダメよ。』
と、言われもしてきた。
次第に私は、外へ行くのもおっくうになり、誰とも会いたくないと、引きこもりがちにもなった。
何も悪い事してないのに。休みたくて休んでるんじゃないのに。
先生が、行っちゃ行けないって言ってるからなのに。ほんとは、勉強したいのに。学校行きたいのに。
周りの好奇な目は、幼心に、トラウマと化していってしまった。


病院への、医療者への不信感は、そうして蓄積されてしまった。
子ども病院のカウンセリングや総合病院でのカウンセリングなどを受け。
さすがに、精神科へは行かされなかったけど、心療内科に通わされた事もあった。
カウンセリングの先生も、最初は良かったのだけれど、次第に馬があわなくなり、カウンセリング自体が苦痛の何者にもならなかった時があった。
それでも、4年間もの間、無意味なカウンセリングをしてきて。


本当に、体もしんどくて、その事誰にも分かってもらえなくて。
私が不調を訴えると、明らかに検査データー異常値なのに、科学的には説明できないからと、それも詐病といわれ、自分で作り上げる病ならば、どうしらこんな検査データーをここまで異常値に出来るんだ!
そんな術があるんなら、教えろ!!と医療者への反抗心が芽生えていった、あたしの心。


でも、理解下さるドクターもいた。
気持ちを、分かってくださる医療者がいた。
ココロの弱み、見せるのって、負けですか?
前向きなまま、強く生きなきゃだめですか?


そんな事ないと思うよ。
言いたいよ。
もっと、人に頼ってもいいんだよ。
甘えてもいいんだよ。
人は、みな強くないんだから。


あるカウンセラーから言われた言葉。

『障害者は、頼る事に慣れすぎている。』
『だから、して欲しいとお願いしてくるまで、こっちから何も助けたくない。』と。

健康な人だから、言える事です。
そのカウンセラーの方は、健常者だから。
人のココロ…読むのが仕事なのに、そんな事気にせず、一方的な言葉をかけられるのみ。

確かに私も、こうして愚痴り、悩み、考え、迷う。
それでも、解決できなかったら、人様の意見を聞き、人のお力をお借りすることもある。
でもそれは、障害あるなしに関らず、人が人として、人に、求めるごく自然な事ではないだろうか?


人は、ひとりでは生きていけない。
自分はまるで、ひとりで誕生し、ひとりでここまで大きくなったような言葉をおっしゃっていた、カウンセラーの方に、私は、付いていけませんでした。
でも、ココロやさしい、これこそ、真のカウンセラーの方もいて。
その方には、話を聞いてもらうだけでも、楽になれました。決して否定はしなかったし、生き方を咎める事もなかった。


私は、病気に負けず、がんばってる少女になれない。
車椅子だけど、明るくもない。
だけど、暗くもないよ。
いいことばかり、ここで書けない。
それは、あたしについて、偽りだから…。

私は、悩むこと、落ち込むことを、マイナスだとも不幸とも、捉えていない。

人は、考えるために、生まれてきた。

生きる意味を考える機会を与えてくれた、この病気に、感謝しています。


箱庭療法や認知療法というものを受け、私のココロが、読まれているようで、すごく嫌でした。
そんなもので、私の全てが分かるような口を聞かれ、本当に貴女、臨床心理士さん?と疑問符がつくような、方もいらした。

カウンセリングに通っている意味が分からなく、ただ言われるままに、通い続けた。
4年の月日が経ち。中学1年になったとき、病気は容赦なく進行し、自分を見失いました。
自暴自棄になり、何もかもが分からなくなった。
自殺未遂を繰り返すようになったのも、その頃です。
しかし、私は、ボランティアという自分の居場所を見つけ、そこで自分を取り戻していきました。
その頃に、4年間続けてきたカウンセリングを、やめる事を決意しました。
もう、ここに、通う理由は、ない。意味も、ない。
結局、私は、カウンセリングで、何も、得られなかったのです。でも、あの4年間の時間は、決して無駄ではなかったと思っています。決して、無意味な時間では、なかったと思っています。
私には、カウンセリングは、必要なかった。
もう、私は、カウンセリングを受けなくとも、自らの足で、心の両足で、歩いていけると、ようやく、分かる事が出来たのです。
この時間は、私にとって、結果的には、何も得るものはありませんでした。
けれども、いろんな方面で、いろんな考え方で、自分を見つめられるようにもなった、きっかけを与えてくれたのも、事実です。

そのことに、気づくそのものが、本来の『カウンセリング』なのかも、知れません。


中学生の時、心療内科のクリニックを紹介され、受診した時。ここの先生は、私を人間として、扱ってくださった。そして、決して子どもだからと軽蔑もせず、私と対等に、向き合ってくれました。
車椅子の私の、動かない右手を握り、
『辛かったでしょう。良くがんばってきたね。もう、がんばらなくていいよ。辛ければ、ここへ来なさい。僕は、貴女の病気を、治すことは出来ないけれど、貴女の心は、きっと、げんきになれます。貴女の心は、貴女が思っている程、弱くはありませんよ。ただ、疲れているだけです。ゆっくり、休みなさい。』
と、言ってくれました。その言葉を聞いて、あたしは、ボロボロと涙をこぼした。
先生の前で。診察室で。

その後、病気は進行し、3度通っただけで、クリニックまで、行くことが出来なくなった。
50、60代くらいの先生だった。でも、とても暖かくて、とても、優しくて。
この人こそ、心療内科医になるべきだ!と思った。


病気は決して、精神論で片づきはしない。
そして、気持ちの持ちようで、どうにかなるものでも、ない。
周囲から、精神論を持ち出され、辛い日々を送った。
病気に負けるのは、根性が座っていないからだとか、好き放題言っていた人も、いる。
でも、決して。
精神論で、この病が、奇病が治れば、医者も医療も、医学と言う学問すら、いらなくなる。


精神科や心療内科受診歴があると、医療関係者の多くは、その人の性格や考え方や価値観に、問題があると決めつけ、差別の目でみる。
一度や二度の受診歴が、カルテに、記載されているだけで、どうして、その人の全てを分かることが出来ると言うのだろう。
だれでも、心が疲れる事は、ある。
そして、頼りたい、すがりたい、気持ちになることもある。
救いを求め、話を聞いて欲しくて、心療内科の扉を叩く人もいる。


でも、まだまだ、そんな人は、少ない。
人々の精神科や心療内科に対しての偏見。
『心の病』は、人には知られたくない、自分の問題だと、責め続け、誰にも言えないまま、壊れてしまう。
壊れる前に、心内の扉を、叩くことは出来ないものでしょうか?


心と体は、繋がっています。
心が、しんどい時は、体にも変調が来たし、しんどくなる。
反対に、体がしんどい時は、心まで疲れてくる。
そういう、連鎖反応によって、人間の精神は、成り立っているのです。


医療関係者の皆様、これから医療・福祉の道を歩まれる学生さんへ(って、そんな方、ここにお見えになっているのか?)。

精神科、心療内科の受診歴が、過去にあるからと言って、その人自身の性格に問題があるわけでも、精神が弱いわけでも、努力が足りないわけでも、ありません。
心理検査などだけで、患者自身の心を、分かったつもりには、ならないで下さい。
あなたにも、弱いところがあるはず。
強い人間なんて、この世にひとりとして、いません。
弱い部分を持って、強い部分をもって。
そうして、互いの相互作用が働き、はじめて、『自分』という人格を形成していくのです。


精神科、心療内科への偏見と御解が、なくなり、もっと辛い時に、風邪の時に内科にかかるのと同じような感覚で、自分を見失ってしまう前に、壊れてしまう前に。
受診され、自分の心を向き合う場を作って頂ければ・・・。
って、なんだか、偉そうに。。
反感、買っちゃいますかね・・・。
申し訳ありません。。。
【2006/12/08 00:46 】 | 病気 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
眼科の先生のひとこと。


今日、CT・MRIを撮りに病院に行った時のこと。
私は、感染の危険から、病院裏口(職員専用通路)から入ります。
そこから、感染症科の隔離室へと直行。
CT・MRI室から呼ばれるのを、看護師さんと待ちます。



30分くらい待って、技師の人と血液担当の先生が呼びに来てくれました。
検査室に向かうには、眼科と耳鼻科の外来の前を通っていかなければなりません。
ちょうどお昼どきで、一番患者さんもちらほらしか、いなくなった時を狙って、検査室に向かいました。



その時、眼科の前で、ふと、懐かしい声が診察室の方から聞こえてきます。
でも、その声は、尋常ではなかった・・・。
大声で、怒鳴る先生の声・・・。
何事かと、車椅子を押してくれていた先生の足も、自然と止まります。



『失明しても、責任持ちませんよ!』



そう、言葉を発して、診察室から出てきた先生。
負け地と患者さんも、先生追いかけて喧嘩腰。
どうしたって、あたし達にも、聞こえちゃうよ。



会社が休めないとか、内科の病気は死ぬ怖さあるけど、目の方は死ぬ事ないとか・・・。
唾飛ばしながら、理由話してた、50代くらいの患者さん。
何か・・・悲しかった。話し、聞いてて。
ほんとに、その人、本心から言ってるのかなぁ・・・と。


目見えなくなっちゃって、いいの?



最後に、
『治す気がないなら、もういいです。他の患者さんに失礼ですよ。』
と言ってた、先生。
ここまで、怒ってくれる先生って、いないよ。
診察来なくても、無関心。患者本人の問題なんだし。患者の身体。人生なんだし。
だから、そこまで踏み込むのは、ほんとは、医師の範囲じゃないのかも。
だけど、誰があの患者さんの目を救えるの?
ほんとに、本心から、悪くなった方がいいと思ってる人なんて、いないはず。
もう、大人でしょ。それくらい、分かるでしょ。
奥さんも、お子さんもいるでしょ。ひとりじゃないでしょ。



たかが、他人事なのに、怒りが伝染しちゃったのは、どんなに頑張って治そうとしても、
治んない事だって、人だって、いるんだよ、って事。
あたし自身が、右目失明して、左目もいつ失明するかわかんない。
治るものなら、どんな辛い治療だって、手術だってしたいのに。



あたしも、あぁやって、暴れてみたいなぁ。
スッキリするかなぁ。しないだろうなぁ・・・。



眼科の先生が、あたしに気づいて、その患者さんほっといて、駆けつけて来てくれた。


『やぁ、どうしたんだい?入院してるの?』


そう、話しかけてくれた先生は、さっきまでの険悪な雰囲気は、感じさせなくて、いつもの
優しい先生に戻ってた。
先生と患者さんの一部始終を見てしまった私たちは、重い雰囲気のまま、検査室に向かった。
眼科の先生も付いてきてくれた。



廊下を歩きながら、
『あぁいう患者もいるんです。一生懸命治そうとしても、患者さん自身が、その気にならなきゃ、
医療は一方通行になります。』
と言ってた、先生の言葉の重みと先生の心のうちの医師としての切なさが、伝わり、私まで、
悲しくなった。



治したくても、治らない患者がいる。
どんなに願っても、視力を失っていく怖さに、ひたすら立ちすくむ患者がいる。
その患者を支える、医師がいる。
先生は、そんな患者さんを知っているから、治療に前向きじゃない、我がままな患者さんを診ると
つい声を荒げてしまうのだろう。
本当の痛みを、知っているから・・・。



内科の病気は、死ぬ怖さもあるけれど、目の病気で死ぬ事はないさ。
そう思っている人が、いるのだとしたら。
間違いであることに、手遅れになる前に、気づいて欲しい。
目の病気で、死ぬ事だって、あるんだよ。
光を失う辛さ、あなたに分かりますか?
失ってから、気づいたって、遅いんだよ。
後戻り、出来ないんだよ。あの時、こうしてれば、って後悔しても、取り戻せないんだよ。



病院には、いろんな人が来る。
病気だけじゃなく、患者自身の、それぞれの人生を持ってくる。
それぞれの、生き様が、そこにあり、いろんなドラマが、日々繰り広げられている。



あの、おじさんに出逢って、何も面識もない人だけど、後味悪く、ずっと、引きずるあたしって・・・。
失明する前に、気づいて欲しい。


何で他人なのに、そこまで深く考えちゃうのだろう・・・。
今は、自分の事で精一杯。自分の事を、考えてればいいのに。
考えなきゃいけないのに。



検査室の前で、眼科の先生と別れて。


『さようなら。またねぇ~』


と言って、頭、よしよししてくれた、先生。
先生も大変だね、とちょっと、同情した気分でした・・・。


 



検査終わり、そのまま病室に帰ることなく、裏口から救急車待たせてあったので、
空いてる病棟の先生が付き添ってくれて、おうちに帰りました。
が、検査室から、またまた、眼科と耳鼻科の前を通ったら。
おばさんが2、3人集まって、あたしの方をじーっと見て、明らかに聞こえる声で。


『あの子、可哀想に。』
『何歳くらいかしら?小学生?まだ、これからなのに・・・。』
『周りに付いてる先生方も、大変ね。』


などと、言ってた人たち・・・。
聞こえてます。そういうのは、こそこそと話してくださいな。
何も、本人に聞こえるように話さなくても・・・。



先生達に囲まれて(血液腫瘍担当医と検査技師、病棟医の3人)、無菌テント被せられて、
厳重な防備で、廊下通ってる患者がいたら、明らかにふつうじゃなくて、物珍しく、
あれこれ憶測されても、仕方ないのでしょうが・・・。
車椅子の人なんて、ざらにいます。車椅子でも、何だって一人で出来る人も、います。
自立してる人だって、います。
それは、もちろん本人の努力の成果もあるし、周りや環境の支えも、あるでしょう。
がんばったから、実るのです!



だけど・・・
だから、『あなたも。』なんて、お節介やめてね。。。
あたしだって・・・言われなくたって、がんばってるやいっ。



物事には、『がんばって、成果に現れるもの。』と、『どんなに努力しても、結果に出ない事』も、ある。
ってこと。どうか、分かって下さいな・・・。



私って、ほんとに幸せ者だと想います。
少なくとも、理解ある先生たちに囲まれて。時々治療の考え方の違いで、小さな衝突しちゃうけど、
それでも、あたしの気持ち。一番に考えて、尊重してくれる先生にめぐり合えた事。
それまでの道。色々あったけど。傷もついてきたけど。
気持ち、伝えられなくて、空振りしちゃって、すれ違ってばかり・・・。
そんなときも、一度や二度では、なかったけれど。
慣れてきたら、言葉にしなくても、伝わる想いって、存在する。
でも、言葉にしなきゃ、伝わらない事もある。
『分かってくれるよ。』って、口閉ざしちゃったら、伝わる事も伝わらない。
やっぱり、伝えなきゃ。でも、伝える事に、疲れる事だってあるんだ。



あたしの場合、いきなり、『はい、(勝手に)決めました。』と事後報告・・・の方が多いから。
ふつうなら、『じゃあ、勝手にすれ?』となっちゃうケド。
あたしの先生は、違う。
一緒に悩んで、考えて、迷って、そこに答えがなくても。
一緒に、歩いてくれた人。
いろんな先生と出会ってきたけど。訳分からない先生も、沢山居たけど・・・。
届かぬ想いを胸に、人は、生きていかなきゃならない。



今日、眼科の先生とあの、患者さんのやりとり聞いてて。
病院って、医師や看護師さんに従う患者を好む傾向に、自然とあると思う。
もちろん、治療方針とか、そういうのは、専門家の意見に『真剣に』耳傾けないと・・・ですが。
でも、あくまでも、耳傾ける・・・だけ。
決めるのは、患者本人。
医療の中心は、患者であるべきで。
患者が、『受診しない。』と決めたからには、やっぱ患者自身の考えが存在する訳だから・・・。
仕事が忙しくて、通院の時間が取れないのも、患者さんのニーズになるわけ。
それを、治療だから!なんとか職場の時間をずらして!なんて、そんな事は、言えない訳だ。
患者さんの生活のニーズ。医療のニーズにどう、社会が、どこまで、応えていけるのか。って
問題も、存在するしね。
一方的に、治療のため。だとは、言っても、生活の為に治療するのであって、治療するために
生活を犠牲にする事は、間違っていると思うのです・・・。



医師や看護師さんの意見に従う・・・患者の方が、扱いやすい・・・というか。
そーなったら、ダメなんだと思う。
医師の考え=患者の考えとはならない場合もあるし。
納得いくまで、話し合ったりできる医師との関係があれば。
もしかして、医師が自分の考えに、従わない患者に、『もう、他の病院に行ってくれ』とは、
最低の意見だと思う・・・。そんな経験した人、多いのでは?
あたしは、過去に何度も・・・あった。。



患者は、どしどし、『自分の意見』持つべきで、周りに流されるように、なっちゃあ、ダメだと思う。
長期入院してる患者さんで、自分の意思とか失くし、無表情な人・・・。
患者であっても、生きるが病院であっても、その人らしく生きる権利があるはずで。あるべきで。
反対に、先生や看護師さんの、言う通りにした方が、楽に生きられる環境になんて、おかしい・・・。
・・・『おまかせ主義』な患者さんもいるけど。
うまくいかないと、医師のせいにしてる人、多く感じちゃう。



そういう意味で、あたしの今の周りの環境は。
いい環境に、いさせてもらってるなぁーって、思うのです。
いさせてもらってる・・・というと、また受身・・・になっちゃうので。
ベストな環境に、感謝しなきゃ。



でも、してもらっているという意識から、どうしても自分の気持ち、押さえ込んで。
この歳になっても、未だ、自分の想い、きちんと伝えられないまま。
すれ違い。衝突。戸惑い。
入院してるときは、ここは病院だから、我慢する事も必要。と自分なりの理屈つけて、
過ごす事も出来るけど、在宅に戻ってからも、ここは自分んちなのに、好きな事も言えなくて・・・
あたしは、人の助けを借りなければ、生きていけないから。
ケアしてくれる人が、いないと寝返りも、打てないから。
もし、介護してくれる母と喧嘩でもして、介護放棄されたら・・・。と思うと、怖くて、言いたい事、
我慢してしまうのです。



障害持って、自立してる人ってすごいなぁ、って思う。
あたしには・・・どんなに努力しても、叶わない夢。
夏に半年入院して、もう治療ないって言われて、在宅でのターミナルケアを受けてる訳だけど。
明らかに、前の生活には、戻れない。在宅に戻ってきても、介護の重み。
1日をより、大切に、生きたい。と思った。
幸せは、永遠には、続かないもの・・・。と言う事を、この何ヶ月間、ひしひしと感じて居た。
それは、悲しくも切なくもあるけれど。だけど、今日の積み重ねで、人生は続くのだから。
過ごした時間や日々は、必ず、過ぎ去っても、大切な思い出として、心にいつまでも記憶される。
そんな、1日を、重ねてみたい。


 


 

【2006/12/05 16:44 】 | 日々の日常 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
伝わらない想い・・・

病気が進行していく中で、新たな決断を迫られた日。
あたしは、あの時、何を考えて、どうしたかったのだろう。


いっぱい、どん底にいて、そこから這い上がる事も出来ず、ただ、この暗くて冷たい場所から、
救い出してくれる人を、待っていた。
当然、そんな救世主は、現れないわけで。
自力で、這い登っていくしか、なかった・・・。


 


放射線治療か抗がん剤治療か。
一晩考えて、出した答えが、『先生の判断に任せよう。』って事だった。
考えるのが嫌だとか、面倒だとか、そんないい加減な気持ちで、出したんじゃなかった。
ただ、あたしを、生まれた時から、それこそ生まれる前から、小さい時から、診てくれている
先生たちが、一番あたしの今の状態も、この謎の多い病気も、良く分かってくれてる。
その先生たちが、選んだベストな治療に、間違いあるはずがない、って思ってた。
決して、受身で言ってるのではなく、本心からそう思って。そう、信じて。



でも、先生に、どのように伝えるか?
答えを出すのが、早い私は、次に悩むのが、伝え方。
試行錯誤。考えて考えて、考えまくる。
ほんとに、これでいいのか?別の治療選んでも、その先にあるものが、見えすぎる辛さ。
医療の事なんて、医学の事なんて。病気の事なんて。
何も、分からなかったら、不安もないのかな。ただ、医師に任せておけば、現実に身をゆだねる
事も、出来るのかな。
でも、あたしは、知ってるの・・・。この病気の怖さ、正体。
どの治療を選んでも、その先にあるものも、光景も、全部・・・分かるの。
知識があるお陰で、私は正体不明な病気に対する恐怖を処理できた。
でも、知りすぎてしまう怖さ。何でも分かっちゃう事に。ある種の恐怖を感じる。
悩んで、迷って、考えて。
あきらめると決心しては・・・ココロの深みのドツボにもはまり・・・。
やはりあたしの人生の選択として、必要と思い、自分の意思で決心した事なのだから。
その事を、きちんと自分の口から、伝えられれば・・・と思う。
が・・・実際には、難しい・・・。



次から次へと襲い掛かってくる試練の連続に。
『これが良かった。』とは、胸張って言えないけど、不安と毎日迷いの中。
でも、自分で決めた道だもん。後悔したって、自分で選んで決めた道なら、あきらめもつく。



在宅は、病院の日常とは、違う。
時の流れ方も、違う。同じ24時間なのに、感じ方が違う。
どちらが、いいか?は、人それぞれの答えだろう。
あたしだって、在宅生活が、100パーセントいい。とは、思ってない。
病院で迎える朝は、憂鬱な気分。。目覚め・・・病院の白い天井が、目に入ると・・・鬱鬱鬱。。。
寝ぼけたまんまから、看護師さんに無理やり検温されるのも、不機嫌だし。。
それよか、閉ざされた個室で、ひとりで迎える朝は、鬱以外何者でもない。
監視カメラに向かって、にっこりピースなんて、やってらんない。。



在宅にしか、出来ない事がある。でも、病院でしか、出来ない事もある。
在宅生活が、だからって言って、全ていいものじゃない。
重度障害・難病持って、こうして在宅で暮らせてるのも、家族や理解ある医師や看護師さん達、
周りの人達の支えと理解があって、はじめて、成り立つのです。
在宅で暮らしたくても、環境が整わなくて、暮らせない人だっているのです。
その事、思えば、在宅で生活できるって、ほんとに幸せだなぁと感じる。
今この、瞬間に。



人生いろんな毎日の積み重ねです。
苦や辛を考えるのは、楽だけど。幸、考えるのって、一番難しいのかも知れません。
って、いうか・・・悪い方ばかり考えてしまうのは・・・あたしの悪い癖?
ただ、単純に幸せな自分が、『これで(幸せで)、いいのか?』とつぶやいている。。。
でも、一晩考えて、好きなだけ泣いたら、呼吸乱れても、発作起しちゃっても。
寝て起きたら、『なんとかなるさっ』って、思い直す単純な、あたし・・・。
良く言えば、立ち直り早い・頭の回転速い。って言えるケド。
悪く言えば・・・単純な人間。
ほんと、扱いにくいなぁ、あたしの性格・・・。。。



朝から、訪問看護師さんが来てくれて。治療の事、色々聞いてくれたけど、思ってる事のその
半分も、言えなかった。
どうせ、言ったって、仕方ない。これは、あたし自身の問題。
最終的には、自分で乗り越えないと。
こうして、弱音吐いてしまうあたしは、精神的に、未熟です。
だけど、どうしようもない・・・。
こうして日記でしか、吐けないあたしは、一番大切な人に、何も伝えられない・・・まんま。
病気の進行と共に、もう、自分の足で立つ事は(ココロも)、無理になっちゃったのだろうか・・・。
せめて、ココロは、健全でいたい。



在宅での生活に戻って、日々の日常の幸せ。
窓から聞こえる、子どもたちの賑やかな声。登下校の時間。
うちの弟も、その輪の中に、いるのだろうか。私に、見せた事のない笑顔で、笑ってるんだろうか。
友達の、輪の中で。
病院生活では、決して経験できない事。
街の匂い。雰囲気。自分の今ここに住む、生まれてから、ずっと過ごしてる「町」。
そういうのを・・・大切に、愛しんで、いっぱい笑って、愉しんで。
家族や友達の、側で・・・。
肝心なほんとの幸せって、案外気づかないもの。身近にあるもの事ほど、目をこらさないと目に見えないもの。
来年も、きっと、来年は、笑って、いっぱいいっぱい笑って。
みんなで笑って、お腹抱えるくらい、笑い過ぎたいな。。



今のあたしには、笑える気力も力もなくて。。。前まで、こんな事なかったのに。
まだ、テレビとか、面白い事あれば、笑える。家族の誰かが、笑わせてくれれば、こころから・・・
笑えてた。寝たきりになったって、笑わせてくれる家族や仲間がいるから。がんばろうって思えた。
ネットも出来て。そんな時、生きようとする余力も、まだ十分残ってるんだと・・・感じられる。
けど、人との会話にも疲れていく今日。
友達から来るメールにも、些細な事で、イライラしてしまう。
決して、相手が悪いんじゃない。きっと、ううん、絶対。あたしの、器が小さいだけ。
もっと、何でも受け容れられる、大きな人間になりたい。


「無理もきかなくなってしまった・・・身体」


その事が、辛い。贅沢・・・ですか。。。?


 


 


試練の連続でも。
あたしは、あたしのこの人生を。謳歌したいんだ。



【2006/12/02 19:03 】 | 日々の日常 | コメント(2) | トラックバック(0) | page top↑
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