上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書く事で広告が消せます。 |
仮死状態で生まれた私にはいくつもの障害があった。 両親は混乱したという。 しかし胎児診断で早期に発見できた事は幸運だった。もし何も解らずにそのまま生まれていたら、十分な医療を行えず、不十分な体整での出産は私の生命予後を左右したに違いない。 当時の両親の心境はどんなものだったのだろうか。想像するのは簡単だが、理解には苦しんだ。 そう、私はいつ死んでもおかしくなかった。いや、胎児期を乗り越えて出生にこぎつけた事さえ軌跡 栄養も常に不良だった。 [いのちがあるだけでいい] [いのちさえあれば何だって出来るんだよ] [健康であってこそ、何でも出来る]と。 生きるために何かを犠牲にしなければならない。 生きる事に必死だった。私も両親も。 [1歳まで生きれるか保障はありません] いつだったか、小学3年生か4年生か非常に死に過敏になった時期があった。 それが私が出した答えだった。死から始まる物語があってはならないとされる決まりがあるだろうか。 まったくの不安や恐れがないと言えば、それは、嘘になってしまう。 だから、今は思う。 私は、この世に生きる、ひとりの人として、難病を背負った病児として。 スポンサーサイト
|
良い病院とは、どんな病院だろう?と、この頃良く考える。 的確な検査・診断をしてくれる。というのは、まず第一条件だと思う。 医師のみでなく、外来においても入院においても、看護師さんやリハビリの先生、ケースワーカー、各スタッフとの連帯も大切だ。 だけど、そのすべてを満たす理想的な病院を探すのも、現実的ではなかったりする。 またそこでは、大学病院などでは、「入院してるでしょ?」という患者さんも、ふつうに外来受診または往診している。 どんな辛い抗がん剤の治療にも、入院したくないと。言った人がいた。 病院との付き合いは、病気にもよるし、個人それぞれの考えだ。 けれど、今のあたしは仕方なく、在宅で暮らしているのではない。 これからのあたしは、病院に全てをお任せする付き合い方ではなく、自分の意思を持って、自分の生活・人生の一部として、そんな付き合い方が出来ればと思っている。 |
障害と人の親切。
障害持って、街に出ると、人の親切に出会います。 時々、声かけられる、 『何か、お手伝いする事は、ありませんか?』 の声がけは。 もしかしたら、“自分でしようと思ってたのに。”といったような。 お手伝いしようと、して下さる方に、断りにくい状況を生んでしまう可能性も、あります。 でも、それはそれで、 「自分で出来るので、ありがとう。」と、はっきりと断ればいい。出来る事ならば。 そして、声かけて下さった側も、 『またお手伝いする事があれば、声かけて下さいね。』 と、ごくさらっと、流せば、いい。 必要な時に、必要な事を、手伝える時に、手伝って頂ければ、嬉しい。 私は、ひとりでは、何も出来ない。 寝返りさえ、満足に打てない中。人の手を借りなければ、それこそ日常生活を送る事は、不可能。 例えば、以前地下鉄に乗って、母とおばと出かけていた時の事。 エレベーターがなく、地下街から下におりる時、傍にいたガードマンさんに、ヘルプを求めた。 すぐに、無線でほかのお仲間を呼んで下さり、男の人3人がかり(うち一人は、かなりご高齢とみられるお爺さん…大丈夫か?と思ったケド。。)で、車椅子持ち上げて、降りて下さった。…は、いいのだけれど。 車椅子の扱い、慣れていらっしゃらないのか、下りの階段を、本来ならば、後ろ向きで車椅子を下さなければならないのに(下りで前のまま、いくと、乗ってる方が前のめりになって、落ちちゃう危険があり、大変危険です。)、そのまま向き変えず、降りるものだから、ひやひやしまくりでした。 母も、叔母も、何も言ってくれなかったし…。まぢ、怖かったです。 下まで降ろして下さった、その中のおじいちゃんガードマンの人が、最後に、 『ごめんなさいね。エレベーターなくて。大変だったでしょう。ご苦労様。ほんとに、ごめんなさいね。』 と、最後まで、丁寧に頭を下げて下さった、そのガードマンの方の姿勢に、心が熱くなり、涙が出ました。 人の親切は、宝なり。 でも、間違った知識を持っていると、危険を伴うことも事実です。 人の親切は、嬉しい。でも、時として、その親切が、仇となることもある。 人への支援って、ほんとに、難しい。 自身、障害持って、そしてボランティアで、たくさんの方々に関らせて頂いた中で。 つくづく、そう思わされるのです。 特に、お年寄りの支援には、難しさが伴います。 基準(何の基準だ?)から言うと、十分“ご高齢者”となる方々にも、「お年寄り」といった意識で、接すると、 『わしは、まだそこまで、老いとらん!!年寄り扱いせんでくれ!!』 とすごい剣幕で、怒られる事…あった。。 彼らにとって、自分の『老い』と向き合う事は、自分の敗北を認めるようで、退化していくその体に、絶望し、向き合う事が出来なくなるケースもあります。 『年寄り扱い』される事を、嫌う高齢者は、実は結構多い。 私は、介護施設等で、いろんな方々と接してきました。障害を持った方も、いらっしゃいました。 そんな時、私は、いつも、こう、声をかけます。 『何か、お手伝いしましょうか?』 その時々で、彼らが求める要求はなんなのかを、いち早く見つけ、なるべく一人一人のニーズや要求に答える。 あのおばあさんは、この時間、お茶飲む時間だから、用意しよう。と、準備に取り掛かり。 長く関る中で、数週間もすれば、利用者さんの求める事が、分かるようになっていた。それは、私の中だけでの、自己満足に過ぎない、ただの憶測に過ぎなかったのかも知れないけれど。 もちろん、お年寄り扱いされる事に慣れてきたのか、あきらめているのか、自分を年寄り。と認めて、素直に甘えて下さるお年寄りもいた。 『ありがとう。』 と笑顔で、言われる度に、うれしくなる。 反対に、「構わんでくれ!」と追い返された時には… “何か、対応がいけなかったのだろうか。”とショックを受ける。 逆に、「ありがとう。でもこれは、自分で出来るからいいよ。若いのに、気が利くねぇ」 と言われたりもした。 自分の憶測だけで、あれしてあげよう。これしてあげよう。と、親切心で動くのではなく、何よりもまず、本人にお聞きするのが、一番。 『何か、お手伝いする事はありますか?』 そう聞くだけで、 「じゃあ、これやってもらってもいいですか?」 「これは、自分で出来るからいいです。」 と、その時々の答えを、返して下さる。 私は、ボランティアとして介入していく際に、いつも心掛けていたことは、一方的支援にならないように、あくまで利用者さん本人のご意志に沿う。こと。 自分本位の一方的支援になっては、絶対にいけない。 だが、これが、健康な人ならば、どうだろう? ふと、考えてみた。 例えば、満員電車で、ご高齢の方に、席を譲ろうと、 「ここ、どうぞ。」 と声かけても。 『私は、まだ立てますよ。』 と、断られた時の、気持ち。 『せっかく譲ってあげようとしたのに。遠慮なく座ればいいのに。』 『ちぇっ。』 遠慮なんて、しなくていい社会。 助けが必要な時に、ヘルプする。 必要ない時は、気持ちよく、主張したい。 また、傲慢な譲る気持ちも、ないような。 相手の立場になってみて。 その人の気持ちを、言葉を、素直に受け止められるような。 ほんとは自分で出来るんだけど。 もし断って。 せっかく勇気出して下さったのに、今後、声掛けにくくなってしまい。 今度から、助けが必要な人が、困るんじゃないか…。 そんな事も、耳にした事、あります。 日本人は、やさしいから。 ってのも、良く聞く。 『遠慮して断ってるんじゃないか?』 でも、中には、 『障害者は頼る事に、慣れすぎてるから…。』 という言葉も、よく聞く。 その言葉も、障害者を思っての発言かも知れない。 確かに、人の親切に、ほんとは自分で出来る事も、せっかくの人の好意を無にしてはいけないと、ついつい差し出された手を、受けてしまう事がある。 それは、決して。甘えている訳でもなく。 でも、健常者から見たら、その行為は、『甘え』になってしまうのだろうか? 全て、偏った価値観から、あるんじゃないかな。 障害者には、やさしく助けてあげましょう。 電車の席は、譲りましょう。 とか。 どっかで、習ったこと? PTOに応じて、考える。その時々。 同じように、障害持ってるからって、車椅子だからって、みんなそれぞれ。 あなたとあたしも、違う。 それって、当然の事、でしょ? この頃のあたし。 私は、障害という部分において、精神的にも、周りの人の支えになってもらっています。 たぶん、ううん、きっと、独りぼっちなら、ここまで来られなかったと感じています。 だけど、それと同じくらい、『自分でなんとかしなきゃ。』って思いも、持っていて。 時として、助けてもらうべき時に、素直になれなくて、自分を追い込んでいたり。 『出来ない自分』を責め続けていた。 『何か、お手伝いする事ありませんか?』 そのヒトコトで、伝えるきっかけとなる人は、あたしの経験以外にも、たくさんおられると思います。 自分の事は、自分で伝える。 それは、大人社会の基本です。 それを、こんな風に求めてしまうのは、甘えているのかも知れません。 でも、自立性や自主性だけで、人は生きられますか? 人は、一人では、生きられない。 『泣きたい時に、泣ける社会に。』 『やさしい社会に。』 なれば、いいな…。 『もっと自立に向けてがんばれ。』と。 『あなたみたいな人、もっと前向きに、やってるわ。』 あたしの一部分しか知らない人に言われる。 だって、あまり話したことないし…。 何も知らないのに、自分の価値観だけで、物言われるのって、ほんと…つかれる…。 どっかで、テレビや本で、得たのですか…? あたしは、『車椅子の女性』でもないし。『寝たきりの障害者』でもない。 『寝たきり生活送ってる、一女の子』だと、思ってるし。 あたしは、一障害者だけど、あたしは、あたしという人間です。 って、主張したくなる。。 私は、ここでは、ズバズバ言いたい事、書いてるけど…実際、相手に、言葉として想いを伝える事は、苦手です。相手の事を、考えるあまり、行き違い、すれ違い…揚げ句の果てには、誤解…なんてことも。。 小さい時から、自分の感情を抑え、自分を殺し、怒りさえも自分の内で消化してしまう子どもだった。 過去を振り返り、思う。 自分が、変わらなければならない。 自分はどうなのか?どうありたいのか?どうしたいのか? いつも、周りには、伝えてこなかったほんとの気持ち。 周りも、言えないあたしに気を使い、どうしてほしいのか?どう支援すればいいのか?と気を使わせてもきた。 伝えなければ、伝わらぬ想い。でも、伝える事で、生まれるモノたち。 伝えれば、伝われば、スムーズに事が運ぶ。でも、伝えれば伝えるほど、他人事の悲しみとも、出会う。 心許して、気持ち打ち明けられる人の前では…、ほっとし過ぎて、。気持ち聞いてもらいたくなって…。 一人よがりに、相手の今の、気持ちも考えず…。 そんな一方通行には、なりたくないから、あたしはいつだって、人との適度な距離、保ってる。 仲がいい医療者とも、一定の距離は、守る。 いくら我が子のように可愛がってもらっても、あたしは、患者。 適度な距離を保ち続けるのは、難しいと感じる今日この頃。。。 |
今日は、元彼の、命日です。
5年前の今日。 彼は、骨髄不全からの感染症のため、この世を去りました。 彼と出会ったのは、7年前の私が、小4の時。 彼が、中学2年の時でした。 歳が離れていましたが、同じ小児病棟で、私は彼を兄のように、そして彼は、妹のように、大切にお互いの心の中に、住み始めていました。 私たちは、あるきっかけから、付き合いだし、そして。その2年後。 彼は、骨髄移植を待てず、他界。 私たちが一番、嫌う。感染症で、彼の命は、僅か16年で閉じてしまいました。 同じ病気で(急性骨髄性白血病他)共に過ごし、共に闘病し。 同じ時間を、時を刻んでいた。 彼は、私を本当に愛してくれていました。 決して、子どもじみた恋愛ごっこではなかった。 そんな、小学生と中学生で、本物の愛を築けるわけがないとも、思われますが、私たちは、本当に、愛し合っていた。 無菌室での治療が行われた彼は、その後、重症感染症にかかり、ドナーを待てず。 危篤状態が、続いていました。 付き合っている事を知っていた、主治医の先生と病棟師長さんが、面会謝絶にも関らず、私に面会を許可してくれ、集中治療室で、見た彼の姿に、ただただ、涙する事しか出来なかった。 ずっと意識も戻らず、いつ何があってもおかしくないといわれていた彼。 私が近くに行くと、これまで目を覚まさなかった彼の唇が、かすかに動き、酸素マスクを外してもらって、彼の口から、出た言葉が。 あの、 『俺たちは、みんなに自慢できる生き方、しような・・・』でした・・・。微かに、震える声で、でもはっきりと。彼 の言葉を聞き取る事が、出来ました。 そう言った後、ご両親、妹さん、主治医の先生方、看護師さんに見守られ、彼は静かに、息を引き取りました。。 わんわん、泣いた。彼と一緒に逝きたいとも思った。神様は、どうして、私ではなく、彼を先に逝かすのですか? 最期の言葉が・・・私に宛てた言葉だった。 もっともっと、言いたかったろうに。 傍には、あなたが一番大切に想って、心配していた妹さんが、いたのに。 私は、彼のお通夜もお葬式にも、車椅子で、出席していました。 その頃の私も、状態は厳しく感染症の危険があったのですが、主治医の方に無理を言い、主治医の先生同伴で、彼の葬儀に出ていました。 彼のご家族とも仲良くして頂いていたので、どう声をかけていいのか。。 今何を言っても、所詮綺麗事。 他人事の哀しみだと、捉えられたくはなかったのかも知れません。。 彼の四十九日が終わり、一段落付いた頃。 彼のお母様から、一通の手紙が届きました。 そこには、お母様の我が子への熱い想いと闘病期間中の5年2カ月にも及んだ、あの壮絶な闘いの事など、書きつづられていました。 そして、最後に。 『あの子は、貴女の事を、心から愛していました。短い生涯でしたが、貴女という一人の女性を、愛せた事。恋も愛も知らず、逝くよりは、十分幸せだったのではないかと思います。息子を、愛してくれてありがとう。愛せる女性に出会え、私たち家族も、それだけが、救いです。本当に最期まで、あの子を見守ってくれて、ありがとう。』 という文面が、書かれていました。 私は、その手紙を何度も何度も読み返し、涙が溢れてなりませんでした。 一時帰宅が許された2人は、お互いの家に泊りもした。幸せでした。 彼を失い、私は愛する事が出来なくなり、好きと言う感情が、愛しいという感情が、どういったものか、忘れてしまい、人を拒絶するようになりました。 その頃、大好きだった主治医との別れもあり、自分を見失うきっかけにもなったのです。 彼の命日に近づくこの時期は、毎年様々な想いがフラッシュバックし、いろんな想いが交錯していました。今年は、彼の死をきちんと、ここに書こう。 彼の生きた証を、ここにしっかり、刻んでおこうと思い、、書いている今も、本当に辛いのですが・・・ 堪えて・・・堪えて・・・書いています。 その1年後、今の愛する人に出会うまで。 本当に好きと言えず、誰も何も愛することなく、私は元彼以外、愛する人はいないと、思っていました。 今の彼に出会ってからも、元彼の事は、忘れる事が出来ず。 今の彼にも大変迷惑もかけ、我がままも言い・・・本当にどうしようもない彼女として、彼にいっぱい困らせてしまったのですが。 彼は、ありのままの私を受け止め、受け入れ、向き合ってくれました。 決して否定することなく。 決して、見放すことなく。 再び、愛しいという感情を取り戻せた事。 また、彼を失うんじゃないかと。不安になった夜もあった。 でも、私は元彼の死を受け入れ、そして、今の彼を心から、愛し。 元彼の死を、決して悲劇の悲しい出来事として、終わらせることなく、私は彼の死を見つめ、彼が一番伝えたくて伝えられないままだった。 自分の人生悔いなく、精いっぱい生きる事を、胸に。 あたしはこれからも、彼の死を背負い、彼の生きた証を見つめ、生きていきます。 勇樹へ 貴方がお空へ旅立っていってから、早くも5年の歳月が経ちました。 今、どうしていますか? 貴方と共に過ごした、2年間。 私は、貴方の事をずっと、忘れた事は、ありません。 あの時、貴方が言いたかった事。 あの時、貴方が伝えたかった事。 私はちゃんと、皆に伝えられていますか? 貴方が生きたくても生きられなかった、無念さを胸に。 私は、貴方の事を思うと、胸が痛くなります。 そして、貴方との思い出を振り返るたびに、涙が出ます。 貴方は、こんな私をみて、絶望しているでしょうか。 今の大切な愛する人を見て、嫉妬しているでしょうか。 それとも・・・ホッとしていますか? この世で、私は心から、愛する人を、見つけました。 大切な、大切な人を、心から愛せる人に、出会いました。 でも、貴方の事。 忘れたわけではありません。 貴方との大切な時間を、背負い、私はこの現世の中で、もう一度。 大切な人と共に、自分の道を、歩いていく決意をしました。 ・・・今ごろは、この世で叶わなかった夢を叶え、思う存分、楽しんでいますか・・? 好きなものを食べ、好きな時に寝、好きな場所へ行き・・・大好きだったサッカーを、思う存分・・・やっていますか? 私は、今日も生きて行きます。 あなたの、無念さを抱きながら。 5年前の・・・12月18日へ。 勇樹へ。 |
日本では15歳未満の臓器移植が法律上、認められていません。 私の仲間にも何人もの移植待機児者がいます。 私の心臓病の友達で心臓移植をしなければ半年しか生きられないと宣告された13歳 その言葉に医師やご両親や共に闘い続けた私たちにも大きなショックを与えました。 実は私も移植待機児の一人でした。 年々移植待機児者は増えています。 『移植』それは1つの通過点に過ぎず、そこにまつわる問題は数多く、長い闘いを強いら
日本で臓器移植を。 臓器移植・・・それは自分には関係なく他人事だと思っている人にも、そんな事は遠い未来 日本を変えたい。 そう思っても渡米するために日本を離れなければならない子ども達。
もっと世間の人に難病といわれる子ども達の事を知って欲しい。 生意気でしょうか。自己満足でしょうか。身勝手でしょうか。 だけど、変わらなければ、変わっていかなければ、何も始まらない。 少しでもいい。ほんの少しでもいいから、今の日本の状況や情勢に、そしてその理不尽な、割 病気と闘いながら、死と向き合いながら生きるその一人として、彼らのためになにが出来るか。 生活全般にかけ常に介助や看護が必要な身です。 このインターネットという情報発信の場で、私は伝えて行きます。
|
昔、県立こども病院に入院していたとき。
あたしが入院した翌日。その光景を、見てしまった。
闘友が旅立っても、誰も、スタッフに聞かない。
「生きる」って、「思い出」を重ねてくことでもあるけど。
一度や二度、障害を持つ親御さんは、思うでしょう。
あの時、励ましてくれて、ありがとう。
|
小3~中1までの4年間。
私は、臨床心理士による、カウンセリングを受けていました。 稀少難病を抱え、生活を送るうえで、いろいろな葛藤も生まれます。 病気と向き合う上で、一番大事なのは、受け止め、受け入れる力。簡単なようで、実はすごく、大変な作業です。 入退院ばかりを繰り返し、学校もドクターストップがかかり、行けなかった。 新しい病院に、救いを求めて、セカンド・サードオピニオンをし、はじめて行く病院では、いつも、言われる。 『多機能低下不全症候群……って、、なに?』 医学界でも、知られていないこの病気。 あたしは、何度も孤独感に支配された。 そして、終いに言われる事は、 『詐病の疑い。』とまで、言われる始末。えぇ、もうなんとでも言ってくれ!って感じだった。 誰も分からない。この謎の病。 それを理解してくれる先生は、医療スタッフは、ほんの僅かしかいなかった。 色々問い詰められ、精神科に回されたりもした。 精神的疾患見つけるのに、必死にされてるって、雰囲気で。 精神科ってのに、いい印象持ってなかった。 おそらく多くの人が、『精神科』というものを、あまりイメージよく、思っていないだろう。 過去のトラウマ、いっぱい、引き出しちゃいそうだし。 学校行っていない(正しくは、ドクターストップかかり、行けないのだけれど。)のは、怠けているからだとか、努力が足りないから、病気は治癒しないのだとか、はじめて行った病院の多くは、学校の事を必ず聞いてくる。 『ところで、学校はどうしてるの?』 あなた方は、目の前に苦しみ、自分を頼ってきている患者を、見ようともしないのですか? どこかに、救いはないかと、自分を頼って来ていることを自覚せず、そんな無駄話する時間があれば、教えてください。どうしたらこの病気は、治るのですか? 学校行っていない=登校拒否=不登校。 っていう、方程式が、未だに根付いてしまっている頭でっかちな人は、多い。 病気持って、治療をがんばる子どもたちは、多かれ少なかれ、勉強や進学や将来の事に対し、大人が思っている以上に、敏感に、反応します。 学校行けなくて、いつも家や病院で過ごす事が多かった私は、近所の方に、いろいろ変な目でみられもしていた。 学校ある時間に、母と外へ出れば、 『あの子、学校行ってないみたいよ。』 と、陰口をたたかれ。あたしも親も、辛い思いをした。 あたしの病気、よく知らない近所のおば様たちは、体が弱い私を見かけると、 『病気だからって、甘えてちゃダメよ。』 と、言われもしてきた。 次第に私は、外へ行くのもおっくうになり、誰とも会いたくないと、引きこもりがちにもなった。 何も悪い事してないのに。休みたくて休んでるんじゃないのに。 先生が、行っちゃ行けないって言ってるからなのに。ほんとは、勉強したいのに。学校行きたいのに。 周りの好奇な目は、幼心に、トラウマと化していってしまった。 病院への、医療者への不信感は、そうして蓄積されてしまった。 子ども病院のカウンセリングや総合病院でのカウンセリングなどを受け。 さすがに、精神科へは行かされなかったけど、心療内科に通わされた事もあった。 カウンセリングの先生も、最初は良かったのだけれど、次第に馬があわなくなり、カウンセリング自体が苦痛の何者にもならなかった時があった。 それでも、4年間もの間、無意味なカウンセリングをしてきて。 本当に、体もしんどくて、その事誰にも分かってもらえなくて。 私が不調を訴えると、明らかに検査データー異常値なのに、科学的には説明できないからと、それも詐病といわれ、自分で作り上げる病ならば、どうしらこんな検査データーをここまで異常値に出来るんだ! そんな術があるんなら、教えろ!!と医療者への反抗心が芽生えていった、あたしの心。 でも、理解下さるドクターもいた。 気持ちを、分かってくださる医療者がいた。 ココロの弱み、見せるのって、負けですか? 前向きなまま、強く生きなきゃだめですか? そんな事ないと思うよ。 言いたいよ。 もっと、人に頼ってもいいんだよ。 甘えてもいいんだよ。 人は、みな強くないんだから。 あるカウンセラーから言われた言葉。 『障害者は、頼る事に慣れすぎている。』 『だから、して欲しいとお願いしてくるまで、こっちから何も助けたくない。』と。 健康な人だから、言える事です。 そのカウンセラーの方は、健常者だから。 人のココロ…読むのが仕事なのに、そんな事気にせず、一方的な言葉をかけられるのみ。 確かに私も、こうして愚痴り、悩み、考え、迷う。 それでも、解決できなかったら、人様の意見を聞き、人のお力をお借りすることもある。 でもそれは、障害あるなしに関らず、人が人として、人に、求めるごく自然な事ではないだろうか? 人は、ひとりでは生きていけない。 自分はまるで、ひとりで誕生し、ひとりでここまで大きくなったような言葉をおっしゃっていた、カウンセラーの方に、私は、付いていけませんでした。 でも、ココロやさしい、これこそ、真のカウンセラーの方もいて。 その方には、話を聞いてもらうだけでも、楽になれました。決して否定はしなかったし、生き方を咎める事もなかった。 私は、病気に負けず、がんばってる少女になれない。 車椅子だけど、明るくもない。 だけど、暗くもないよ。 いいことばかり、ここで書けない。 それは、あたしについて、偽りだから…。 私は、悩むこと、落ち込むことを、マイナスだとも不幸とも、捉えていない。 人は、考えるために、生まれてきた。 生きる意味を考える機会を与えてくれた、この病気に、感謝しています。 箱庭療法や認知療法というものを受け、私のココロが、読まれているようで、すごく嫌でした。 そんなもので、私の全てが分かるような口を聞かれ、本当に貴女、臨床心理士さん?と疑問符がつくような、方もいらした。 カウンセリングに通っている意味が分からなく、ただ言われるままに、通い続けた。 4年の月日が経ち。中学1年になったとき、病気は容赦なく進行し、自分を見失いました。 自暴自棄になり、何もかもが分からなくなった。 自殺未遂を繰り返すようになったのも、その頃です。 しかし、私は、ボランティアという自分の居場所を見つけ、そこで自分を取り戻していきました。 その頃に、4年間続けてきたカウンセリングを、やめる事を決意しました。 もう、ここに、通う理由は、ない。意味も、ない。 結局、私は、カウンセリングで、何も、得られなかったのです。でも、あの4年間の時間は、決して無駄ではなかったと思っています。決して、無意味な時間では、なかったと思っています。 私には、カウンセリングは、必要なかった。 もう、私は、カウンセリングを受けなくとも、自らの足で、心の両足で、歩いていけると、ようやく、分かる事が出来たのです。 この時間は、私にとって、結果的には、何も得るものはありませんでした。 けれども、いろんな方面で、いろんな考え方で、自分を見つめられるようにもなった、きっかけを与えてくれたのも、事実です。 そのことに、気づくそのものが、本来の『カウンセリング』なのかも、知れません。 中学生の時、心療内科のクリニックを紹介され、受診した時。ここの先生は、私を人間として、扱ってくださった。そして、決して子どもだからと軽蔑もせず、私と対等に、向き合ってくれました。 車椅子の私の、動かない右手を握り、 『辛かったでしょう。良くがんばってきたね。もう、がんばらなくていいよ。辛ければ、ここへ来なさい。僕は、貴女の病気を、治すことは出来ないけれど、貴女の心は、きっと、げんきになれます。貴女の心は、貴女が思っている程、弱くはありませんよ。ただ、疲れているだけです。ゆっくり、休みなさい。』 と、言ってくれました。その言葉を聞いて、あたしは、ボロボロと涙をこぼした。 先生の前で。診察室で。 その後、病気は進行し、3度通っただけで、クリニックまで、行くことが出来なくなった。 50、60代くらいの先生だった。でも、とても暖かくて、とても、優しくて。 この人こそ、心療内科医になるべきだ!と思った。 病気は決して、精神論で片づきはしない。 そして、気持ちの持ちようで、どうにかなるものでも、ない。 周囲から、精神論を持ち出され、辛い日々を送った。 病気に負けるのは、根性が座っていないからだとか、好き放題言っていた人も、いる。 でも、決して。 精神論で、この病が、奇病が治れば、医者も医療も、医学と言う学問すら、いらなくなる。 精神科や心療内科受診歴があると、医療関係者の多くは、その人の性格や考え方や価値観に、問題があると決めつけ、差別の目でみる。 一度や二度の受診歴が、カルテに、記載されているだけで、どうして、その人の全てを分かることが出来ると言うのだろう。 だれでも、心が疲れる事は、ある。 そして、頼りたい、すがりたい、気持ちになることもある。 救いを求め、話を聞いて欲しくて、心療内科の扉を叩く人もいる。 でも、まだまだ、そんな人は、少ない。 人々の精神科や心療内科に対しての偏見。 『心の病』は、人には知られたくない、自分の問題だと、責め続け、誰にも言えないまま、壊れてしまう。 壊れる前に、心内の扉を、叩くことは出来ないものでしょうか? 心と体は、繋がっています。 心が、しんどい時は、体にも変調が来たし、しんどくなる。 反対に、体がしんどい時は、心まで疲れてくる。 そういう、連鎖反応によって、人間の精神は、成り立っているのです。 医療関係者の皆様、これから医療・福祉の道を歩まれる学生さんへ(って、そんな方、ここにお見えになっているのか?)。 精神科、心療内科の受診歴が、過去にあるからと言って、その人自身の性格に問題があるわけでも、精神が弱いわけでも、努力が足りないわけでも、ありません。 心理検査などだけで、患者自身の心を、分かったつもりには、ならないで下さい。 あなたにも、弱いところがあるはず。 強い人間なんて、この世にひとりとして、いません。 弱い部分を持って、強い部分をもって。 そうして、互いの相互作用が働き、はじめて、『自分』という人格を形成していくのです。 精神科、心療内科への偏見と御解が、なくなり、もっと辛い時に、風邪の時に内科にかかるのと同じような感覚で、自分を見失ってしまう前に、壊れてしまう前に。 受診され、自分の心を向き合う場を作って頂ければ・・・。 って、なんだか、偉そうに。。 反感、買っちゃいますかね・・・。 申し訳ありません。。。 |
目見えなくなっちゃって、いいの?
『やぁ、どうしたんだい?入院してるの?』 そう、話しかけてくれた先生は、さっきまでの険悪な雰囲気は、感じさせなくて、いつもの
何で他人なのに、そこまで深く考えちゃうのだろう・・・。
『さようなら。またねぇ~』 と言って、頭、よしよししてくれた、先生。
『あの子、可哀想に。』 などと、言ってた人たち・・・。
|
病気が進行していく中で、新たな決断を迫られた日。 いっぱい、どん底にいて、そこから這い上がる事も出来ず、ただ、この暗くて冷たい場所から、
放射線治療か抗がん剤治療か。
「無理もきかなくなってしまった・・・身体」 その事が、辛い。贅沢・・・ですか。。。?
試練の連続でも。 |
| ホーム |
|