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生きるということ

仮死状態で生まれた私にはいくつもの障害があった。
だいたいの事は出生前診断で明かされていたにも関わらず、それらとは明らかに異なる病態が多数存在した。


両親は混乱したという。


しかし胎児診断で早期に発見できた事は幸運だった。もし何も解らずにそのまま生まれていたら、十分な医療を行えず、不十分な体整での出産は私の生命予後を左右したに違いない。
そしてまた、母の生命も脅かされていただろう。
 
生まれた私はとにかく危険な状態だった。
痙攣し、無呼吸発作は止まらず、全身チアノーゼ。自力では呼吸すら出来なかった。
425グラムで生まれた私は、全身の多発性骨折をしていた。
種々の検査により実に沢山の異常が見つかった。医師も困惑したと言う。


当時の両親の心境はどんなものだったのだろうか。想像するのは簡単だが、理解には苦しんだ。
なにしろ私は、病児そのものだったのだから。親の苦しみは想像に苦しんだ。
我が子を必死で死から守ろうとする両親の決意と覚悟は、想像をはるかに超えた。
僅か生後数時間での余命告知はどんなにか辛かっただろう。この子が成長するとは思えなかった、
と医師をはじめ皆、口々に言う。


そう、私はいつ死んでもおかしくなかった。いや、胎児期を乗り越えて出生にこぎつけた事さえ軌跡
だったのかも知れない。
 
[お嬢さんは長くは生きれません。]
この言葉を聞くたびに両親は胸が締め付けられたと教えてくれた。
それでも覚悟は出来ていた。お腹の中で重度な障害を抱えていると言われたあの日から。
私を受け止め、受け容れてくれた両親の決意と覚悟は相当なものだった。
どんな想いで私を育ててくれたのだろう。どんな想いで私と接していたのだろう。
知りたいと思うと同時に知りたくないという想いもある。
 
重い心臓病、呼吸器、消化器、腎臓、神経、代謝内分泌、骨、筋、血液、視覚、聴覚・・・
生まれた時から私の臓器はほとんどが機能しなかった。
未熟だったせいもあったが、その後もほとんど機能という機能は果たせていない。


栄養も常に不良だった。
口からは栄養を取れない。摂ってもすぐに吐くか全て消化できないままに下した。
慢性の消化器障害、消化酵素の欠損などで、栄養状態はいつも悪かった。
厳しい食事制限は生涯付きまとう。
病院にいるときはほとんど点滴からの栄養だった。大変だったのは在宅医療に移ってから。
厳しい食事制限の中で、母と祖母は特に気を使った。


 [いのちがあるだけでいい]
父も母も、祖父も祖母もそう願ったという。


 [いのちさえあれば何だって出来るんだよ]
私は小さい時からそう教えられた。しかし、思う。


 [健康であってこそ、何でも出来る]と。
健康でなければ、例えいのちがあったとしても好きな事は出来ない。と。
私には、そう思えてならなかった。


生きるために何かを犠牲にしなければならない。
私の場合、それが夢であり自由だった。
身体が動かない苦しみはなった人にしか分からないだろう。


生きる事に必死だった。私も両親も。
今日を生き抜くのが精一杯で明日の事なんて考えられない。
そんな日々の中、生きていた。


[1歳まで生きれるか保障はありません]
そう言われたあの時から17年。当時の医者も両親もこんなに長生きするとは誰も思わなかっただろう。
今だから言える。あのときの事をもちろん私が覚えているはずはない。
両親や当時を知る医師と連絡を取り、教えてもらった。
当時のカルテも見せてもらった。
胎児診断で早期に異常を指摘してくれた医師、当時治療を行ってくれた医師達の名前すら解らなかった。
両親は医師の名前を覚える余裕もなかったのだ。
今は異動や退職したりして、彼らを探すのは安易な事ではなかったが、どうしても私は自分の生い立ちを
しっかりと確認しておきたかったのだ。
今の主治医や数々の医療関係者、彼のお陰でやっと当時の医師達と連絡がつき、そのときの状況を
詳しく話してもらえた。
当時の医師は私の事を覚えていてくれた。
そして[生きられない]と言われた子が17年の歳月を生きている事にびっくりしている様子だった。
ある医師が言った。[医学は100パーセントではない]と。そして[この世に起こる全ての事に絶対はない]
のだとその医師は言ったのだ。
 
[1歳まで生きられない]
そう告知を受けた子が17年もの歳月を過ごしてきたのは、軌跡だと言っても過言ではないだろう。だが、私はあまり[奇跡]という言葉が好きではない。
医学は[奇跡]で成り立つものではなく、根拠のある元で行われる科学なのだ。しかし世の中では、常識
を覆すものは存在する。私の例をとってしてもそれは明らかなものとなるだろう。
 
多数の世界的な文献の中で、私の疾患の数々は、明らかに生存率が低い。予後も決して良くないもの
ばかりだ。ある文献では2歳までに100パーセントの児が死亡、という文献もあった。
予後を聞いても、どんなに死亡率の高い話を耳にしても、私には動じない心があった。
自分でも不思議でたまらない。死は怖くないのだ。


いつだったか、小学3年生か4年生か非常に死に過敏になった時期があった。
仲間が立て続けに亡くなったせいもあったのかも知れない。
死がたまらなく怖く恐ろしくなり、夜になるのが怖かった。昼間は何ともないのに夜になって、皆が寝静まる
頃になるとフラッシュバックのように死に対してのイメージが強烈になって、悪夢が襲ってくる。
夜になるのが怖かった。いつも頭の中は死のことばかりだった。
仲間の死を自らの死と両親や祖父母の死さえも連想した。何度枕を濡らして眠った事か。
朝起きたときには目が腫れ、顔は浮腫んでは両親や主治医に[腎臓か]と心配されたものだ。
しかし、死と向き合い乗り越えられた時に、自然と死に対しての恐怖はなくなった。
ある意味で根性が座ったのかも知れない。
 
[死は全ての終わりではない。死から始まる物語もあるはずだ]


それが私が出した答えだった。死から始まる物語があってはならないとされる決まりがあるだろうか。
事実、亡くなった仲間たちは今も私の中で生きている、確かに存在している。
目には見えなくとも確かに私の記憶の中で、今も生き続けている。
そう思うようになった時、私の中で死は恐ろしいものではなくなった。
そして全く死を怖く感じなくなったのだ。
それもかなり怖いものである。


まったくの不安や恐れがないと言えば、それは、嘘になってしまう。
けれども、あの頃のただ迫り来る死に、不安に陥っていた頃を思うと、今の私は自分の死に対しての不安より、私の死後、家族はどうするのだろう。生きていけるのか。といった、心配である。
決して強いとはいえない父は、娘の死後、受け入れ、泣き虫な母を支える事が出来るだろうか。
まだ幼い弟は、姉の死を受け入れる事が出来るだろうか。
年老いた祖父母は、生きる希望を、見失わないだろうか。


だから、今は思う。
せめて、祖父母を看取り、叶わない夢だが、両親を看取ってから、自分の死を覚悟したいと。
それが、世間では、「当たり前の順序」と思われがちだが、それが叶わない人もいる。
だが、人間の致死率は100パーセント。いずれ、生きるものは、この世を去る。
だから、自ら死に急ぐことはない。


私は、この世に生きる、ひとりの人として、難病を背負った病児として。
この世に何かを残し、後世の人々に伝え続けていければ、と思う。
そのために、私が私であるために、私は、今日も書き続ける。
それが、私の人生だと、そう胸を張っていいたい。

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【2006/12/29 13:49 】 | 病気 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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