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伝えたいこと。
あたしは今まで、最高のドクターと出会い、最良の医療を受けてこれた。と自負しています。
けれども、医師と患者の関係を超えた、信頼関係を築く事は、それまでの道。決して平坦なものではなかった。
医師と治療の考え方の違い等で、対立もし、すれ違いも生じた。
私は今、自分が納得し、現時点で最善だと思われるの治療を受けたいし、自分の治療には納得と覚悟をして受けたいから、知らない事は聞きまくるし、知ってる事も聞きまくるし、自分で専門医並みに勉強もした。矛盾している事も、問いただす。
医療側からみれば、面倒な患者だと思うし、そう想われている雰囲気も感じる時があります。

私の病気は難病だけど、医学は日進月歩だし、日本や世界で、今、どのような最先端の治療が行われているのか?
自分で知れる範囲は調べるし、それが、自分に合っているか?は分からないけど、その部分で医師との感覚な違いはあるのかもしれない。
専門的な知識はあると言っても、あたしは素人。
学校で学んだ訳ではない。まったくの素人で、独学で身につけたもの。けれど、自分の体だから、知れるとこまで、知りたい。知り尽くしたいと思う。

でも、最近。
その、知りたい。と思う裏側に、「知り尽くす恐怖」も存在している。知れば知るほど、恐ろしくなる。
知らないと漠然とした不安が残り。
知りすぎると予後が見通せる確実化した恐怖が襲う。どちらがよいのか?
それは個人の裁量に、委ねられるだろう。

時には、先生にこんな治療はどう?とネットや本で調べた、意見を言うし、それが先生にしたら、失礼な事や生意気な事と受け取ってしまうのかも知れない。
それに、あたしにも、何事にも気長に。という長所がなく、焦る事ばかりで、我がままな部分もあると思う。

けれど、=先生を信頼していない。とは違うのです。
先生に聞いたりしているのは、信頼しているからだし、(先生の話の前後に)矛盾しているとあたしが思う事に問いただすのは、先生なら答えてくれるだろうと思うから。そもそも信頼してなかったら、外来も行かないだろうし、先生の顔もみたくないと抵抗する。

治療について、これでよいのか?今より他の治療法は?とか、悩み迷う部分もあって、自分でもいつも吹っきれる事が出来なくて、調べたり、聞いたりしてるのです。
そういう愚痴とか、訪問看護師さんがカルテに書いたりなんかして・・・先生の耳に入ったりする事もある。
先生のご機嫌損ねてしまう事だってある。
そんな時、あーもう誰にも言えないな。とあたしの中の信頼関係が崩れていってる感じもする。

そもそもこう言う事は、書きたくないんだけど・・・。
医師も看護師も、家族ではないし、あくまでも第三者。医者は患者と家族にはなれない。なってはいけない。あくまでも基本は、第三者としての意見や行動しか起こさない。
カルテに書くのは業務だし、読むのも仕事。
でもそこに、感情が動くのは、人間だから。
家族や友達なら、こんなすれ違いは起きても、話し合って埋めあえる小さな事でも、医療という現場ではなかなか、難しかったりする。
人の痛みを分かる人が、医療現場でどれだけ働かれているのか?
疑問も生まれたりする。
(反対に、医療従事者の痛みも、患者として分かち合いたいと思う。)

日本には、自分の意見を持ってる患者、こうして欲しいこれはして欲しくないと自己主張の持てる患者は、苦手だというような、印象を受けます。
周りは、話に聞く範囲だけど、依存的な患者さんが多いみたいだし、治療方針を話し合うのは家族が中心だとか、本人は話したくない、こうしてネットもメールもしたくない、うつ状態で、ベッドで一日中居る・・・という患者さんが大半。だという話をよく耳にします。
身体状態のレベルも悪く、末期の患者さんも多いのだけど、依存的な患者さんは得てして医療者からは扱いやすく、自分の意見をはっきり持ってると、自己主張が強い(我がまま・扱いにくい)といわれる。

自己主張が強い=我がまま・扱いにくい。
と思われている現況について。
何をもって、我がままと捉えられるのだろうか。
何か、確立したマニュアルでも存在するのか?
自己主張は、一個人の、人間として、当たり前の主張であろう。それを医療の場においては、自己主張が強いと、「我がままと」思われる。言われる。

げんきになりたい。と思うことは、我がままだろうか?
治りたい。と思うことは、いけないことだろうか?
例え難病で、治ることはない、進行性の病だと告げられても、かすかな希望をみることは、それを主張することは、自己顕示欲が強いといわれないといけないことだろうか?

自分の体だから、知りたいと思う。
愛する、守りたい家族や友人、大切な人たちがいるから、生きていたいと、思う。
その想いを、大切に、いのちを支えてほしいと思う。
あなたにも大切な人・守りたい人がいるように、患者にも大切な家族がいるんです。
彼らのために、自分が死ぬわけにはいかないと、働き盛りの人は思います。
自分が死んだ後の、家族の暮らしを一番に、考えるからです。
そうおもうのは・・・間違っていますか。
所詮医者も、他人事だから。
病気さえ見てれば、患者のことはどうでもいい。
そんなお医者さんが一人でも存在していることは、悲しい。多くの医者が患者を助けようと、生活を守ろうとしている。その傍らで、「病気」だけを見て、患者をみれなくなっているお医者さんがいる。
一人でもそういうお医者さんがいることで、多くの患者のためを思い、必死でがんばっているドクターたちの世間の見方や信用も落ちる。

どうせ医者なんて。どうせ医療なんて。
病気になったって、何もしてくれない。
そうして、どんどん、医療への不信は募っていく。

医師がすべて悪いんじゃないのに。
責任を、医師に転化している患者にだって、多少なりとも責任はあると思うけど。
でも、その両者の想いを確認し、埋めあうことは、今の現場では、難しいと感じる・・・切ないけれど、伝えられない想いが存在してしまう。

人間関係はお互いに、言いたい事言い合った方が、より深まり、だけど、何でも話してね。と言ってくれるけど、それは理想論の話で、現実はなかなか難しい・・・。
最近の若い人は傷つきやすい人も多いし、ほんとに自分の意見を言うと、意見を受け入れてくれなかったと、捉えられる事もある。
なんか、悲しいです・・・。

ケアを受ける側は、和やかな雰囲気で、お互いの関係を持ちたいし、決して、いがみ合ったり、信頼を失くすような関係は持ちたくない。
だから、言いたい事を黙って、医療者を受け入れる患者さんも多いんじゃないかな・・・。
でも、自分の体だし、誰も責任持ってくれない。
あたしの過去の誤診事件もそんな初歩的な事から、起きた事だったと思う・・・。

あたしはこれからも、今、自分がどうしたいのか?
しっかり考えようと思う。
人の気持ちや意見は、なかなか変える事なんて出来ない事だし、自分の行動や心の受け止め方を変えるしかない。
病院選びもそこから始まるのかもしれない。
私の周りのドクターたちは、とても良い信頼できる、患者の人生をも診てくださる素晴らしい名医に出会う事が出来、常に納得の医療を与えてもらえた。
その環境にいる事を、改めて幸運に感じ、感謝したいと思う。

また、重度障害者でも、車椅子でも、例え寝たきりとなっても、
今何をしたい。何を食べたい。何のテレビを観たい。何を買いたい。どこに行きたい。
は、人間として基本的な欲求だと思うし、たとえ、周りがそれによって、サポートという提供があっても、負担にならずに、お互いに適切な時に適切な量のサポートをしたい。
意欲的な患者さんが増えると、負担が大きくなる事も現実だし、時々、こちらが、意欲を失くさせるような、あきらめるような事を聞いたりしたくないし、して欲しくない。
綺麗事で終わりたくないし、出来ると信頼しているし、何が出来るか分からないけど、出来る範囲で協力したい。

そんな偉そうに、寝たきりの重度障害児が言っても、現場で働く皆さんには、何の慰めにも励ましにもならない。
患者って、こうして医療の中で埋もれ、あたしも偉そうに書きながら、自信喪失していくんです・・・人間として・・・。
うつ状態になって、何もやる気の起こらない患者さんの気持ちも分かるし、でも、みんなに心は元気になってもらえるような世の中にしたい。
これも、こんなあたしが、何できるかわかんないけど・・・。

まずは、何事にも自分の心にめげない様にすること。最低限は、自分を卑下しないようにしたいです。


最後まで、読んでくれてありがとう。
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【2007/06/07 02:06 】 | 日々の日常 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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