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障害と折り合い。
今日は告白してしまいました・・・。
あー、恋ではないです。残念ながら・笑。

今まで、気持ちに秘めていたことです。
ずっと、言えなくて、自分の考えが間違っているのか?合ってるのか?わかんなくて。
そんな答えなんて、ないんですけどね・・・。

自分の答えで、誰かを傷つけるのが、怖かった。
たとえ、あたしは傷ついたとしても・・。まぁよいのです。
誰も傷つく事はない事、分かったから。
何か、自分を過小評価しすぎるのもダメだけど、過大評価しすぎるのも・・・どうなんでしょう。

ケアに入られてる方に、「してやってるんだよ。」
みたいな言い方されると、・・・・。となります。
何かあぁいう自分はどんなにえらい存在なんだい。というのは、嫌ですね・・・。人間の汚い部分みるみたいで。あたしはしてもらう事が多いので、小さい存在だなぁと自覚できるので、まだ幸運かなぁと思いました。

自分を自分で過大評価していると、いつか、落とされる時が来るような気がして・・・。その時のショックって大きいだろうし、たぶん落とされた時も、プライドが邪魔してしまうと思う。
困った時に、人の助けに甘えられる人が、ほんとの人のためになることを知ってるんじゃないかな・・・?
と思ったりする。・・・わかんないけど・・・。


今日はリハビリを休んだ。異様に右足が痛い。注射打ってもらうけど、効かない。。血液担当医から、「無理しないように。」といわれたので、この状況でリハやっても、周りに迷惑かけるだけだし、先生の言葉に素直に従う事にした。でも・・・リハビリを休んでしまった事に・・・自己嫌悪。。

午前中に透析専門ナースの訪問。午後には一般ケアの看護師さんの訪問があった。透析専門の訪問が、なぜか午後からとなっていたみたいで、「今日は午後からと聞いた。」と連絡が入り、びっくり・・。「いや、午前中に・・・」とお願いすると、「ごめんなさい。1件回ってから、うかがいます。」と。。前回に確認を怠ったあたしの責任であり、看護師さんは忙しい思いさせてしまったかもしれない・・・ごめんなさい。

毎度の事だから、言わなくても分かってくれるだろう。というのは、在宅ではなしだと思ってる。
私の常識は、相手からみれば非常識にもなるわけです。利用者さんはあたし一人じゃないんだし。
あたしは、自分のサービスを受ける立場なのだから、しっかりしないとぉ・・・って反省。。
だけど、あたしも自分の事とは言え、完ぺきには出来ない。

夕方、バルンが詰まり、お腹が張る。血液担当医の訪問時間と重なり、診てもらう。「今すぐ、バルン交換が必要。場合によっては膀胱洗浄。」といわれるが、2時間ほどして、流れもよくなったので、このまま。

何だか、いつも監視されてる日常には疲れた。もうだいぶ、ひとりのじかん。持ててない。たとえば、健康で働いていたとしても、世の中いろんな人がいる。自分と意見や考えが合う人と付き合っていられないわけです。だからと言って、働いていないあなたは社会経験がないから、人の付き合いが未熟なんて、言われたくないです。

まぁあたしは、未熟ですけどね。社会経験なんかなくても、人間ある程度の年齢を超えれば、それなりに大人な考えになるんではないでしょうか?
学生の間もいろいろ、葛藤もあるしね。。
逃げてばかりでは生きていけないのです。。
あたしは今、「健全な患者」「健全な障害者」を求められている気がします。ひしひしと。それが重くて疲れました。そもそも、「健全な人」なんているのでしょうかね・・?そりゃ、犯罪や世の中の常識は、犯さないくらいの健全さは身につけるべきだけど、何もかも完璧で完全な(健全な)人なんていないし、いたら気持ち悪いし、どこにも魅力ないよ。

それでも、白衣とジャージの人たちは、健全さを求めてきます。。おとなしく言う事を聞く。言いなりにしやすい。ざっと、こんな感じですか?
だれとでもうまく行くには、必要不可欠な要素でしょう。誰もが扱いやすいという点においては・・・。
もはやあたしという人格を消すしかないようです。自我とは、自ら(みずから)の我(われ)と書きます。
我を出しすぎると、わがまま(我がまま)になり、我を消すと、我がないつまんない人になってしまいます。協調性において、我を出したり、引いたり、自分なりにコントロールとりながら、人間関係を学んでいくようにあたしは思います(これまでの未熟な人生経験ですが・・・)。

障害者が我を出すと、我がままな人といわれる事がよくあります。よく考えてみれば、障害者として生きる事が、わがままな姿だと、最近気づきました。
自分からは動かず、人形のように着替えさせ、『水飲みたい。』と、コップに水を入れてこさす。

歩ける人なら、なんじゃ自分でしない、わがままな人!でしょう。
あたしは障害がある特権で、人を動かせているかのように見える事実に、はっとさせられました。
歩けない、自分で自分の事が出来ない事の苦痛・・・を自分の事として想像できない一部の歩ける人からみれば我がままな!と日頃から見えてしまう事に・・・。


話は変わりますが、「会おうね。」という言葉を、私はいかに無責任に使っていたかに気づいた。
全介助を必要とする身で、いかに大変であるか。
もう私は、以前のように、ちょっと出かけてきます♪みたいな呑気に言ってられる場合でもなく、私が外に出る事は、呼吸器から透析器具・酸素ボンベなど大きな大きな荷物になる。

そんな状況で、「会おうね。」と気軽に言える立場ではないなぁと・・・。

もちろん会いたい。元気になることはないことはわかってるけど、回復の望みもあきらめたわけじゃない。でも、「いつか・・・会えたらいいね。」って消極的なことしかいえない自分に苛立つ。

昨夜ちょっとしたことで、家族喧嘩。
家に重度難病児者がいるというのは、何かと一人一人の負担の積み重ねで、それは中にいても外にいても、病気や障害が進んでしまえばしまうほど、家族の負担が増えるのも事実。1日何も動かず・・・ずっとベッドで、食べて排せつのみして生きていく方が、介護者には楽なのかも?・・・など、日本の「寝たきり」は「寝かせきり」の現状も、わかる。それも、家族は、私を愛して思ってくれる気持ちで、こうして手をさしのべてくれるわけだ。これは難病とともに生きる私の一考えであり、それ以上の、それ以外の、何ものでもありません。私は私の思っていることしか書けないので・・・。


ようは、障害を持ちながら、どう周りと折り合いをつけ、暮らすかということ・・・なのだと気づきました。
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【2007/06/23 16:45 】 | 日々の日常 | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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