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ボランティア日記?
いくつかの養護施設から面接を言い渡されました。
肢体不自由児養護施設。
知的障害児養護施設。
情緒障害児養護施設。
病弱児養護施設。


肢体不自由児は1カ所の施設から。
知的障害児は2カ所の施設から。
情緒障害児は2カ所の施設から。
病弱児は、1カ所の施設から。


面接を頂き、各施設と連絡を重ね、面接の日取りを取り、向かったあの日。


私にとって、新たな出会いの場所となりました。


まず最初に向かったのが、肢体不自由児養護施設でした。ここで、私は多くの事を学ぶ事になります。


電車に乗って、バスを乗り継いで、行きました。
家から1時間半のこの場所で。いろいろな想いを抱く事になります。
責任者の方と面接をし、その場でOKを貰い、活動日と支援内容を決めました。
ここでは、月・土の週2日。午後2時から夕方5時まで。活動に入りました。児童との関り。レクリエーションで一緒にゲームをしてあそんだり、子どもたちと企画をしたり、時には訓練のサポートをしたり。相談に来る小学生の子もいました。車椅子の彼ら。動けない彼ら。それでも、自分の意思と人生を歩いてくその生き様を見て、未来の自分の姿を、重ねてみた事もあります。
でも、今は、私に出来る事を。精いっぱいの形でやろう。それが、私を突き動かしていたたった一つの、キモチでした。


次に、面接に向かったのは、情緒性障害児短期治療施設でした。ここには、不登校の子や知的に発達遅れはないのに、学習が出来ない子。不安が強く、人前で話すことが出来ない子。など、情緒的に何らかの障害を抱えている子がたくさんいました。
私はここで、子どもの心理というものに、向き合い、そして自分というものを取り戻す場所でもありました。
人間的に、多くの事を磨かせて頂いたような気がします。
情緒障害児短期治療施設は2カ所、面接を受け入れてくださいましたが、最終的に活動に入るのを、受け入れてくださったのは、1カ所だけでした。
受け入れてくれた施設での活動は、火・水の週2日。火曜日は9時から12時まで。水曜日は9時から5時まで。
家から、電車を乗り継いで、毎週通いました。


そこで出会った、一人の女の子。
対人恐怖で、目を見て話す事が出来ず、いつもひとりでいるような子でした。私は、活動に入ったその時から、彼女の事は気になっていましたが、話し掛ける事が出来ず、日々の忙しさに紛れ、彼女と接点を持つ事が出来ませんでした。


ある日。
スタッフと話をしているとき、彼女が私に一通の手紙を渡しました。そして、「後で、読んで!」と言って、タッタた、と走り去っていきました。
その日の帰りの電車の中で、私は貰った手紙を見ました。
『仲良くしてください。』と書かれたその手紙を、私は彼女の心のうちを、少しだけ、見たような気持ちでした。それから、私と彼女との文通が始まりました。
活動に行くときには、必ず彼女へ渡す、手紙を入れていきました。ほかのボランティアで忙しく、書けなかった時には、電車の中で書き綴りました。
そうして、彼女の信頼を得られたと思ったとき。
彼女は突然、お父様に連れられ、治療施設からご自宅に戻る事になったのです。
彼女は、『ほんとはね、帰りたくないの。』と手紙に書いてくれました。けれども、たかがボランティアでしかない私は、止める事も、彼女にだいじょうぶよ、とも言えませんでした。そして、迎えた彼女とのお別れの日。彼女の強い意思で、私の活動日に自宅へ帰る事になったのです。後で、それを知ったとき、もっと彼女と話せばよかった。と後悔しました。


お別れの日。
お父様の車の窓から、寂しげにこっちを見る、彼女のあの顔が、あのまなざしが忘れられません。
『さよなら。Ressarちゃん、ありがとう。』
と言って、さよならしたあの日から、5日後。
彼女が手首を切り、睡眠薬を大量に飲んで、亡くなったという訃報を施設のスタッフから、聞きました。
一切のボランティア活動をその日はお休みして、私は彼女のお葬式に出ました。そこには、あの時見せてくれたとびっきりの笑顔で、笑っている彼女の姿があった。穏やかな顔で、眠っている彼女を見ると、涙を止める事が出来なく、本当にやりきれない思いでいっぱいでした。どうして、あの時。
『帰りたくないの。』
と言った彼女の気持ちを無視してしまったのだろう。あの時。私がスタッフにでも言えば、彼女は自分を苦しめる事はなかったかも知れない。
あの、さよならが本当の、さよならになってしまうとは。誰が思ったことでしょう。
あの子の想いを分かる事なんて、出来なかった。
ボランティアをしていて、初めての別れでした。


それでも、私はボランティアを続けます。
ここで、やめれば、彼女の死が無駄になってしまうようで。彼女が伝えたくても、伝えられなかった思い。
その想いが、なんだったのかは今でも分かりません。
でも、彼女のためにも、私は彼女とであったこの場所を、続けていきたかったのかも知れません。


【2006/11/07 15:45 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
特養を2週間で、やめてしまった事は、私の中で大きなマイナスのダメージを与える事になりました。せっかく受け入れてくれた数少ない施設。なのに…自分の都合で、やめなければならなかった事を、ずっと責め続けました。それでも、ずっと、ウジウジしている訳にはいきません。次のボランティアが待っているのです。
私は、目の前にやる事があると言う事だけで、前へ進んでいく事が出来ました。若さゆえの、パワーだったのかも知れません。体は、ほんとに、辛かったんですけどね。精神面では、ボランティアとしての存在が、大きな力となっていました。


暫くは、在宅サービスステーションM、一つだけに絞る事にしました。もう、無理をして、特養のように、自分の都合だけでやめてしまう事が、許せなかったのです。それが障害を抱えながら社会に一歩出た、社会への、施設への、利用者への、スタッフへの、最低限のマナーと精いっぱいの配慮でした。
Mディサービスセンターは、週1回土曜日の午前中だけ活動に入りました。初っぱなから焦り、特養のような過ちを、もう二度と、繰り返さない為に。


Mディサービスセンターの初めての活動日。
特養である程度の、関り方を知った私は、積極的に利用者さんの輪に入っていきました。人と関る事が、出来なかった、私。人と関る事を拒絶していた、私。そんな私が、自ら積極的に、話し掛けられるとは、自分でも驚きでした。ただ、ここに入った以上は、彼らと向き合いたかったのです。自分が望んで、入ったこの世界に。責任と誇りと、プライドを、持ち続けたかっただけなのかも、知れません。


Mディサービスの責任者Kさんと一緒に、活動場所の2階に連れて行かれ、スタッフや利用者さんに紹介してくれました。


K責任者「今日からボランティアとして働いてもらいます、Ressarさんです。」
私『Ressarです。よろしくお願いします。』


「きゃぁ~可愛い名前!!」


と、どこからともなく、スタッフの声が聞こえてきました。何とも明るい、このディサービスセンターが、私は好きでした。特養とは違う、明るさやオープンさ、そして、スタッフと利用者さんの対等さ、時には利用者さんを人生の先輩として、尊敬しているスタッフの在り方に、特養にはなかった、ものを気づかされました。


初日に、いろいろな方と触れ合い、さっそく仲良くなった利用者さんもいました。


利用者さん「また、来てくれるか?」
Ressar『これから毎週土曜日にこの時間に、来ます。』
利用者さん「待ってるで。来週やな。来てな!」


と、手を握ってくれたおばあちゃん。
私は、涙を見られないように、そっと、手の甲で涙を拭いました。私を必要としてくれる人が、いる。ただ、それだけで、私は自分の存在価値を明らかにでき、認めてくださった利用者さんやスタッフ。そして、受け入れてくださったこの施設に、ただただ、感謝するばかりでした。


翌週、土曜日。
朝早く、9時前には家を出ました。ディが始まるのは、10時。自転車で、片道40分もかかるのです。普通なら、自転車で20分でいける距離。でも、心臓病の私には、とても、ゆっくりゆっくりしか、行けなかったのです。いつも不整脈が起きていました。活動中は笑顔をつくり、しんどそうな表情は一切見せず。
でも、通勤途中では、何度も自転車を降りて、休憩しなければなりませんでした。肩で息をしながら、チアノーゼを隠し、Mディサービスセンターの職員駐輪場に自転車を止めて、息を整えました。そして、活動に入る前に、強力な不整脈を抑える薬と、発作止めの薬を飲み、活動に入る事が、日常でした。


母は、あの頃の事を、こう語ります。


『見ているのも辛かった。帰ってきたら真っ青で、玄関で座りこむのを見て、それでも続けようとするあなたが、信じられなかった。』


と。家に帰る途中で、何度も意識を失いかけました。それでも、気力だけで、帰路にたどり着き、家の前で立って待っている母の姿を見ると、ほっとして、そのまま意識を失ったこともありました。
発作で肩で息をしながら、チアノーゼで全身真っ青になりながら、意識も定かでない私の背中を必死でさすってくれた母の姿を、今も思い出します。


『また、来てくれたんか。もう、来てくれへんと思ってた。嬉しいわ』


私が流行性の風邪にかかってしまい、週一回のディでの活動をお休みしていたとき。利用者さんから発せられた言葉。そんなに、私の事を思って、待ってくれている利用者さんやスタッフがいる事を知り、涙を拭うのももどかしく、とても嬉しい気持ちで、暖かい涙を、初めて流しました。


Mディサービスでの活動を3回程行った3週目の事。
センターから一本の電話が入りました。


担当者「Mディサービスではどうですか?何が困ったことはありませんか?」
私『順調です。』
担当者「そうですか。それは良かった。そうそう、病気の子どもに関するボランティアですが、いくつかの養護学校から面接をしたい。とのご連絡を頂戴しました。特養での件もありますし、今はMディサービスだけで精いっぱいだとは思うのですが。どうされますか?」
私『行きます。面接の日取りは?』


私は迷わず、そう答えていました。何も、考えずに。ただ、考えるより先に、口に出していました。
どう考えても、今はMディサービスだけで、精いっぱいなのに。これ以上重ねると、また、特養での同じ過ちを繰り返してしまう事など、分かっていたはずなのに。
冷静に考える事が出来ていなかったのです。
ただ、私の中ではある決定(けつじょう)のようなものが、出来ていました。


“もう、二度と同じ過ちはしない。責任と誇りを持って、やろう。”


僅か、中一だった私の古い日記帳にそう、記されています。


【2006/11/07 15:44 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
特養で、週5日の活動をする事になった、初めての活動日。
所属する事になった2階へ行くと、スタッフが忙しく働いていました。何をすれば良いのかオロオロするばかりだった、私に気づいた一人の職員が声をかけてくれました。


職員「大丈夫よ。皆が揃ったら自己紹介して。後は普通にしてればいいから。」


利用者さん、スタッフが全て揃った所で、職員に促され前まで行き、自己紹介する事になりました。


私『今日からボランティアとしてお世話になります、Ressarです。よろしくお願いします。』


名字だけを述べた私に、スタッフから、

『下の名前も!下の名前が可愛いんだから!』


と、言われ、下の名前を言って、


『歳、言ったら皆、びっくりするから!』


私『13歳、中一です。』


と照れながら、言うと、どこからともなく盛大な拍手をもらいました。人前で話す事に慣れていない私は、とても、恥ずかしくて照れながら、ドキドキしまくりでした。適当に、利用者さんの輪に入り、おしゃべりをしていると、ある利用者さんとスタッフから質問攻めにあいました。


スタッフ「どうしてこのボランティアに就こうと思ったの?」
私『自分が幼い時から病気で…。だから今まで沢山の人からもらった恩を世に返したいと思ったからです。』
スタッフ「すごいねぇ。ねぇ、○○さん。まだ中学1年よ。あたしが、中一の頃なんて、何も思ってなかったわぁ~」


と、利用者さんに話し掛けます。
スタッフの利用者さんへの接し方を見ていくうちに、次第に利用者さんへの関り方を見につけました。


スタッフ「将来はやっぱりこういう仕事に就きたいの?」
私『一応、お医者さんを目指してます。』
スタッフ「お医者さんですって!きっといいお医者さんになるんでしょうね!これくらいから自分の夢を持てるなんて、やっぱすごいわ!ご両親のしつけがいいんでしょうね!」


などと言われ、私は愛想笑いを浮かべていました。
その頃は、まだ、本気でがんばれば、夢は叶うと信じていた。それが、幻想だとは、思いもよらずに。


特養での毎日は、本当にきつかった。
毎日が地獄のような日々でした。体は早くも悲鳴をあげていた。学校さえいけていないのに、こんなところへ行く元気があるなら、学校へ行け。と思われるかも知れませんが、私は学校に行くより、ここで多くの事を学ぶ事になるのです。


私が所属していたのは2階でしたが、一日のうちに何度も最上階を行ったり来たり。非常階段を往復していました。重度な障害を抱え、大きな爆弾を抱えた体には、なんとも信じられない日々が続き、ある特養に向かう途中。あの悲劇は訪れました。


自転車で通勤していた私は、その日も重い体を引きずり、特養へと向かっていました。
自転車を漕いでいる途中、急に胸が苦しくなり、心臓が激しく痛みだしました。そして、みるみる内に冷や汗をかき出しチアノーゼが増強。とても、自転車を漕いでいられなく、止まって呼吸を落ち着かせようとしても、どんどんひどくなってきます。そして、私はそのまま意識を失い、倒れてしまいました。


通行人の親切な方が119番通報してくれ、救急車で、運ばれました。気づいたらMY病院のベッドの上で、心電図モニター、酸素吸入、点滴やら、いろいろな管に繋がれていた。
そこには、心配そうに覗きこむ主治医の姿と、母の姿がありました。


意識を戻して、主治医から言われた事。


Dr.「もう、ボランティアを続ける事は無理だ。今すぐやめなさい。このまま続けると、本当に死ぬよ。」


これは、脅しでもなんでもなく、私にも限界は分かっていました。それでも、私はやめなかった。それは、私の中での意地であり、ボランティアとしてのプライドでした。やけになっていたのかも、知れません。自分を見失った最中で、多くの人と関る事で自分を取り戻し、認めてもらいたかったのかも知れません。


それでも、特養での忙しさは私にとって限界で、僅か2週間で、特養をやめる事になったのです。


施設長に話しに行きました。


私『皆さんにこれ以上迷惑はかけられません。これからも度々今回のような事が起きる可能性はあります。皆さんへ与える影響を思うと、このままここで、続けるわけにはいかないと、判断しました。せっかく受け入れて下さったのに、身勝手で申し訳ありませんが、今日限りでやめさせて頂きます…』


活動中に意識を失った訳ではなく、通勤途中で起きた事故だったので、これが活動中に起きると…と、施設長も理解下さり、2週間の活動を終えました。


スタッフや利用者さんには、施設長から話してもらう事になり、私はそのまま、その日の活動を終え、2週間の特養での、活動に終止符を打ちました。


さよなら。
ありがとう。


この特養で、私は人間として多くのものを吸収し、ほんの少し成長した自分をみました。



【2006/11/06 23:04 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
はじめて、面接に行ったのは、特別養護老人ホーム(特養)でした。センターから渡された施設の地図を片手に、面接の日、私はひとりで、向かいました。
たどり着いた特養の、建物は5階建て。緊張と不安でいっぱいの私は、意を決して、門を潜くぐりました。


私『すみません。ボランティアのRessarですが。』
事務「あっ、ボランティアで面接のRessarさんですね。今、担当者の者が来ますので、お待ちください。」


と、言われ、待っていると、すぐに責任者の方が走ってこられました。


責任者「Ressarさんですね。はじめまして。私がここの責任者の○○です。こちらへどうぞ。」


と言われ、ロック式のエレベーターの前まで来ると、責任者の方は、


責任者「ここのエレベーターはすべて、安全のためロック式になっています。番号は○○○○。覚えてくださいね。でも、職員はすべて非常階段を使う事になっています。出来るだけ階段で来られてください。」


ボランティアは、職員同様に扱われます。責任者の方には、私の病気が伝えられてはいるはずですが、特別扱いを受けたくはなかった私は、責任者の方の言われるまま、階段で行こうと決心していました。
それがそもそもの、間違いでした。


責任者の方に連れられた面接ルーム。
そこで、私は色々聞かれることになります。


責任者「ボランティアセンターの○○さんから、聞いてはいますが、ボランティアをどうして、したいと思ったのですか?」
私『自分が生まれたときから、病気で、今まで多くの人に助けられました。だから、その恩を何かの形で世に返そうと思ったからです。』
責任者「病気は、なんですか?」
私『先天性多機能低下不全症候群という病気です。日本では初めての症例で、世界でも珍しい病気といわれています。』
責任者「どういう病気ですか?」
私『簡単に言えば、全身を侵す病で、進行性の病気です。いずれ歩けなくなり、動けなくなり、喋れなくなると言われています。だから、動ける今に、出来る事をやっておきたいのです。』
責任者「こちらで、どのような事に注意すればいいですか?」
私『感染症に非常にかかりやすいので、施設で流行性の風邪や病気が流行っていたら教えてください。出血すれば止まらないので、針を使う作業は出来ません。食事も制限があるので、お弁当を持参するので、提供はいりません。それ以外は、何の配慮もいりません。自分自身で管理していくので、特別扱いはしないでください。』


施設側に、配慮してほしい事は、たくさんありました。階段は、上れないからエレベーターを使わせて欲しい事、重い荷物は持てない事、歩行が不安定になる事。でも、それらを言ってしまえば、何の活動も出来なくなります。はじめに、すべて言ってしまうのは、向うの注意を掻き立てるだけだと、それ以上何も言いませんでした。


責任者の方は、黙ってうなずき、スタッフルームに連れて行きました。


責任者「ここがスタッフルームです。Ressarさんのロッカーは…ここね。あと、注意事がいくつかあります。携帯電話は電源を切って下さい。金属類は外してから活動に入って下さい。時計も指輪もアクセサリー類も、外してください。それから、来るときに一階の手洗い場で手洗いとうがいをしてから、ここに入るようにしてください。」


と、いろいろ言われ、スタッフたちに紹介してくれました。


責任者「この前話したボランティアのRessarさんです。明日から来てもらいます。皆、よろしく。」
私『ボランティアとしてお世話になります、Ressarです。よろしくお願いします。』


週5日、月・火・水・金・の午前9時から午後5時まで。土曜日だけは、午後1時から5時までの活動になりました。


そして、次の日から、活動が開始されたのです。


センターから2つの施設から受け入れを頂いたとの事で、この特養と、もう一つ。在宅サービスステーションM、ディサービスにも面接に行きました。
Mの面接当日。私は不整脈発作が持続し心臓が痛みだしたので、母に付いて行ってもらいました。


Mの責任者の方に言われた言葉が、今も忘れられません。


M責任者「私たちは、いのちを預かっています。」


その言葉は、私がこれからボランティアをしていく上で、支えられ、背中を押された言葉となり、私の中でずっと、響き続かれる言葉でした。


Mディサービスでは、2階での活動になり、活動日は特養が入っていない、週1の土曜日の午前中だけの活動となりました。このMディサービスで出会ったスタッフや利用者さんとの関係が、私の人生に大きな影響を与える事となりました。

【2006/11/06 22:55 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
ボランティア日記?
センターの面接から5日後。週一回の定期外来がやって来ました。


Dr.『こんにちは。この間はごめんね。叱ってしまって。』
私「あたし、ボランティアする事にしたから。」
Dr.『えっ・・・』
私「先生ごめんなさい。もう、面接行ってきたの。来週からボランティアをするに為に研修があるの。2週間、土日以外毎日あるの。」


先生は、あっけにとられ、無言でした。
取りあえず、他の患児も待っているので、診察し、いつものように点滴するための部屋で4時間過ごしました。


点滴中、外来が終わった主治医が部屋に来て、話しこみました。
センターでの面接での事。母の言った事。両親の想い。私の想い。そして、先生の想い。
その頃は外来は、一人で行っていたので、母は送り迎えだけだったので、先生と2人っきりで話し合いました。


Dr.『もう、面接にも行ったんなら、僕が何と言った所で遅いね。君は自分で何でもする子だから、やるとは思っていたけど・・・』
私「ごめんね。先生。でも、ボランティアする事で今の自分を変えられると思うの。危険だとは思ってるけど、あえて、やる事にしたから、今は黙って見守ってくれない?自分の身体は自分が良く知っているから。無理はしない。約束する。」
Dr.『言うと思ってた。Ressarちゃんが決めた事なら、僕は何も言えないよ。』
私「ありがとう。」


決めたら、突き進むべし。
幼い頃から、私はそんな子どもでした。
思っているだけでは、前へ進む事は出来ない。行動あるべし。


翌週から、週5日2週間の研修期間がセンターで始まりました。
母は、毎日自転車の後ろに、私を乗せ、雨の日も風の日も通ってくれました。両親に、迷惑はかけたくない。でも、私の中でボランティアする事はもう、堅く決心していました。


研修時間は1日3時間~4時間。土日や平日と分かれていたのですが、私は平日の昼間2時から6時までのコースを選びました。ただし、週一の外来の日は、お休みしました。
研修内容は、介護と病気の両面の技術と知識でした。
心肺蘇生術も教わりました。
研修時間は、母は部屋の外で、あるいは一度家に帰り、終わりの時間になれば、また迎えにきてくれる、というパターンでした。


研修で、私の他に7人の研修生がいました。
福祉関係を目指す学生さん。主婦の方。専門職に就いている方。
春休みだったので、学生さんの参加が多かったです。


介護の時間では、高齢者の心理についても学びました。
そして、関わる時は同じ目の高さで。という当たり前の事も、1つ1つ学び、吸収していきました。
車椅子1つ押すのも、大変な技術がいる事。そして、人と関わる事には、いつだって『責任』が問われる事を、教えられました。
ただ、人の役に立ちたい。自分がこれまで多くの人から受けた恩を、動ける内に世に、返したい。そんな中途半端な想いで、ボランティアをしたい。と思った私は、この2週間の研修の中で、人と関わる難しさを知り、また、責任とプレッシャーが付きまとう事を知りました。


甘い考えでは、務まらない。


ボランティアは、自己の自由の思想と意思の下、行う事であり、無償だからと中途半端で関わるものではない。


私が、研修期間中、学んだ事です。


一方で、センターの担当者の方は、私が研修をしている間。
各介護施設や養護施設、各ボランティア団体に問い合わせ、受け入れを頼んでくれました。
けれども、研修生の皆は、次々と受け入れ先が決まって行くのに、私は最後になっても、決まりませんでした。答えは、決まってる。
重度の障害があるから・・・。
そりゃ、そうですよね。難しい病気を抱え、活動中に何かあったら、施設側の責任も問われてくるのですから。受け容れ側も慎重になっていたのは、言うまでもありません。


研修期間が終わりに指しかろうとしていた頃。
担当者の方から電話が入りました。


担当者『見つかったよ!!』
私「えっ?」
担当者『受け入れ先が見つかったよ!今ね、2つの施設から面接したい。と連絡が来たよ!』
私「本当ですか?」


他の研修生たちは、受け入れ先が決まったら面接なんてせずに、そのまま活動に入ります。しかし、私は特別に施設側から、面接を言い渡されました。ふつうの人と、病気を持った人との違い。
ここで、私は社会の厳しさを知ることになったのです。
病気を持って、社会に出る事は、そう簡単な事ではない。


私はわずか中一にして、その事を想い知らされました。


受け容れてくれるように、何度も断られながら、それでも微かな希望に託して、あきらめず、問い合わせてくれた担当者の方に、この場を借り、厚く御礼申し上げます。


【2006/11/06 17:02 】 | ボランティア | コメント(0) | トラックバック(0) | page top↑
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